断崖の錯覚 太宰治

ノエル

どこの馬の骨ともしれぬ自惚れ男の錯覚が生んだ少女の逆襲劇。

オラが木こりになったなあ、小さなガキの頃、そうさなあ、七つ八つの頃のことさな。もっともその頃あ、本式の木こりとは言えねぇかもしんねぇが、親爺の跡を継いで、まっとうに稼ぎになったなぁ、十八になってからだな。

たまたま同じ村の爺さまの孫だった、いまのカカアと一緒になったのが、ちょうどオラが二十歳ンときのこンだ。そして娘のタキが生まれたのが、五年も経ったあとのこと。もう子供は出来ねぇべと諦めていたときのこったから、それあ、喜んださ。

器量はよくねぇけんど、オラたち二人にとっちゃあ、タキは宝もんだった。その娘が年頃になって、なんの因果か、こともあろうにこの町一番の料理旅館「百花楼」の一番番頭をしていた種吉と恋仲になっちまった。しかも、種吉には女房子供がいると来ている。

と、なれあ、別れさすしか手はねぇやな。ああだのこうだの、宥めすかして、別れさしたはいいものの、タキの腹ンなかにあ、しっかりと子種が宿ってござった。それがいま、「いでゆ」で女給をしている、孫のタケという訳サな。

タケは、母親に似て、あんまし器量はよくねかったが、それなりに気風のいいおんなにはなったと、オラは思っとる。あんコが十二になったとき、種吉の縁筋もあって、百花楼に奉公に出した。年頃になるまでにちったあ、行儀作法の類を仕込んどけば、先行きよいこともあろうよと、まあ、要らぬ老婆心ならぬ老爺心ってやつサ。

ところが、行儀作法のギの字も覚えぬうちに、せっかく周りが骨折って世話してくれた百花楼をやめたいと言い出した。話を聞くと、ああ、見えて身持ちの固ェ女だ、泊り客が湯殿に続く裏口を使って女を連れ込んでは、お愉しみをしているのが気に食わねえんだとぬかしやがるのサ。

あれが言うには、あたしぁ、女中じゃなくて女給のほうが向いている、女中には自由はねぇが、女給にはお客さんと対等に話せる気楽さがあるっていうんだナ。それで、仕方なく、伝手を頼って、あの喫茶店に寝泊まり付きで勤めさせることにしたんだョ。

そのほうがこっちとしても、飯代は助かるし、しがない木こりの仕事の足らず前に充てることもできるってェんで、カカアも娘も一安心だわな。噂じゃ、『女給は見た!』という小説を書いた偉い流行作家先生がお忍びで来店したこともあって、百花楼の近くにある「いでゆ」はそうしたおんなたちの垂涎の的になっておったわナ。

で、入ってみると、やはりタケの予想した、噂どおりのありさまよ。「いでゆ」の女給たちは入れ代わり立ち代わり、入っちゃ辞め、入っちゃ辞めってありさまで、若いコがひっきりなしにお目当ての作家先生を目掛けて通ってくる。逆にそうした若いオンナの子たちがいるってわけで、それを目当てのオトコ客も多く出入りするってワケで、なにはともあれ、シッチャカメッチャかな店にはなっておったんだわな。


◇◇◇


あれはもう、五年も前のこと――。皆は忘れっちまってるかもしんねぇけんど、あの当時、雪という女給がいて、いわゆる文学少女っていうのかなんというのかしんねぇが、つい男前の作家先生とみると、なんだかんだと近づいて行っては飲めない酒をしこたまよばれた挙句、一晩一緒に過ごしたりする、身持ちの悪い、というよりア、頭のユルい純情なだけのおんなのコがいたのっサ。

それあ、頭がユルいったって、器量はいいし、身体は柳のようにしなる柳腰だ。ま、当世でいうところの、そのなんというのか、頭は短く切って、ザンギリ頭の、いまどきのオンナさネ。誰だってその気になるおんなってなあ、ああいうのを言うンだべ。このオラでさえ、もう少しを若けれあって気になったくれェのもんさ。

その点じゃ、わが孫の、しもぶくれのおかめ顔に日本髪の出で立ちじゃ、ハイカラさでは適いっこねぇわな。しかし、なんとまあ、よくしたもんで、親ばか小ばかの手前味噌になるが、わが孫も捨てたもんじゃねくて、それなりに客を集める力はあったんだよ。

そン証拠に、その雪って子がいなくなったあとも、店は繁盛してるし、相変わらず、オトコ客は群がってるのサ。そんなことはまあ、おこがましい話だで措いておくとして、その五年前、とある新進作家先生がふらりと、その店に立ち寄ったのサ。

そいつあ、孫にいわせれあ、二十歳にもなるかならずかの若い男で、年端もいかぬのに妙に尊大ぶって、歳に似合わぬ高等な身なりをしているところから、およそどこかの成金息子の類いじゃあるまいかと皆で噂していたところだった。なにぶんにも、百花楼に出入りする宿泊客の動向は「いでゆ」の連中には筒抜けになっていたからね。

狭い田舎の料理旅館、いくら有名な老舗だからって、まだ見習い途中の女中の口に戸は立てられやしねぇさな。皆が内緒で、女中たちの噂話をネタに寄ってたかって憂さ晴らししようって寸法ョ。だから、その男が若えのに妙に気取った話し方をして、いっぱしの作家気取りで話すものだから、おんなどもはみなキャーキャーと浮かれ騒ぐ。ついには、お外へ噂がこぼれ落ちて、男がしたり顔で街を歩けば歩いたで、その一挙一投足が逐一、おんなどもの耳に入ることになる。


◇◇◇


ご多分に漏れず、その雪っておんなも、その男の伊達ぶりにいかれちまった。根は純情なのだが、純情なだけにその分、惚れっぽい。孫のタケに言わせれあ、自分が飛んだ食わせものだなんて思ってやしねえ。ま、いわば、親もなし、兄弟もなしの可哀想な身の上を抱えた「寂しい、一人ぽっちのおんな」なんだ。

タケが言うにあ、その流行作家だか新進作家だか知らないが、伊達を凝らした男がしこたま飲んで、ふらふらしながら宿に帰ったあとの夜のこと。布団を二つ並べて隣り合うタケに雪が小さな声で言ったというのサ。

「ねえ、たけちゃん。起きてる?」

「ええ。起きてるわ。どうしたの。なにか相談事でもあって」

タケはいつもにない、神妙な気配を雪に感じたらしい。自分もなんだか眠れなくて、煌々とした目を天井の暗闇に向けていたんだそうな。

「実はわたし、……汚れているの」

「ん? なに。なにが言いたいの」

「わたし、生娘じゃないの。そんなふりはしていたけれど……」

「知ってるわ」

「そう。知っていたの」

「そりゃ、わかるわよ。夜になっちゃ出かけて行って、朝になったら帰ってくる。それもお客さんを送りに行ってのことなんだから……」

「そうよね。みんな判っちゃうんだよね」

「うん、みんな知ってるよ。でも、あたしは雪ちゃんにそんなことして欲しくないの」

「なんでかしらね。お酒を飲むとああなっちゃうの。こんなあたし、もう死んじゃったほうがいいのかしら……」

「なにを言ってるの。莫迦なこと言わないで」

「馬鹿じゃないわ。本当に死にたいの。こんな自堕落なおんな、死んだほうがいいって、いつも思ってる。こんな人生じゃ、生きてる価値がないって……」

「誰だって辛いときはあるわ。でも、それを乗り越えてみんな、生きてるの」

タケはそのとき、父なし子である自分の身の上も話し、これまでどんな屈辱に耐えてきたかを話して聞かせたっちゅうけんど、それがどれだけ雪の心に届いているかはわかんねかったという。「いまとなっては、すべては後の祭り」というのが、タケの、あのコを語るときの口癖みてぇになってる。よっぽど悔しかったんだべな。

もう少しオラがしっかりしてれば救えたかもしんねえが、あれはタケの思いやりのなさの所為なんかじゃねえ。男のほうも、自分の仕業みてぇに思ってるかもしんねぇが、言ってみれあ、それあ、あん男の錯覚だあ。

あの日、オラはたまたま通りかかった杣道を歩いてるふたりを見かけたが、そんときあ、まんだ、その男連れのおんなが雪だとは知らなかった。

「いでゆ」の雪のことは、タケから聞いて知ってるだけで、実際に見たこたあなかったし、男のほうも都会じみた、身なりのいい優男にしか見えなかった。後ろから見てると、恋人同士のようでもあったし、微笑ましくも思って、あの崖っぷちに向かっていくふたりを眺めていた。なーん、後を尾けたわけでもねかったし、そんな気持ちもねかった。

ただ、なんの気なしに、ふたりが崖の上に降り立ったのを遠目に見たとき、ふと妙な予感を覚えた。オラのいるところからは、ふたりが立っている崖の様子がよく見えた。

おんなは、気持ちよさそうに思いっきり両腕を伸ばして深呼吸すると、男においでおいでをして、自分と同じように下を見るように促したように見えた。その動作に釣られて男の脚が一歩進み、その右手がおんなの背中に伸び、触れようとした、その瞬間、おんなの姿がそのまんまの姿勢で、ほんとにポンと縄跳びでもするように、空中に浮かんだ。まんで、スローモーションとかいう、あれとおんなじシーンだった。いまでも、あの光景は忘れられん。着物の紅い裾が広がり、白い足がすうっと下へ墜ちて行った。

最初は、男が突き落としたのではないかしらんと、わが目を疑った。

だが、突き落としたのなら、前へつんのめった姿勢のまま、重い頭を下にして、逆しまになって落ちていくはず。あれは明らかに自ら飛び降りた残像なんだ。

そう思って見ると、そのさまは、まるで映画そのもンじゃった。男は身動きもせずに、ただそこに突っ立ったまま。なにも言わず、呆然としていた。しばらく下を見まいとしている様子だったが、近づいて行ってみると、男は膝をつき、崖に両手を置いて千尋もあろうかと思える眼下を覗きこんでいた。

オラは男に問うた。

「なに見てござる?」

男は平然として答えた。

「女です。女を見ているのです」

確かに、その眼の遥か先には女がいた。しかし、それはさきほどオラが目にしたおんなではなかった。つまりは、おんなではなくなり、ひとつの肉塊と化した人間の骸がそこにあった。浪際に打ち寄せられるおんなの肉塊が行ったり来たりしていた。

確かに着物の赤さからいえば、女ではあった。少なくとも男ではあるまい。

だからこそ、男はその遺体を見て、ひとではなく「女を見ているのです」と答え得たのだろう。ついさきほどまで一緒に笑いあい、ともに歩いていたそのおんなを、あたかもなにかの物体でもあるかのように「女」を見ていると言い切る男の冷酷さに、オラはいましがた見た、あの飛び降りシーンの残影を思い起こした。

あれは、確かに自殺だった。男をその気にさせるための芝居だった。旅先の戯れに女を抱き、身勝手な理屈で自分を殺そうとした男へ、痛烈な逆襲を試みたおんなの情念。その凄まじい情念が男の心にしがみ付くはずだった。そしてついに雪は、男をあの崖っぷちに誘い込むことに成功した。


◇◇◇


あの事件があったあと、タケからあの「女の死体」が雪の死骸だったと聞いて、オラは合点がいった。可哀想な雪、なんてことをしてしまったの。タケは、オラの話を聞いて、何度も何度も同情の涙を流し、おいおいと泣いた。どこの馬の骨ともしれぬ無能物書き男が新進作家の名を騙り、純情なばかりに己を蔑んだ少女の幼気なさにオラも涙した。

おそらくあの男は、その後も悔いて生きていくことだろう。有名な作家になっているかどうかは知らないが、消しても消えぬ、あのシーンを一生、忘れることはあるまい。


出典 https://www.honzuki.jp/book/238040/review/262213/

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