ある奴隷の話。
じょん
第1話
はじめに。
これは「書きたいシチュエーションを書きたいだけ書く」という思い付きで産み落とされた、物語の冒頭部分です。
文章量ばらばらの3分割で大変読みづらいものとなっていることをご理解ください。
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街の中心からやや外れた、人通りの少ない路地を抜け、大きな天幕の前にたどり着いた。ここは奴隷商が営む店舗。様々な理由で商品となった人間が、金銭によって売り買いされる場所。人間とは、この世界で最大多数を誇る人族とそれと友好関係を結ぶ亜人種をまとめた総称だ。
ここでの取引を行う者たちの相当数が、人目を憚る立場であるため、そういった者は夜半に人目を忍んで訪れたり、専用の出入り口を使用したり、または奴隷商自らが客の元に出向いたりと様々だ。ましてや夕暮れ近くとはいえ日中に人目も憚らず訪れる者はほとんどおらず、周囲は閑散としていた。
俺は気にいせず天幕をくぐり中に入っていく。
薄暗い照明の下に照らされた舞台には商品が並べられるに違いない。それを取り囲むように配置された檻の中には商品が入っていることであろう。彼ら、または彼女らはこの天幕から自分を連れ去ってくれる新たな主人が現れるのを待っているのだ。
「ようこそ。今日はどういった商品をお探しで?」
突然背後から声が掛けられた。俺が驚いて振り向くとやや大柄で恰幅の良い男が派手な服を着て立っていた。柔和な笑顔ながら、音もなく現れて全く隙を見せない所を見ると、どうやらこいつがここの主、奴隷商のようだ。
奴隷商は手揉みしながら人の良さそうな笑顔で聞いてきた。その笑顔の裏では俺のことを値踏みしているに違いないが、そんなこと微塵も感じさせないところはその筋のプロというところか。
「そうだな……」
返答に詰まる。目的ははっきりしていたものの、説明はやや難しい。商品を全部見せろというは、さすがに営業妨害になりかねない。馴染みの優良顧客にでもなれば可能かもしれないが、あいにく俺はそうではないし、今後そうなる予定も今はない。
「なるべく長持ちしそうなものを」
「はあ……長持ち、ですか」
俺はあえて、ものという部分を強調してみた。人ではなく、もの。そう言い切ることで、俺が奴隷というものに対しどう思っているかを、奴隷商に対し宣言した。
「年齢は問わない」
「かしこまりました」
奴隷商は手に持ったベルをチリンと鳴らす。すると、どこに待機していたか、背後の影の中から細身の男が現れ、奴隷商の傍らにするりと寄り添った。そして俺には聞こえない程度の小声で、細身の男に何か伝えると、細身の男は足早に天幕の奥へと消えていった。
「ではご用意までしばしお待ちを」
「そこら辺のも見せてもらっても良いか?」
「ええ、もちろんですとも」
奴隷商に案内され、大小の檻が設置された通路へと来た。やや薄暗いものの度の檻の中にも均等に光が当たるよう照明が吊るしてある。檻の中もそれなりに清潔に保たれているのか、さほど不快な臭いはないが、種族特有の体臭はどうにもならないようだ。俺という客が奴隷商に連れられていることに気付いたのか、商品は通路側の鉄格子に近寄り慣れた動きで自らの商品価値をアピールし始めた。しかし、ここでの禁止事項であるのか、鉄格子に触れたり声を出す商品は見当たらない。良く躾けられているなと感心する。
——強さを示すために力こぶを作る者
——頑強さを示すために胸を反らし、その厚さを見せつける者
——美を示すためにしなをつくる者
それぞれが自慢の姿勢で俺を迎える。自分を買えと無言の主張をする。
「なかなかいいのが揃ってるな」
「そりゃもう。この辺りでは随一の品揃えと自負しております」
「見たところ、活きがいいのばかりだが……もうちょっと大人しいのは奥にでも仕舞ってあるのか?」
大人しいの、という俺の言葉に奴隷商の目が反応した。
「左様です。そのような商品は万人受けしませんので。よろしければご覧になりますか」
「ああ、今日の目当てとは違うかもしれんが念のため見ておきたい」
「では、こちらへ」
奥の扉を抜けると、不快な刺激臭が鼻をつく。
血、膿、吐しゃ物に排泄物、様々な薬品の臭い。それらが入り混じって作られた死の臭い。この中に長時間放り込まれただけで、こっち側の人間になってしまいそうだ。俺は顔をしかめながら袖で口元を押さえた。
「申し訳ございません。清潔には気を使っているのですが、いささかキリがありませんので」
奴隷商は悪びれることなく答えた。それでも値段に見合う程度の清掃はしているのだろう。ここに集められたのはそういう商品なのだから。
「先へ行くほど臭いが強くなりますのでご容赦を」
「ああ」
入り口付近は、それなりに程度の良いもの。奥の方には……ということか。全て見る必要がないという配慮は有難い。
まず目につくのは部位欠損。腕や脚が駆けているものはすぐにわかるが、目鼻や耳の欠損は薄明りの中ではなかなか見分けがつかない。ましてや衣服の下にそれがあったのならば、健常者にしか見えない。そういった商品は奴隷商が注釈をつけてくれた。
ここにある商品は、扉の向こう側ほど躾けられていないようだ。鉄格子をつかみ揺さぶるもの、下卑た笑いで話しかけてくるもの、艶めかしい手つきでこちらに手を伸ばしてくるもの、やる気がなく檻の奥で寝転がるものと様々だ。
そんな中、一つの檻の奥に目が留まる。
……へぇ。
詳しい説明を求めようとして足を止めかけたが、俺の注文に沿ったものを用意してくれていることを思い出し、奴隷商の後に続いた。奴隷商は俺が少し遅れたことには気にも留めていないようだ。
「これより先はお客様の好みではないと思われますが」
そう言って奴隷商は足を止め、俺の方を振り向いた。
異臭はだいぶ強くなっており、先にある檻の中には無気力なものとうめき声を上げているものが見える。檻から差し出された手は、別の救いを求めているのかもしれない。
「そうだな。丈夫そうなのは無理か」
俺に医術の心得があれば、健康に戻る可能性があるものの見分けはつくかもしれないし、ましてや神殿の奇跡でも使えるならば……。ないものを期待しても仕方のないことだ。
「そろそろ準備も整いましょう」
奴隷商と俺は元来た扉をくぐって戻ることにした。
並べられた商品は5名。どれも健康そうな女だ。とびきりの美女というほどではないが、見た目も悪くはない。これなら、どれを選んでも多少の乱暴で壊れることもなさそうだ。ただし、夜の相手に限ってではあるが。
奴隷商は俺の顔を見て、やはりこういう連中を用意したか。もう少し詳細に希望を言うべきだったかと反省しつつも、あの注文だけで意を得たりと商品を用意した奴隷商もいささか人を見る目が足らないだろうとどっちもどっちも的な結論に落ち着けておくことにした。
「——こちらはとある侯爵家三女。気候の良い地域でして、これまで大病もございません。牧草地も多く馬術に長けており——」
なるほど貫頭衣から出ている手足が引き締まっているのはそのせいか。日焼け跡とそばかすが残る顔は深窓の令嬢には程遠い。奴隷になどならなければ領地の豪農に嫁げる道もあっただろうに。
紹介された元侯爵家三女は、ぎこちない笑みを作る。自らの境遇に納得できずとも、今後の人生が多少でも好転する機会を逃すまいとする努力なのだろうか。だが、ここで笑みを返すことは彼女に無意味な希望を与えかねず、選ばれなかった時の絶望が大きくなる。俺はあえて無表情を貫いた。
奴隷商は横目で俺の表情を窺い、その意を悟ったのか、もしくは興味がないと断じたかは分からないが、余計な売り込みはせず、次の商品紹介へと移った。
貴族1名、商家の娘2名、平民1名、そして獣人1名。出自も様々だが、奴隷となった経緯もそれぞれだ。4名は債権奴隷らしいが、説明のなかった獣人は……おそらくは奴隷狩りか。違法奴隷の可能性はあるが、わざわざここでそれを指摘するのは野暮というものだ。
長持ちで選ばれただけあって、どの娘も若いが、若すぎてもいない。若すぎる奴隷はその後の待遇に耐えきれず、身体ばかりか心まで壊れることが往々にしてあるからだ。だが、敢えてそうするために幼い奴隷を買う者がいて、それが分かっていて幼い子を売る親がいる。そんな不幸な需要と供給が成り立つからこその市場ではあるが、やはり反吐が出る。
そんなことを考えていたら、どうやら商品説明は一通り終わったらしい。
「以上ですが、検分にまいりましょうか」
「ああ……」
検分という言葉に、並べられた奴隷たちの何人かの顔が曇る。平然としている者は、この一連の流れに慣れてしまっているのだろう。顔色を変えたものは、初めてなのか、それともいまだ慣れないのかは定かではない。検分とは、奴隷の衣服を脱がし、体の隅々まで確認することだ。不良品を隠して売ったとなれば商人としての信用に関わる。商品を売るためには極めて必要な手順ではあるが、それをさせられる彼女たちにとっては納得できないことは理解できる。しかし、いくら嫌がったところで避けられるものではないのだから、嫌がる女を好むという特殊な趣味をもつ客に巡り合える僅かな幸運にすがるくらいなら、嬉々として素肌を晒す必要はないが、受け入れるくらいはした方が将来の展望が開けるというものだ。
「ふむ。お客様はもしや別に興味のある商品がおありのようで」
俺が彼女らの境遇に少しだけ思いを馳せていると、奴隷商がいきなりそんなことを言い出した。
「ん?何のことだ」
俺は思わず問いただす。図星を衝かれたのか、僅かに声が上ずったような気もするが、平静を装う。
「いえ、こちらにご用意した商品にはそれなりに自信がありますゆえ。お客様の反応の薄さはいささか残念であるというか——」
「ああ、良い商品なのは分かる」
「私の心得違いをお詫びしなければならないようで」
「それは……」
俺が返答に困るのを見て、意を得たりと奴隷商の目が光る。
「……片腕の女、などいかがでしょうか」
ああ、この奴隷商は気付いていたようだ。その場では何も言わずにここまで流してきたことは、むしろ俺を試していたか。喰えない奴だ。
「長持ち、の意味を少々勘違いしていたようで。いけませんなあ、私もまだまだ修行が足りません」
「俺の方も注文が足らなかったかもしれん」
「いえいえ、ではお互いに勉強不足だったということで、ここはひとつ」
そう言うと、奴隷商は手元の鈴をチリンと鳴らした。
商品の脇に控えていた長身の男とは別の、ずんぐりとした小男がやってきた。その小男が連れているのは、扉の向こうにいた、あの片腕の女。異臭のする檻の奥で身をひそめるようにしていた女が、照明の下にその姿をさらけ出した。既に用意してあったとは、流石だ。
片腕の女が壇上に上げられると、先に集められた奴隷たちから小さな悲鳴が上がった。片腕の女の異様さ、それは片腕がないからだけではなかった。額、首筋、鎖骨付近、そして両腕にいくつもの大きな傷後があった。傷はふさがっているものの引きつりがあり、そのままでは美しい肌に戻ることはあるまい。腐臭がしないことはせめてもの救いか。
女は、ほかの5名と身長はほぼ変わらないが、貫頭衣からのぞく腕や脚、そして首も明らかに太く、そして固い。そして何よりこちらを睨みつけてくる瞳は、その眼力だけで射殺すことができそうだ。彼女は自らの醜さを一切恥じることなく周囲を威圧していた。
……ああ、この目だ。俺もあの時、こんな目をしていたに違いない。
「どうなさいます?このまま全員の検分を続けますか。それとも……」
「ふむ、怯えていては検分もなにもないだろう。必要ない」
最初に並べられた5名が恐怖と不快に顔を歪めているのを見れば、その理由を想像するのは難くない。片腕の女、その、貫頭衣に隠された身体を見ることが恐ろしいのだろう。
「では」
奴隷商が最後まで言葉を発せずとも理解できたのか、長身の男は5名の奴隷を連れて、天幕の奥へと去っていった。残されたのは、片腕の女ただ一人。
こほん、と奴隷商は咳ばらいを一つ。仕切り直しである。
「こちらは、先の戦争の生き残り。敗軍に所属する山岳部族の将の末娘。戦場では死んだものと思われ置き去りにされたそうです。一命は取りとめましたが、十分な治療もできずこのような姿に。しかしがら本人の驚異的な回復力か、または幸運かは知りませんが、感染症の類にも侵されず、片腕がない以外は至って健康。しかし——」
「見た目か?」
俺のつぶやきに奴隷商は頷く。それに応えるように小男が片腕の女の貫頭衣をはぎ取った。予想した通り、体中に大小の刺し傷、切り傷が残り、えぐれ、陥没している部分すらある。
「無論それもございますが、少々別の問題が」
「なんだそれは」
俺の興味に気をよくしたのか、奴隷商は流れるように言葉をつづけた。
「実は、いまだに男を知りません」
「はぁ?」
思わず間抜けな声が出た。途端片腕の女が、顔を赤くした。鋭い 眼光はそのままだが、なんともずいぶん可愛げがある顔をするじゃないか。それにしても、片腕の女はどう見ても20代後半。この年で処女とか商品価値がないにもほどがある。
処女の奴隷は商品価値が高い。だがそれは、若ければ、という注釈が付く。年増の処女など奴隷でなくても面倒なものだ、ましてや奴隷ともなれば、処女を捨て自分好みに慣らすための手間など、余程の酔狂でなければ受け入れられるものではない。さりとて、夜伽が目的ではなかったとしても、男慣れしていない女というのは、問題が起きた時の対処に雲泥の差がある。したがって、そういった酔狂な好事家向け商品は器量を整え、事前の告知とともに競売場に出品されることになるのだ。
競売に出せないような商品は、売りに出す前に処女を捨てさせ、慣らすことも躾けという名の調教の一つだ。躾けには、素質のある者には教育を施したり、武器の扱いを仕込んだりという、商品価値を高める作業も含まれる。居を構える奴隷商は、その設備と人員も確保している。社会的弱者の掃きだめではあるものの、本人の素質と努力次第では、それ以前より良い暮らしが出来る可能性を得ることのできる必要悪としての側面も強い。
対して目の前の商品、片腕どころか傷だらけ。歴戦の兵の風格を纏いながらも未貫通な生娘。さすがにこれでは売り物にならない。逆になぜこの商品が処女なままなのか興味が沸く。
「実は、躾けの最中に暴れ、引きちぎりまして」
俺の疑問を察したのか、奴隷商はさも申し訳なさそうに続けた。
何を、とは問うまい。その、哀れなる男うを少しだけ不憫に思う。ならば薬で眠らせて事に及ぶことも、道具を使うこともできるだろうが、それは本末転倒。男になれるわけではない。
つくづく面倒な女だ。これでは売りようもない。俺は素直にあきれた。
「へんっ、引きちぎられる程度の粗末なモノぶらさげてっ!情けない声で泣き叫びやがって。いい気味だ!!」
全裸の、その全てを明かりの下にさらけ出しながら一切を隠すことなく、女は吠えた。
見た目も悪いが、口も悪い。いや元の見た目は良かったのだろう、見た目が悪くなって性格が歪んだ?いやいや元からに違いない。傷がなければかなりの美人、身体も引き締まってはいるが、出るべきところは出ている。胸がもう少し大きければ引く手数多、部族の華だったに違いない。
「利き腕は?」
女の怒声を気にも留めず俺は奴隷商に尋ねる。
「残念ながら」
「そうか」
失った方が利き腕、か。ならば怒声に含まれた絶望もひとしおだろう。得物が何であったかは知らないが、二度とそれを振るうことができない事の無念を、この女はどれくらい抱えてきたのだろうか。
「したがって、戦にはいささか不向きかと」
「やりようはあるさ」
「それは不勉強でした」
奴隷商は笑顔のまま謝罪するが、その目は笑っていない。あくまで、俺を値踏みしている。俺はそれを無視して、女の目を正面から見据え、わざといやらしい笑みを作った。
「なあ女、俺に買われたら、俺のモノも引きちぎるつもりかい」
「!!当たり前だろうっ!貴様らような下種はたとえ片腕だろうと腸まで引きずりだしてやるっ」
女は顔を真っ赤にして吠えた。羞恥か、怒りか、そのどちらもか。
「よく鳴く犬だな。そんなに嬉しがらなくてもいいだろう」
「なっ!?ふざけるな!畜生に犬呼ばわりされる謂れなどないっ」
客に暴言を吐き続ける商品に対し咎めるでなく、むしろ楽しむような眼で眺める奴隷商。分かってるじゃねえか。長持ち、というか生き汚く生き延びる奴ってのはこれくらいでないといけない。従順な奴はそれゆえに簡単に死ぬ。
「貴様などに買われるなど死んでもごめんだっ!ていうかこの場皆殺しにしてやるっ」
「おいおい、さすがに皆殺しは物騒だからやめとけ。それとな」
周囲の空気が一瞬冷えるのを感じ取ったのか、奴隷商が顔をしかめ、女は主に染まった顔に怯えの色を映した。
「な、なんだよっ」
それでも噛みつくのを忘れない虚勢は褒めるべきか。
「死ぬなんて簡単に言うんじゃねえよクソアマ。そういうのは処女の一つや二つドブに捨ててから言え」
「なっ——」
言葉が継げずに口をぱくぱくさせる女を見て満足した俺は、凍り付いていた空気を弛緩させるように肩をすくめて見せる。そして今日一番の笑顔で。
「おいオッサン、コレ買うわ。いくらだ」
「いやはや、お出しするにはあまりにも恥ずかしい品質ではありますがよろしいのでしょうか」
「そう思ったんなら勉強してくれよ。そうすれば、次が早くなる」
「そういうことでしたら、喜んで」
次回の商品購入まで匂わせると、奴隷商は納得したように笑顔になる。これだけ手に余る商品だ、売りさばけるなら奴隷商としても有難いに違いない。戦時であれば頭数目当てにどうとでもなるような商品でも、残念ながら戦争は終わり、平時となってはそうはいかない。抱えた余剰在庫で売れそうなものは、今ごろ他国に多数流されていることだろう。
「ちょっ、貴様に買われてやるなど一言も言ってないぞっ!!だいたい貴様のような——」
「いやちょっと黙ってくんないかな。そんなに怒ったらかわいい顔が台無しだぞ?」
「かっかわわ?」
女が壊れた。うん、やっぱりちょっと可愛いじゃねえか。元はこうだったのだろう。あ、また思い出したように怒り出した。見ていて飽きはしないが面倒な奴だ。
いざ契約となれば、その手続きは粛々と行われる。直前まで訳の分からない罵声と怒声を上げつつ暴れていた商品は、今は大人しい。疲れたのか、それとも諦めたのかとも思ったが、その瞳に生気がないことに気付いた。
「盛ったか。いつの間に」
「はい、仕方なく。ご安心を、契約が終わりましたら、すぐにでも解けます」
薬か魔術か。どちらにしても契約後は元通り。あとは買い取った俺の責任というわけだ。それを縛るための契約なのだから仕方がない。
「後遺症はないだろうな」
「無論、万全を期してございますのでご安心を。よくあることですので」
契約は書面と契約魔術によって行われる。契約書は国の奴隷省、もしくは地方であればその領主に提出され保管される。契約魔術は作成された契約書と対になり、双方の契約者と商品——この場合は奴隷商と俺、そして奴隷に掛けられる。契約者同士は契約に対する違反行為、詐欺や転売、その他法令違反に対するい場所の特定や罰則の発動。これは奴隷売買に限ったものではなく、国の取引全般に用いられるものだ。もっとも、契約書作成や契約魔術行使にも費用が掛かるため、少額取引や口約束でも使用されることはほとんどなく、平民はそれを目にする機会はほぼないであろう。奴隷に関しては、扱うものがものだけに、たとえ少額であっても、契約書と契約魔術両方の行使が義務付けられている。どの業界でも違法取引というのは存在しており、一切の契約なしに奴隷が売買されることもあるらしいが、発覚すればきわめて重罪となる。
さて、奴隷という商品に対する契約魔法だが、こちらは基本奴隷紋と奴隷環の2種が存在する。奴隷紋は契約紋を奴隷本人の体に刻む。高価ではあるが身体のどこであっても刻め、解除するまでは決して消えない。また、詳細な制約を定めることが可能なため、高価値な商品に用いられることが多い。刻むとき少々の痛みが伴うが、そこは我慢してもらうしかない。
奴隷環は奴隷の首や手首、足首などにつける特殊な枷、仕様素材は様々だが金属製が一般的で木製、革製などあるが、どれを選んでも魔術で強化してあるため、通常手段での破壊は困難。そして万がいち破壊されても奴隷本人に罰則が与えられるため、壊そうと試みるものはまずいない。なにしろ、発動される罰則は死、もしくはそれに近い苦痛であることがほとんどだからだ。そして奴隷環に刻める制約は、奴隷紋には劣る。自死、逃走、持ち主への危害禁止という奴隷三禁則程度。金を積めばいくらか制約を追加できるそうだが、それならば最初から奴隷紋にすべきであろう。奴隷環は装着時に痛みなどないが、何しろ取り付ける場所が場所だけに、目立つことは避けられない。むしろ、それこそが一番の目的であるとも言える。
奴隷紋や奴隷環以外の奴隷契約方法、また先に上げた装着場所と素材以外の奴隷環は観たことがないが、存在しているらしいということは聞いたことがある。手間暇をかけて飾り立てたがるもの好きはどこにいてもおかしくはない。
全ての奴隷契約に共通のものとして、罰則権限が存在する。主に命令違反や命令不履行に対し、任意で発動が可能となる。命令違反や不履行に対し自動発動でないのはせめてもの慈悲かもしれないが、一瞬であれ死んだほうがましな程の痛みは受けたくはないだろう。
俺は、あえて簡素な金属製の奴隷環を選び、それを首に付けさせることにした。奴隷に無駄な制約を付け縛るつもりもないし、複雑な制約はいざという時行動が制限され命に係わる。なにより、見える場所にそれがあることによって、奴隷であるという自覚を持たせなくてはならない。特に、目の前にいる女はその必要があるだろう。
契約書にサインをすると、書面から淡い光が浮かび上がり、脇に置かれた奴隷環に吸い込まれた。いつの間にか奴隷商の背後に戻っていた背の高い男はそれを手に取り、女の首に填めた。女が先ほどまで付けていた木製の奴隷環は既に外されている。鍵穴はなく、これを外すためにはしかるべき場所でしかるべき手続きが必要になる。もしくは、契約書に記された解除条件が達成された場合、その場で奴隷環は壊れる。これが奴隷紋であれば、跡形もなく消えることになる。
言い忘れていたが、契約書にサインする前に支払いは済ませてある。安くしたとは言うが、相応な値段だ。
さて、契約も終わったのだが、女は元に戻るのか?ああ、名前も既に聞いていた。女の名はイゼルナ、なかなかに強そうな名前じゃないか。悪くない。
俺が思い出したように感心していると、女——イゼルナは目を瞬かせた。俺と、奴隷商を見比べ、そして首にあるものに気が付いてそれを指で触れる。それはひんやりとした金属の感触。それは持ち主が変わったことの証。
驚き、怒り、悲しみ、そして絶望へと一瞬で変化するいイゼルナの顔。俺に掴みかかろうとするも、その動きを止めた。自らの首に巻かれた奴隷環の存在を思い出したのだろう。奴隷が持ち主へ危害を加えることの恐ろしさを。
「おう、起きたか女。これからよろしく頼むわ、い・ろ・い・ろ・とな」
「きさっ……!」
ほほう、挑発に乗らないだけの分別はあるじゃないか。
「さあさイゼルナさん、あなたの新しい門出に祝福を」
「じゃあな、オッサン。また世話になるかもしれねえが、そん時はまあ、頼むわ」
「またのお越しを心より」
社交辞令的なやり取りをして、俺は天幕の外に出た。後ろを振り返るとイゼルナは真っ青な顔をしながらもついてきている。その顔は死人のようだ。
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