惑い道

言端

惑い道

 親愛なる皆様、ご機嫌麗しう。

 わたくしは、とをると申します。衝動的に執りましたる筆でございますゆえ、お見苦しい点は何卒、御容赦を。

 早速ではございますが、比喩、です。わたくしは筆を執っておりません。強いて言えば、脳裡に広げた台本、といったところでしょうか。只ならぬ状況に陥りますと、職業病、いいえ、生来の悪癖ゆえ己の思いを予定調和の台本に先ずは書き止めて、逃げ出すのです。生身のわたくしは、台本なくして声を発すことができないのです。

 職業病、それも嘘ではありません。わたくしは「座・みつかけぼし」という劇団にて、誠に僭越ながら花形役者と呼ばれております。可笑しいでしょう。現実には黙りこくるばかり、頭の中で必死に筆を滑らせる人間が花形役者などとは。わたくし自身、このことを巧く語る術を持ち合わせておりませんから、真偽は、わたくしの御芝居をもって、確かめられるが宜しいでしょう。はしたない申し出であることは百も承知ですが、致し方ありません。台本だけが、わたくしの舌に喉に絡みついた鎖をほどけるということは、事実なのですから。

 台本のないわたくしは案山子、そう思っております。


 さて、ですからこうして、今急ぎ台本を綴っているというわけです。然る、敬愛してやまない御方と並び歩いているこの状況、なまなかな台詞などは、言わぬほうが華というものでございます。しかし出てこない。この御方を、失望させるやもと思うや、わたくしの声そのものたる台本が、真白なまま埋まらなくなるのでございます。

 それもその筈、この台本はわたくしがわたくしの為に書いているのですから、わたくし以外、台詞を用意できるものはおりません。過去演じた数多の役も、こぞって台詞を隠します。彼らの言葉では意味がない、痛いほど、解っております。


 於々、川向うへ陽が沈みます。じき、逢魔ヶ時が訪れましょう。お慕いする御方と二人、無言の道往き、騒ぐは水の音とわたくしの見えざる筆の音ばかり。冥府のお散歩のよう、なんて思ってしまったことをそのまま口にしてしまったなら、どんな御顔をなさるのでしょう?

致し方ありません、わたくしの台詞はこれしかないようですから。

「ねぇ、」

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