短編徒然

カンゲツ

第1話 癖のある者を見た ①


 バーのカウンターで酒を呑み続ける女の足元は、水浸しになっていた。秀史ひでふみは隣のスツールで震えながら、水溜まりの所々に浮かぶ、溶け残ったグラスやネクタイから無理矢理目を剥がした。



「…言ったでしょォ?べぇっつに、殺しちゃイナイってばぁ~」



 口調や態度こそ泥酔者のそれだが、女がそれほど酔ってない事はとっくに承知していた。それに、助けられたのも事実であるし、酔っていたとは言え、最初に男達へ声を荒げたのは秀史自身なのだ。


「━━うふふ。嬉しかったんだよォ…?おにぃさん、あたしを助けようとしてくれたんだから…」


 しかし、それも余計なお世話だったんだと思い知らされた。そもそもバーの店主はこの女、酔っ払いに絡まれあしらう事など日常だろう。普通の店ですらそうした対応は出来るというのに、ことさらこの女にそんな心配など無用だった。酔った勢いで割って入った自分が愚かしい。


「…格好良かったよ…おにぃさん…」


 バーテンダーらしい黒のベストに白いシャツの、開いた胸元の谷間が秀史へにじり寄る。三十代後半に見えた大人の色香についさっきまではエロいなと思っていた、それが今は恐ろしい。

 震える手の中で大きめのグラスと丸氷がカチカチと音を鳴らす。夢では無い。だから恐ろしい。恐ろしくて目を逸らした。


「━━━おにぃさんも、毎日で疲れて、傷付いて、お酒で自分を癒しに来た、癒しが必要なひと、そうよね…」


 女店主が僅かに身体をくねらせる度、座るスツールが回りキィと小さく音を立てる。見ていないのに女の挙動が耳に届いて、怖くて仕方がない。次は、自分が溶かされるのか。さっきの三人の様に。


「バーっていうのはね、そういうところよ。別にお酒を呑むだけなら、買って家で呑めば安く済む。……お客さんが求めるのは、高いお金を出すのは、整えられたあったかい雰囲気のなかで、誰かに、話を聴いてもらいたいから……そこに行けば、誰かがいるから……」


 聞きたくないのに頭蓋へ染み込む女の言葉。秀史だって、いつもの町のいつもの店へ行けば、心地好い空気と酒に心をほぐされ、微睡みながら家路へついたのだろう。でもそこじゃ、美海みうにばったり会ってしまうかも知れない。だから普段降りない駅でふらりと下車し、足の向くまま知らない店へ入ったのに、そのおかげでこの有り様だ。


「━━ンく、ふぅ……ほぉらほぉら、呑みましょォおにぃさん…今日はもう店仕舞い。バーテンダーはね、カウンターの中から出て、カウンターの椅子に座って、自分のお店を眺めながら呑むひとときが、一番リラックス出来るの……自分の城を酒の肴に呑める、それって凄く贅沢な時間なのよぉ……」


 瞬間、かっと熱く漲った活力を、秀史はどちらへ振り向けようか迷った。この店を飛び出るか、それとも更にグラスへ注がれてしまった酒を呑み干すか。だがその前に、うつむいた視界へ女の顔が滑り込んだ。



「……その時、隣にいる事を許すのは、トクベツな人だけ……」



 薄暗い店内で女の目が妖しく光り、それから逃れたくて秀史はウイスキーを喉へ流し込んだ。一気にあおったスモーキーなシングルモルトは、それでもすんなりと胃に落ちてゆく。焼けた食道から立ち上る燻した香りを吐き出し、勇を鼓して秀史は口を開いた。



「お会計」


「ヤダ」


「帰る」


「帰さない」



 ここにきて初めてじわりと出る汗を感じた。

 どうしたらいいのか。何をすればこの不気味な女は満足するのか。いきり立って秀史を取り囲んだ三人の男は、一瞬で腰まで床に沈んでいた。溶け、水溜まりになり、カウンターから出てきた女店主は黒いヒールでぴちゃんと踏んだ。唖然としていた男達は、水に呑まれていなくなった。自分もそうなるのか。


「……俺も、あいつらと同じように、ころ、殺すのか?」


「だぁーかーらぁー、コロしてないってのにィ~もぉ。……ま、どこ行ったかは知んないけど」


 なんだそりゃ。


「知んないけど、死んじゃイナイよぉ?それは分かンの……なんでかって聞かれても、そこはあたしにも分かんない!あははっ!」


 なんなんだ。なんなんだ?漫画じゃあるまいし、謎の能力を持った人間に、こんな所で鉢合わせるなんて!!


「言うなればァ……なんてのかなぁ……癖?」


 なにが?


「無意識なのよね…あんまり、自分でコントロール出来ないの。つい、癖で、っていうのが一番しっくりくるかなァ……」


「くっ 癖で、人を溶かす、のか?」


「うん。まぁ…人の、さが、かなァ…」


 何を言ってるんだこの女は。


「さっきの人らもね、傷付いてたの…疲れて、へとへとで、傷付いてたからバーに来たのよ……それはぁ、おにぃさんもおんなじね……」




 限界だ! 逃げる!!




 秀史はスツールを蹴倒す勢いで駆け出した。だがその一歩目、踏み出した左足がくるぶしまで床に沈み、大きく前によろけてカウンターにしがみついた。



「はぁっ!はあああっ!?」


「ダメよぉ…もうやっちゃったもの…つい、癖でね?」


「はぁっ はぁっ はぁっ!!」


「傷付いた人を見るとね、つい……助けなきゃってねェ……」



 秀史はもう、声の主を振り返る事も出来ない。すでに両足太ももまで床に広がる水溜まりに呑まれ、両手でカウンターのへりを必死に引き寄せている。



「だぁいじょぉぶ大丈夫ゥ……リラックスしてぇ?すぐ終わるわヨ……たぶん……」



 たぶんてなんだ!?たぶんで人を殺すな!!



「こッ!! このイカれ野郎ッ!!!」



「うン……また、機会があったらいらっしゃいね……」




 秀史の視界はどんどん低くなり、カウンターからつるりと滑った指の間に見えた、グラスを傾ける女の顔を最後に、真っ暗となって、何処へとも知れず、深く、深く、沈んでいった。







 秀史が大草原で暮らす様になって、もう三年が過ぎた。


 草原に倒れていたところを、遊牧を生業として移動式住居で生活する朝青龍そっくりの者達に拾われて、訳が分からないながらも既に、もう日本へ帰る気はなくなっていた。


 一年前に民族の娘と結婚し、子宝に恵まれた今は毎日が充実していた。夜明けから日暮れまでへとへとになるまで働くが、それはとても気持ちの良い疲れだった。



 秀史は幸せだった。あのイカれ女のバーへ引き寄せられる事は、二度と無いだろう。



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