君に僕の魂を捧げよう

兎角@電子回遊魚

第1話

 ここ暫く、お天道様は仕事をサボり、空は薄い灰色一色。

 点々と地面に痕を残す雨模様。開きっぱなしの窓から風が吹き荒び、閉じたカーテンが揺れて。

 湿気混じりの空気が、憂鬱な空気を醸し出す。

 こんな日に出掛ける予定なぞ無ければ良いのに、と心の中で毒を吐く。けれどこんな日でなければ、会えないんだ。矛盾した心境はいつも通り。

 身支度するまでもなく(そもそも昨晩は着替えずそのままベッドに潜った)、スマホと財布、家の鍵だけ持って家を出る。雨は止んでるけど、念の為にと玄関から傘を持ち出して。

 目的地は、自宅から徒歩五分ほどの距離にある公園。今日もアイツは其処に居るんだろう。

 道すがら、特に考えることもなく、黙々と歩を進める。歩き慣れた道に今更目新しい物なんてなく、今日はどう過ごすのかにだけ思いを寄せた。けれどきっと、アイツは、弟切は、今日もいつも通り。何も変わらない日々。アイツはそれで満足なのか。

 変わることのない邂逅。

 今日は一段と悪天候だ。気のせいだろうか、アイツと会うようになって、こういう天気の日が増えたような気がする。

 ポツリ、と雫が滴る感触。ふと空を仰いで、なんてこったい。ポツリポツリと、雨が活動を再開した。得も言われぬ不安が過ったが、目的は変わらない。仕方がなく、駆け足で残りの道程をすっ飛ばすことにした。

―――

―――

―――

 公園に到着して、さてアイツは何処に居るかな?と周囲を見渡す。あ、居た。いつものベンチではなく、遊具の陰、雨の差さない場所に弟切はちょこんと座っている。

 一般的に見て端正、華奢、儚げ、その他諸々の要素を詰め込み、そして血の気のない顔。歳の頃は僕より二つ程下(僕が15なので、推定13の頃)。最後の部分を除けば、所謂「美少年」とでも表現されそうな容姿を持つ、少年。

 ……泥が付くだろ、と思ったけど、やはりどうでも良いことだったので、そのまま向かう。

 僕が近づいてくることには気が付いているはずだけど、アイツはこちらを見向きもしない。わざわざ会いに来てやってるのに。

「弟切、来たぞ」

 アイツの傍に到着して、声をかけた。

「うん」

 端的な返事。やれやれと思うけど、何も言わない。

 そのまま暫く無言の時間が続く。これもいつも通り。僕たちの間に会話らしい会話が起きることなんて、本当に極稀な話だ。じゃあ何で会いに来るかって?

 地面に腰は下ろさず立ったままの僕の服の裾を、弟切が掴んでいる。まるで幼子が親から離れまいとするように。最初は戸惑ったけど、いつの間にか慣れていた。

 そして、『そろそろかな』と心の中で呟く。

「ねぇ」

 挨拶とは打って変わって、少し甘えるような呼びかけが、アイツの口から発せられた。

「良いぞ」

 その意味を問うこともなく返答し、僕はアイツの視線に合うよう腰を低めた。そしてなんの脈絡もなく弟切が抱きついてきた。……男同士で抱きつかれるってのも相当アレな話だけど、コイツの場合それだけじゃない。首筋に生暖かい吐息が当たる。初めはゾッとしたそれも今となっては慣れたもの。そのまま硬い何かが触れる感触。僅かな痛みを経て、ちうちうと何かを吸っているような音が聞こえる。

 ほんの少しだけ、意識が霞む。というより、血の気が引く。なんたって、現在進行形で血を吸われているんだから。

 弟切は、所謂吸血鬼という奴らしい。この世に実在するとは思っていなかったが、居るもんは居るんだから仕方がない。問題は、何故僕が血を吸われなければいけないのか?ということ。別に僕の血でなくとも、適当な人間をとっ捕まえて吸ってしまえば良いのに……と思ったけど、コイツの(見た目から推察する)力ではとてもじゃないけど無理か。

 ところで吸血鬼の弟切曰く、血にも味があるそうで。その中でもどういう訳か、僕の血が特にお好みのよう。若干の貧血(これだけは中々慣れない)に霞む意識の中、思惟が揺らぐ。時を遡り、コイツと出会った日まで。

―――

―――

―――

 学校帰りに寄る公園。人気(ひとけ)がなく、一人で考え事をしたいときにはうってつけの場所。特に今日みたく、お天道様がサボタージュしている日なんかは特に、指向性を持たない思惟が巡るから、一人きりになれる場所は中々貴重だった。

 僕自身のことを簡潔に表現するならば、「普通」そのもの。

 イジメとは無関係だけど、カーストで言えば中の下辺り。所謂陽キャとは無縁ながらも、世間話をする程度の友人は居るクラスに、可もなく不可もなくな成績。「学校」という空間において、特段不自由するわけでもなし。

 恋愛関係は男子校なので割愛。家族との仲もこれまた、可もなく不可もなく、平々凡々な日々。

 ただ、連綿と続く、いつも通りの、刺激がなく、ちょっと退屈な人生。そのことに若干の不満は抱きつつも。

 だからだろうか。時折虚しさに襲われ、心が底無し沼に堕ちて行きそうになるのを感じ、一人でただ、憂いに耽たくなる。今日はそれに輪をかけるような曇天。

 自販機で缶コーヒーを買い、それを片手にベンチに座る。プルタブを開け、クイと口に含んだそれは思いの外苦く、大人ぶってブラックなんぞ選ばなければ良かったなどとどうでも良いことを考えながら手に持ち直して。

 今日も今日とて、人の居ない公園。時刻は18時を迎えるか否かと言った頃合い。いくら春になったとはいえ、日はまだ長くない。黄昏れて行く視界は不思議なモノで、光はまだ差しているはずなのに、物の輪郭が朧気に見える。

 公園の遊具たちは、それが現役であるにも関わらず、何処か廃退とした雰囲気を纏い。

 細い柱の上に取り付けられた時計は、物音一つ立てずに時の移ろいを刻む。

 そんな光景をぼんやり眺めながら思惟を巡らせ、次第に意識が曖昧になっていく。だからだろうか、二人掛けのベンチ、その空いたスペースに誰かが居ることに気付くのが遅れた。

「こんばんは」

 挨拶は相手から。慌てて意識を戻し、隣に目を遣る。そこに居たのは、一人の少年。然してそれは、普通の生活をしていれば触れ合うことすらないであろう、美少年。少し服装を変えればそのまま美少女にでもなってしまいそうな少年が、俯きがちに座っていた。

「あ、うん。こんばんは……?」

 あまりに日常からかけ離れた彼の存在に、僕の返す挨拶は声が上擦ってしまった。こんなにも、「美しい」を体現するような人間が居るなんて……。

 しかし、会話はそこで止まる。少年はこちらに視線を向けることなく俯いたままで、ただ、何かを伝えたさそうな雰囲気だけは伝わってきた。そのまま幾何か時間が過ぎ。

「ねぇ」

 少年が言う。

「ん?」

 何か?と答えようとした瞬間、突然抱き着かれた。……ん?

「ど、どうした……?」

「お兄ちゃん、美味しそうだね」

「美味しそうって……え、何が……?」

 一体全体何を考えているのか、サッパリわからない。そして、同性であるにも関わらず抱き着かれ、何故か動揺している自分に困惑する。

「ちょっとだけ、貰うね」

 そのまま少年の顔だけがツイ、と僕の首筋に近づいて。吐息を直に感じたかと思えば、鋭い痛みが奔った。そのままちうちうと、何かを。何かじゃない、血を吸われているのだと、気が付いた。そのことに気が付いたのは良いけれども、どういうシチュエーションなのかよく理解できず、されるがままに。そして。

「うん、やっぱり美味しかった」

 そう呟いて、吐息が遠のく。そのまま少年はベンチから立ち上がる。呆気にとられている僕を初めて、無邪気な笑みで見てから、こう言った。

「また来てね、お兄ちゃん」

 その言葉に、何故か抗い難いモノを感じて何も言えずに居ると、不意に少年の輪郭が揺らいだ。焦点を当てようとすればするほど輪郭はより曖昧に、やがて黄昏れの向こうへと消えていった。

 心ここにあらず。少年が消えた辺りを暫く呆けたように見詰めて、スマホのバイブレーションで現実へと引き戻された。今のはいったい……?けれど求める答えは何処にもないようで、仕方がなく帰宅することとする。

 道すがらあの少年のことを考えている自分が居た。首の、少年に触れられた辺りが疼く。けれどあまりに非現実的過ぎて、考えれば考える程、それはより幻想に近づき、そのまま霧散してしまいそうで。だから考えるのを止めた。

 自宅に到着する頃には疼きも癒えてきた。頭を振って焦点を現実に戻す。目の前には、いつも通りの我が家があった。玄関を開き、いつもの時間へと身を委ねる。変わらぬ日常の中に溶けていく。

―――

―――

―――

 それはもしかしたら、僕の初恋だったのかもしれない。

―――

―――

―――

 再びの邂逅は思いの外近かった。その日もやはり、曇天。刻限を同じくして、日の光が差さない現世(うつしよ)に、幻想が下る。

「また会ったな」 

あの少年と再び出会えたことに、喜びを感じている自分が居た。その喜びが如何な感情に基づくのかは理解できないまま。

「来てくれたんだね、お兄ちゃん」

「まぁな」

「ねぇお兄ちゃん、名前は?」

「片栗だ。お前は?」

「ボクは弟切だよ。……かたくり…って、片栗草の片栗?」

「よくわかったな。その片栗だ」

「ふぅん……」

 そのまま沈黙。だからふと脳裏を過った疑問を伝えることにした。

「お前はあれか、吸血鬼とかいうやつ?」

「うん」

 あっさりと返された。吸血鬼……そんなもの、空想の存在だと思っていたのに、まさか実在するなんて。でも初めて会ったときのアレは、まさに吸血鬼そのものだったから、そうなんだろう。実在することに驚きはしたけど、別に忌避しているわけでもなし。寧ろ、僕が望んで止まなかった刺激そのものじゃないか。

「他にも居るのか?」

「だぁれも、誰も。みんな死んじゃった」

「そうか……」

 あっさりと告げられ、二の句を継げなかった。この少年は、寂しくないのだろうか。

「ねぇ」

 そんな僕の心境なぞお構いなしに、少年は要求を甘い声音で囁いた。それだけで何を要求されているのか、簡単に伝わってきた。

「あぁ……」

「ありがと」

 そのまま弟切が身体ごと僕に寄り添い、首元に唇を当てる。二度目は、一度目よりも少しだけ、優しくなったような気がする。痛いには痛いけど、そんなに気になりはしなかった。そのままちうちうと、血を吸う音だけが耳に入る。

 人気(ひとけ)のない公園で良かった、などと考えながら、首元から離れない少年へと視線だけを向ける。二度見たくらいじゃやはり、その容貌から発せられる魔力に抗えないことを知り、頬の辺りが熱を帯びるのを感じながら視線を戻す。そして先程心に浮かんだことを、そのまま伝える。

 「なぁ、寂しくはないのか?」

 問いかける。この少年のことを知りたい、と思う僕が居た。

「ん~……」

 唇を離さないまま唸って、一際強く吸われたかと思うと、少しだけ吐息が遠のき。

「お兄ちゃんが居るから」

「ん?」

「血を吸うのってね、その人の魂を一緒に貰うことなんだ」

「魂?」

「うん。だから、お兄ちゃんはもう、ボクの中に居るんだよ。魂、貰ったから、寂しくないんだ」

 再びちうちうと聞こえる。魂、ね。でも、それで寂しくないなら、良いのかもしれない。そのまま時間だけが過ぎ、弟切は満足したのか、唇を離し、満面の笑みで僕を見た。

「ありがと、お兄ちゃん。もう行くね」

 ぱっとベンチから立ち上がり、そのままくるりと回り、黄昏れの向こうへと歩いて行く。それが何故か寂しく、思わずその手を取ろうとした瞬間、弟切が振り返った。

「お兄ちゃんは、来ちゃダメだよ」

 そう言い残して、再び踵を返し、初めて会ったときのように、黄昏れの向こうへ消えて行った。

―――

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―――

 僕が望むからなのか、望まなくともそうなるのか。アイツに、弟切に会う回数は増えていった。会う度、僕の血を求める吸血鬼。しかしそれ以上のことを知る機会は中々訪れなかった。

 アイツがそう願うなら、僕もそのままで居ようと。心に芽生えた感情を決して表に出さぬよう。血を求められることをまるで億劫なことのように考え、それでもアイツが待っているからと、公園を訪れるようになった。心の中で偽りの毒を吐きながら。

 今日も弟切は、何も変わらなかった。ただ愛らしく、血を求め、それに僕が応える。吸血鬼との出会いという刺激は然して、日常の中に溶けてしまった。血を求められる以外特別なことは何も起きず、ちょっと変わった友人が出来たな、程度の認識に落とし込んでしまう。

 それでも、首元に感じる吐息に慣れることはなかった。

―――

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―――

 いつもの公園。そういえば、僕とアイツ以外を目にしたことがないな、なんてことを考えながら弟切を待つ。日の差さない黄昏れの中にだけ、存在を許されているかのようなアイツの存在は、心の中で大きく膨れ上がっていく。その感情を持て余しながら。

 そして、気が付けば隣に座っている。何度か弟切が此処に来る瞬間を目にしようとしたことはあったけれど、いつも気が付いたら居るのだ。空いたベンチの隣をどれだけ見詰めても焦点は合わず、意識が逸れた一瞬に、弟切は現れる。

 今日も弟切は、其処に居る。寸前まで誰も居なかったはずなのに、其処に現れる。

「弟切はさ、何処か行きたいところとかないのか?」

「ボクは、お兄ちゃんが居るなら何処だって良いんだ」

「それは……」

『血だけが欲しいのか?』と。訊ねそうになって、止めた。自分の想いは表に出さないと決めているのだから。

「お兄ちゃんは、何処かへ行きたいの?」

 不意に訊ねられた。

「僕は…いや、良いんだ。なんでもない」

「そっか」

 暫しの沈黙。しかし今日は珍しく、すぐに血をねだってこない。血をねだることなく、抱き着くでもなく、僕の身体へと身を預けてきた。視線を遣ると、弟切は眼を閉じて、すぅすぅと寝息を立てていた。その寝顔があまりに可愛くて、ちょっとした衝動に駆られる。けれど下手に動いたら起こしてしまうかもしれない。だから、額に、そっと唇を触れさせた。いつも血を飲ませているのだから、これくらいは許されるだろうと。そして気が付く。弟切が薄く眼を開いて僕を見ていたことに。

「あっ……」

 何も言えない僕に、弟切が少し楽し気に、言葉を紡ぐ。

「やっぱり、そうだったんだね」

「えっと、それは……」

 答えを返せないまま、弟切がさらに言う。

「良いんだよ、それでも」

「え?」

「ボクもお兄ちゃんのことが好き。ボクは吸血鬼で、人間とは判断基準が違うんだ。吸血鬼はね、好きな人の血が一番、美味しく感じるんだよ」

「それって……」

「でもきっと、お兄ちゃんはボクを殺しちゃう」

 僕が、弟切を殺す……?

「お兄ちゃんはいつか、ボクを殺しちゃうんだ。弟切草の由来みたいに」

―――

―――

―――

 弟切草。花言葉は、『敵意』『恨み』『秘密』『迷信』。加えて、その葉に浮かぶ特徴的な黒点は、『弟が兄に斬り殺されたときに飛び散った血しぶき』だと言う。

 曰く、その美しさに敵意を向け、恨み、殺意の刃を向けた兄。一家に伝わる迷信を、吸血鬼の一族であるという秘密を、弟は恋人に話してしまった。これ幸いと、兄は己の行動を正当化し、弟は斬り伏せられ、その心臓に杭を打ち込まれたという。

 結果的に弟は死なず、そして一家に呪いをかけた。より強固な不死の呪いを、然して他者から愛されることは決してない、呪いを。弟自身も、呪いの反動により、自身が誰かと結び付こうとすれば、必ずその相手はいつか自分を殺そうとし、然して死なず、挙句相手は発狂し、いずれ自害してしまうという。

―――

―――

―――

「弟切。この名前は自分で付けたんだ、戒めも兼ねて、ね」

「じゃあ、いったいどうすれば……」

「お兄ちゃんのしたいようにすれば良いんだよ」

「僕は……弟切、君を殺したくない」

「今のままなら、今の関係なら、このまま変わらぬ日々を送れば、お兄ちゃんがそんな最期を迎えなくても済むんだよ」

―――

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―――

 変わらぬ日々。今日も今日とて、僕は弟切の居る場所へ向かう。心に秘めた想いを表に出さずに。

 変わらぬ日々。今日も今日とて、弟切は僕の血を欲する。僕の想いに応えられずに。

 片栗草の花言葉は、『初恋』『寂しさに耐える』。

 けれど、失うくらいなら、居なくなってしまうくらいなら、今のままで良い。

 変わらぬ日々。それは何も得ず、何も失わないということ。

―――

―――

―――

 幾何の年月が去ったのか。弟切の告白を聞いて以来、僕は、表に出してはいけない想いに、耐え続けた。

 弟切はあの日から何も変わらず、それでもずっと、僕の血を求め続けてくれた。それは気持ちの移ろいがなかったことを意味するのだろうか。

 老いた僕はもう長くない。そのことを察して、僕たちが結ばれるための最後の手段を、思い出した。

―――

―――

―――

『僕の血を、魂を、全て君に捧げる』

 霞む視界の中、弟切は涙を流していたように思える。これで、僕の生は尽きる。

 だが、これからも彼と共に在ることができるのだ。

『血を吸うのってね、その人の魂を一緒に貰うことなんだ』

 その言葉の通り、僕の全ては弟切の中に捧げられ、彼の永遠の孤独に、僅かでも光が差せば良いと、そう願って。

―――

―――

―――

『愛してる』

 生が途絶えるその瞬間、声が聴こえたような気がする。

―――

―――

―――

END

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