さくら便り

糸田すみれ

第1話

うわぁきれいだなぁ。こうやって木の根元に立って見上げたら、ピンク色したさくらの花のすき間から見えてくる青い空とのコントラストがステキなんだよ。それって歌えるんだ。ってお母さんが言ってた通りだなぁ。

お母さんって詩人だったなぁ。今頃お母さん、歌いながら雲の上に乗って、風に流されてるのかもしれない。辛い時苦しい時、優しかったお母さんの事を思い出すと、心がホッコリするなぁ。


「またやられたの?優介くん」「今度は踏みつぶされた」「相変わらず男前のお姉ちゃんだねぇ」「天国にいるお母さんの代わりに、僕を鍛えるんだって」僕とお姉ちゃんのランドセルをお腹と背中に抱えて、ふうふう言って通う通学路は、まさにフルマラソン42.195㎞完走だ。

「マリオ3Dワールドは、そもそも協力プレイが必須なのに、お姉ちゃんは単にコイン獲得、単独一人勝ちしか頭にないから、あのままだと、絶対嫁に行けないよ」「優介くんの数少ない友達の一人として忠告するけど、間違ってもそれをお姉ちゃんに言わない方がいいよ」「亜紀ちゃんにはわかんないよ。あのコミュ力のなさ。僕はおやつを食べながら時刻表を見るのが楽しみなのに、イマドキのオトコはゲームで男前になれ!って強制して、結局は自分がラクする事しか頭にないじゃん」

そんな怒りと呪いを抱えた苦しい毎日が続き、僕はというと、こっそりお姉ちゃんが将来おひとり様人生を歩む事を願っていた。いつかお姉ちゃんが嫁に行けず、一人ぼっちになって困った時が来たって、絶対に助けてやるもんか!と僕はひとり心で誓っていた。

そんな黒くて大きな塊を呑み込む日々の中、たったひとつ僕を救ってくれるものがあった。


ガラガラガラ。あっ、滑車の音が聞こえてきた!森田さんと福ちゃんだ!「おはよう優介君、亜紀ちゃん」ああ、森田さんの、メガネの奥の優しい目が笑ってる。ほっ。「おはよう森田さん、福ちゃん!」僕と亜紀ちゃんは、そろって大声で挨拶するやいなや、ゴールデンリトリバーの福ちゃんの毛皮に突進した。がつん。と、福ちゃんの横っ腹に二人して飛び込む。

「優介君、口から福ちゃんが飛び出てるよ」「亜紀ちゃんは鼻の穴からだよ」福ちゃんの毛って、顔と心にしみ込む優しさだなぁ。と、福ちゃんの毛皮に顔ハンコをつけた僕と亜紀ちゃんは、お互いの顔を見合わせて、大きな声で笑いあうのが日課だ。


『こどもを守るおやじの会・パトロール中』の大きな四角い筒形の看板を、ゴールデンリトリバーの福ちゃんが、小さな引き車に乗せて引く。リードを持ってる森田さんちのおじいちゃんが、今日も子供達の通学路を巡回している。

町内を管理しているとか何とかの、森田さんちのおじいちゃんは、僕たちの中ではジジドルだ。いつもニコニコしてて、とても優しくて温かい眼で僕たちを見てくれる。

さらに体感温度を上げてくれるのが、引き車担当のパトロール隊看板犬、福ちゃんだ。犬は飼い主に似るのか、福ちゃんは僕たち子供たちにもみくちゃにされても、いつもおだやかで、みんなのされるがままになってくれている。ああ、福ちゃんの毛皮って、宇宙一のウールマークだ。うっとり。僕のゆううつな朝を救ってくれるのが、ジジドルの森田さんと、このふかふか毛皮の固まりの福ちゃんだ。このツインズのおかげで、重たい二つのランドセルも、心なしか軽くなって来て、僕の心の支えとなっている。…のだけど、そんな僕のホッコリに水を指す一声が今日も響いてきた。

「はやく渡りなさい!」怒声が響く。みんな一斉に凍り付く。藤井さんだ。


朝の通学する時間帯、黄色い発光色のベストを着た、近所のおじいちゃんたちが、ボランティアで横断歩道の交通誘導をしてくれる。

車が来たら、『横断中』と書かれた黄色い旗でシャットアウト!その間に僕たちは、わらわら横断歩道を渡って行く。おじいちゃん達はみんな優しくて、いつも僕たちに「おはよう」「いつも元気だね」とか優しく声をかけてくれる。

…のが、普通だと思っているんだけど、そうじゃない人もいるんだなぁ。これが。

「もっと元気に挨拶しなさい」と怒声がそこら中に響く、しかめっ面の藤井さんだ。

いつもイライラしてて、毎朝子供達に怒鳴ってる、藤井さんって、どうしてあんなにいつも不機嫌なんだろう。訳が分からず、不思議に思っていたんだけど、ある日亜紀ちゃんがそっと耳打ちしてきたんだ。「藤井さんって、奥さんと子供が家を出ちゃったんだって」「そうだろうねぇ」と僕はオウムのように返した覚えがある。いつの間にか、町内の話はそこかしこに知れ渡る田舎に、僕は住んでいる。


僕の市は人口72万人。怖い勢力を持つ人達もいないそうだ。怖い勢力ってなんの事か、分からないけど、お父さんがいずれ分かるから、そんな事は気にせず、勉強しなさいって言ってる。

僕にとっては、藤井さんは怖い勢力の人だ。大人になっても、あんな人にはなりたくないなと、またひとつ心の中で誓った。そんなゆるゆるとした毎日を送っていたある日、福ちゃんと、ジジドルの森田さんの姿が、僕たちの通学路からいなくなった。

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