第36話 八月十八日 事変
真っ白な雲が空高くに浮かび、夏の日差しが容赦なく照り付ける熱い日であった。
水面を飛び回る、うみねこの鳴き声が、けたたましく海辺に響いていた。
「船の入港の準備を急げ!」
かけ声と共に船内にいる男達の動きが慌ただしくなった。
小さな漁船を追い払う様に、白い煙を吐く巨大な蒸気船が湾内を進む。
「少しは、それらしくなってきたじゃねか?」
この巨大な蒸気船の指揮をとる船長・勝海舟が、水夫姿の岡田以蔵に声をかける。
「おめえさんも早く、着替えて上陸する支度をしな」
「これから石頭どもに合ってだな、この巨大船を見せびらかすかすんだからよ」
「石頭どもめ、腰をぬかすぜ!」
幕府の使節団としてアメリカに渡り、大国との技術差を目のあたりにした勝海舟は、外国との貿易で技術力を取り込み、国力を強化する開国派を主張した。
帰国すると海軍強化の為、十四代将軍・家茂公や公卿の革新派であった 姉小路公知らに海軍の重要性を説得し、半年ほど前に神戸に海軍操練所を設立しのだった。
そして、ついに最新の装備を搭載した軍艦が完成。今日は京都や大阪近隣の幕府有力者を集めた御披露目式の為、神戸海軍操練所の門下生と共に大阪湾に入港したのである。
今回は大阪の幕閣達に巨大船の有用性説明し、造船資金を集めるのが目的である。
その後、京の二条城に行き公卿たちとの交渉である。
勝海舟の身辺護衛をしていた以蔵も勝海舟に諭され、護衛の合間に神戸海軍操練所で、この巨大な船の操作や航海術を学んでいる。
以蔵の他にも土佐藩士や航海術を学ぶ為に入門した、各藩の藩士たちが多く集まった。身分を問わず門下生を募集した為、いわく有り気な脱藩浪士なども多く海軍操練所は、正式な幕府機関とは思えない程、荒々しく雑多な組織であった。
◆
大阪湾に入港した幕府の巨大船は、碇を下ろし下船の準備を急ぐ。
港で待っていたジョン万次郎こと中浜万次郎が、幕府関係者と共に慌ただしく出迎えた。
「なんだと!」「まずいじゃねえか!」
勝海舟の驚きの声が響く。
出迎えた幕府関係者と勝海舟が集まり、口論となる。
肩を怒らせた、勝海舟が船に戻って来る。
「てえへんだよ!」
「京都で
「
「くそっ。こんな時にっ!」
悔しがる勝海舟の後ろに立っていた、万次郎と以蔵の目が合う。
スッと万次郎が視線を落とした。
「万次郎さん!」
「武市さんはっ!」
「武市半平太は? 土佐勤王党は? どうしたがじゃあ!」
以蔵が万次郎の異変に気付き、詰め寄った。
「・・・」
「万次郎さんっ」
と、以蔵が万次郎の両肩をつかみ揺する。
「・・・」
「言うちくれ!!」
「・・・」
万次郎が、意を決した様に言う。
「藩主・山内容堂公が動いたんじゃ」
「長州藩や公卿の後ろ盾が無くなった土佐勤王党に対して、反目する土佐郷士らを捕縛する様に藩から命令が出たがじゃ」
「既に、土佐藩の捕り方が土佐藩邸を囲んじょる」
「武市半平太も京で拘束されたっちゅう事じゃ」
拳を握り、怒りを表す以蔵。
「何じゃとっ」
「くそっ」「くそっ」「くそっお」
以蔵が、万次郎が引いていた馬の手綱をもぎ取ろうとする。
「行っちゃならん」「以蔵っ待て!」
万次郎と勝海舟が声を合わせた様に叫び、引き留める。
以蔵の動きが一瞬止まる。
「勝先生! 儂ゃあ 行かにゃならんがじゃ」
「先生! ほんにい・・・すまんちや・・・」
そう言うと馬の手綱をひったくり、馬にまたがる。
馬の鐙を蹴ると馬は大きく一声嘶き、前に飛び出していった。
以蔵が乗った馬は、土煙を上げ小さく消えていった。
◇◆◇◆事変
早朝。長州藩士が一人、血相を変えて土佐藩邸に走り込んで来た。
見ると、長州藩の指導者・久坂玄瑞の供をしている若侍である。
知らせを受けた半平太は、若侍はから事情を聞く。
「武市先生、我らと共に長州へ御逃げください」
「三条様たちは、既に朝廷を脱出し、長州に向かわれております」
「ここも薩摩藩の手が及ぶかも知れません」
「武市先生も一旦、京を離れ長州へ、との久坂さんからの伝言です」
半平太は、目を閉じたまま腕を組み、若侍の話を聞き終わるのを待って、天井を見上げる。
「・・・」
「久坂殿の申し出は、ありがたい事ですが・・・」
「我ら土佐勤王党は、主君・容堂公と共に動きます」
「土佐勤王党は、京に残った長州を支援します」
そう言うと、京に居る島田衛吉ら腕の立つ志士たちを呼ぶ。
そして、長州の若侍と共に京の町を落ち延びる為の支援に急ぎ向かわせた。
◆
京都の町が、ただならぬ急変を察知し静寂に包まれていた。
そして、町には武装した物々しい甲冑の音と共に銃声が響き渡った。
それを合図に、半平太の居る土佐藩邸の周辺が騒がしくなる。
三つ葉の
土佐藩邸に武装して立籠もった土佐勤王党の志士たち五十人程は、この事態を予想していたかの様に藩邸を囲む捕り方と対峙した。
捕り方の大目付が叫ぶ。
「京都留守居役・武市半平太」
「幕府に混乱を招いた罪により召捕る」
「藩邸内の武装を解いて、速やかに投降せよ」
藩邸を幾重にも囲む捕り方を束ねる大目付が、大声で罪状を読み上げた。
大目付の横には、土佐藩内でも名の通った槍や剣術指南役の四人が横に立つ。
いざとなれば抵抗する土佐勤王党を武力で制圧する構えである。
◆
以蔵は、馬を走らせ京の土佐藩邸に向かっていた。
途中、京の出入りを封鎖する薩摩藩の検問を早馬で蹴散らし突破する。
大阪から京まで一気に駆け、馬の息も絶え絶え。
「どう! どお!」
息を切らす、馬の手綱を引き、走りを止める。
土佐藩邸を捕り方が囲み、その周りを土佐勤王党が囲む。
半平太の指示で各地の散っていた者たちが、遅れて土佐藩邸に戻って来たのだ。
既に一戦交えた形跡があり、武器が散乱し負傷者が横たわっている。
以蔵は、馬を飛び下りると辺りを確認する。
「以蔵さんっ!」
以蔵を呼ぶ声。
一戦交えた様子で刀を握りしめ、髪が乱れ、着物が裂けた若侍。
「鉄蔵!」
「お前っ無事なんかっ!?」
以蔵は、鉄蔵の裂けた着物と体を手で確かめながら言う。
「
「衛吉さんがっ中に斬り込んだまま戻って来んのです」
「くそっ」以蔵が握り拳を叩く。
「武市さんは、中かっ?」
以蔵は、素早く着物の袖にタスキをかける。
持っていた酒瓶を口にあて、酒を含むと刀の柄に勢い良く吹きかけた。
「儂が斬り込むけえ! おまんはっ武市さんを連れ出すんじゃ」
「やるぞ!」
そして腰の刀を握ると敵陣めがけて突っ込んだ。
と、その時、藩邸の門が開き、武市半平太を囲みながら数人の侍が出て来た。
半平太は、特に拘束されている訳でもなく、堂々と侍たちの中央を歩く。
以蔵は、足を止めた。
――― 武市さん。変わってねえ。
そして、大声で問いかける。
「武市さんっ! 一緒に逃げるぜよっ!」
「・・・・・・」
半平太も以蔵に気付く。
半平太の周りの武装した侍が、サッと刀に手をかけ、腰を低くし構えた。
以蔵は、大声で叫ぶ。
「何じゃあ、その目は?・・・冷めた目えは?」
「あんたが国を変えるんじゃないがか?」
「武市半平太は、そんな所で死ぬ
「
「地べたを
「武市先生っ」「武市しえんしぇえっ」
以蔵の後ろから半平太を呼ぶ声が上がる。
半平太が、叫ぶ以蔵の顔をカッと睨んだ。
「・・・・・・」
「以蔵っ」
そして背筋を伸ばし、胸を張り、大声で叫ぶ。
「皆っ! 儂ゃこれから、藩主・山内容堂公と話しをする!」
「・・・・・・」
「土佐勤王党はっ容堂公と共にある」
「皆はっ武装を解いて待っていてくれっ」
「決っして早まるなっ!」
「・・・・・・」
「時代は大きく変わる・・・」
「これからが、儂らの本当の戦いじゃ」
張りのある声。自信に満ちた言葉であった。
半平太は、右手伸ばし一指し指を目の前の志士たちに向ける。
そして右手を心の臓に当て・・・右手をゆっくり天に掲げた・・・
「”志”は貫く”」
「・・・・・・」
半平太は、右手の拳を握り前に振り下ろした。
以蔵は、ハッとして気づく。
半平太と以蔵、そして仲間たちが幼い頃より、使う合図。
半平太が気にいって使っている手信号である。
――― 撤退!
――― 隊にとって指揮官からの絶対命令である。
その時、一発の銃声が響いた。
続けざまに、三発の銃声が響く。
衝撃と共に以蔵の体に熱い痛みが突き貫いた。
後ろに数歩よろけて、片膝をついた。
「くそっが!」
以蔵の罵声を上げると同時に、熱い物が喉元を駆け上がり、赤い血を吐いた。
一瞬、意識が飛んだ。遠くに霞む半平太の姿が見える。
「武市さん」
「武市さ・・・ん」
以蔵は叫ぶ。
手を伸ばし、半平太に触れようとする。
「以蔵さん! 以蔵さん!」耳元で叫ぶ声が聞こえる。
「鉄蔵・・・」
――― 鉄蔵の顔と・・・青い空・・・
身体が鉛の様に重くなり、頭の中が霧に包まれた様に真っ白くなった。
◆
身体が火であぶられた様に熱い。
鉄蔵の声と聞き覚えのある、鈴の様な声が激しく言い争うのが微かに聞こえた。
「・・・・・・」
また、以蔵の頭の中は霧に包まれた様に真っ白くなった。
◆
寺の鐘がやたらと近くに聞こえた。ここは寺の敷地内であろうか。
綺麗に手入れされた庭の石畳の上を、体に
「以蔵っ。まだ寝てなきゃダメだって!」
振り返ると、桃色の上品な着物に髪飾り身に着けた、美しい娘が立っている。
「・・・・・・」
「また、おまんが助けてくれたがか?」
弱々しく、ちょっと情けない顔で、訪ねる。
美しい娘は、何も言わず、コクリとうなずく。
「武市さんは、どうなった?」
娘は、ちょっと悲しそうに顔を横に振った。
「・・・」
以蔵は、壁に寄りかかりながら、力なく座り込む。
目頭が熱くなり涙があふれてきた。
額に手を当て、言葉にならない独言を何度も何度も繰り返し言う。
そばに立っていた娘、茜の目にも涙があふれた。
力なく泣き崩れる以蔵を優しく抱きかかえ一緒に泣いた。
――――――
その後、武市半平太は土佐の国元に送還され、投獄された。
しかし投獄中、何度も何度も山内容堂公と国の行く末を討論した。
武市半平太という党首を失った土佐勤王党は消滅し、日本の表舞台から消えた。
しかし、武市半平太ら勤王の志士が起こした革命の風は、後継者によって引き継がれ、薩長同盟、討幕へと新たな方向に進み始めた。
武市半平太が土佐の国に送還された数か月後。京の町で斬り合い騒動が起きた。
捕縛された男の名は無宿人・ 鉄蔵。そして捕縛された無宿人・鉄蔵の正体は岡田以蔵であると語る。
その後、岡田以蔵と名乗った男は土佐藩に捕えられ、自分が関わった暗殺の数々を語り始めた。土佐藩の捕方・井上佐一郎、宇郷玄の番頭、志士・本間精一郎、目明し文吉、煎餅屋半兵衛など一部始終の暗殺内容を
岡田以蔵は国元に送還され、暗殺の罪により処刑となる。
京の町で恐れられた“人斬り以蔵”と呼ばれた男は、この時、この世から消えたのである。
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