第112話 真夜中の来訪者
ある夜半、レイラは部屋の中の人の気配で目が覚めた。カーテンを閉め忘れた窓から満月の明かりが差し込んでいる。レイラは万が一の時の為に、ベッドマットの下に隠してあるナイフを、寝返りを打つふりをして手に取った。ベッドの横に何かが立っている。レイラはそっと、薄目を開けてベッドの横に立つものの正体を見た。
「透?!」
レイラはナイフを放り出して、起き上がった。透は黙ったまま、レイラの方を向いている。髪が少し伸びていた。レイラは手を伸ばして、透の腕に触れた。咄嗟にレイラは手を引いた。冷たかった。触れた手を見ると、泥だらけだった。透は焦点のあっていない目をしていた。レイラを見ているのか見ていないのか定かでない。
レイラは起き上がり、透の手を引いてバスルームに連れて行く。照明を落としたまま月明かりの中で、レイラは泥だらけになるのも、ずぶ濡れになるのも構わず透の顔を、目をつぶらせそっとシャワーで洗い、椅子に座らせ髪を洗った。泥が落ちた透の髪は、レイラの手のなかで元の柔らかさを取り戻した。少し抵抗する透の服を脱がせ、泥だらけの体もシャワーで洗い流し、石鹸を泡立て、手で愛おしむ様に優しく洗う。最初に嫌がる素振りはしたものの、透はされるがままだ。
レイラは透をバスタオルで包むように拭いて、バスローブを着せ、再び手を引いて部屋へ戻る。透は言葉を忘れてしまったように一言も話さない。レイラはそっと透を抱きしめた。透は突っ立ったままだ。透の瞳はレイラを見ていない。
「……透、こっちを向いて。私を見て……。戻って来て……」
レイラは透に接吻した。透の唇も、触れた顔も、ゾッとする程冷たかった。レイラの頬を涙が伝った。
(やはり、透は死んでしまったのか……)
レイラが諦めた様に、唇を離すと、透がぎこちなくレイラを抱きしめ返した。レイラが見上げると、透の瞳がレイラを見つめている。
「……やっと、戻って来てくれたの?」
(夢ではありませんように。夢ならずっとこのまま覚めないで……透であれば、ゴーストでもいい……そばにいて欲しい……)
「赤ちゃんが、お腹にいるの……」
透はレイラからゆっくり体を離し跪いて、レイラのお腹に暫く耳を当てた。
「今は、動いていない」
レイラは物音を立てたら透が消えてしまいそうな気がして、小さい声で囁いた。透はレイラのお腹にキスをしてから、ゆっくり立ち上がった。声は聞こえなかったが、透の口が確かに「有難う」と動いた。
不意に背後で扉が開く音がした。
「お母さん、どうしたの?」
レイラが振り向くと、匠が眠そうに目をこすりながら立っていた。匠のいた部屋から煌々と明かりが差し込んできた。
「透が……」
レイラは透の気配が消えてしまった事に気がついた。
「お母さん、夢を見たの? 大丈夫?」
「匠、起こしてしまって悪かった。何でも無い。私は大丈夫だから、おやすみ」
匠が扉を閉めて部屋に戻ると、途端にレイラの寝室は暗くなった。レイラは必死で辺りを見回したが、部屋にはもう、誰も居なかった。
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