雨傘日和
@aoi_2021
第1話
雨に飲み込まれたこの街は、きっとどんな場所よりも重く息苦しい。
バシャバシャと水しぶきをあげながら、硬い石畳の上を走っていく。今日のために新調したジャケットは水分を含んですっかり重くなってしまった。すれ違う人々は訝しげな目で私を見てくるけれど、構ってなどいられない。目的地をめざして一目散に走っていく。
「ごめんください」
建付けの悪い引き戸を開けて、外の音に負けないように声を張り上げる。先程まで言い争っていたせいか、喉が掠れて上手く届かない。もう一度「すみません」と言ったところで、中からバタバタと黒のエンプロを来た男性が驚きながら駆け寄って来た。初めて訪れるこの場所は、少し緊張する。私より一回り近く年上であろうその人は、お互いの顔が見えるだろうという位置で、ずぶ濡れの私を見て目を丸くさせた。
「大変だ、直ぐにタオルを持ってきますね」
背中を向けようとする男性に慌てて声をかけ、力いっぱい首を振る。ずぶ濡れなのだ。店内に入って迷惑をかける訳にはいかない。
「いえ、あの、傘を1つ購入させて頂ければ大丈夫ですので」
訪れたのは以前知り合いから聞いた傘屋さんだった。傘をさすなんて今更な気がしてきたが、家に着くまでまだまだ距離がある。
「そう言わずに。ほら風邪を引いてしまいますよ」
急かすように促され、結局私は扉の先に足を踏み入れた。店主らしいその人は、部屋に入ってすぐに大きなタオルを持ってきて私に渡してくれた。
「少し待っていてくださいね」
水滴が落ちないよう髪の毛をタオルで包見ながら店内を見渡せば、色とりどりの傘が辺り一面に並んでいた。
「すごい……」
珍しい風景に感嘆に満ちた溜息をついていれば、ゆらゆらと湯気を立たせたコーヒーカップを持って店主がもどってきた。
「良かったらどうぞ」
目を細め薄い皺を作りながら店主は店の奥まで私を案内してくれた。いつの間にか用意してくれていた椅子に腰をかけ、私はカップを受け取る。褐色の水溜まりに移る自分の目元はうっすら赤くなっていて。
こくりと微かに自分の喉から音が零れ、その後にじんわりと温かさに満たされていく。奪われていた体温が戻ると同時に、気持ちも穏やかになっていく。
そんな私の姿を優しげに店主は眺めた後、そっと尋ねた。
「事情をお伺いしても?」
「はい……」
今日は朝から天気が悪かった。外出時に傘を持ち忘れる人なんていないだろう。ずぶ濡れの私をみれば、誰でも何かあったのだと思うだろう。
「恋人と喧嘩したんです」
あまりにも馬鹿らしい理由に、さっきまで冷えきっていたはずの頬に熱が籠ってしまう。
「雨の日、彼は決まって待ち合わせに来るのが遅いんです。何度注意してもきかなくて、今日だって久しぶりに会えたのに1時間も蓮奈なしで遅刻してきて……」
話していて本当に些細なことだと自分でも思う。それでも店主は私の話を笑ったりなどしなかった。柔らかく欲しかった言葉をくれた。
「雨の中、1人は心細かったでしょう」
「はい。恥ずかしいんですけど、そのまま彼のシャツに掴みかかっちゃって。その時傘を落としたまま忘れていっちゃったんです」
傘屋にきて傘を忘れた話なんてするべきではなかったのかもしれない。不安になり店主を見たが、大して気にするでもなく私の方を向いて頷いていた。
ひとしきり話し終えてコーヒーを再び口にする。カップの中には少しスッキリしたような表情の私が見えた。
「私の昔話をしてもいいですか?」
「えっと、はい」
突然の店主の言葉に飲んだコーヒーでむせそうになりながらもどうにか頷く。
「そうですね、20年ほど前でしょうか。学生時代にとっても好きな子がいたんです。頭が良くて可愛くて学校の中でも人気な人でした」
懐かしそうに遠くを見つめる店主は、ゆったりとした口調で話をし続ける。
「ある日、彼女の傘を壊してしまったんです。友人同士でボールで遊んでふざけていたら、壁に立てかけていた傘当たってしまって。その時、彼女は酷く悲しそうな顔をしていましたね。あれは今でも忘れられない」
「その人にとって余程大切なものだったんですかね」
「何ヶ所もお店を探したけど同じものは見つかりませんでしたね。何年も前に転校した1番の友人から貰ったものだと後から知りました」
正直、あちゃーと心の中で額に手を当てた。微笑ましい失敗談として語ってしまえばそれだけだか、本人達にとっては相当なショックだっただろう。
ここまで聞いたところで、はたとある事に気が付いた。
「もしかして、このお店を開いているのってそれが理由ですか」
「ええ。いつか彼女がこのお店を訪れた時に、あの時の代わりになるような傘を見つけられればと。今は修理することも出来ますからね。きっと私はあの時の後悔を少しでも薄くしたいんです」
それならとても凄いことだ。何十年も前の大切な人を想い続けて、1人でずっとこの場所で待っているなんて。我慢の苦手な私には到底出来ないだろう。
「大丈夫。あなたならまだ間に合いますよ」
店主は見抜いていたんだろう。私が怒りよりも後悔を感じていたことに。
本当は全部分かってる。
彼は雨の日は時々、ひどく体調が悪くなること。
肩を揺らしてずぶ濡れで走ってきたこと。
私はただ、不安で寂しかっただけだということ。
「私、帰ります」
さっきの私と同じように「すみません」と言う耳馴染みのある声が聞こえた。
「おや」
店主の声は少し弾んでいた。
きっと扉の前には2本の傘をもってずぶ濡れになったあの人が待っている。
「私、行きます」
「ええ」
店主にぺこりと頭を下げて鮮やかな傘達に背を向ける。
いつか店主の大切な人がこの店に来てくれるだろうか。時間が流れ、きっと顔も声もお互いが分からない程に変わっているだろう。それでも幸せな結末が訪れてくれれば。
だから、もう少しだけ。もう少しだけでいいから梅雨が続いて欲しい。
そう願いながら、私は再び雨の街に足を踏み入れた。
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