第16話 桜田門外の変

  土佐藩・江戸上屋敷。江戸で参勤中の御殿様や一族一党、江戸での政務を行う重臣たちが暮らす御屋敷である。


 江戸城から訪れた幕府の使者の姿が見えなくなるのを待って、土佐藩の藩主である山内容堂公が叫んだ。


「おのれっ!」 

「井伊直弼っ! 覚えておれ!」


 扇子を握った手はワナワナと震え、今にも殺到しそうな表情で歯を食いしばる。

 使者が先ほど出て行った柱にめがけ、握る扇子を投げつけた。


 使者から告げられた”上意の御沙汰”の内容を思い出しただけで敵意が湧く。

 政敵・大老の井伊直弼の策になすすべがなかった。


――― 国の将来を憂い将軍家を補佐してきた自分が・・・

――― これほどの屈辱を受けようとは


 次期、十四代将軍の座をめぐり徳川御三家の水戸派と紀州派で争っていたが、思わぬ方向に事態が進む。アメリカとの貿易交渉を幕府が進めていたが、大老・井伊直弼の独断でアメリカとの日米修好条約を結んだのだ。

 これに激怒した、水戸藩主・徳川斉昭公が江戸城に乗り込み、井伊直弼に責任を追及した。

 結果、逆に井伊直弼の策略により、江戸城への無断登城の罪で御身が謹慎となる。さらに同時期、薩摩藩主・島津斉彬公が急死。一橋慶喜公を推薦する水戸派の勢力が急激に弱くなった事をきっかけに、十三代将軍の意向として紀州藩の徳川家茂公が十四代将軍に決定したのだ。

 

 水戸派に組した土佐藩・山内容堂公たち有力大名たちは幕府政権から排除され、国元への永久蟄居ちっきょという厳しい御沙汰が下った。

 これにより、大老・井伊直弼の政敵は排除され、徳川幕府は老中の一党支配をとなったのだ。

 藩主・永久蟄居ちっきょの知らせは、すぐさま江戸の土佐藩邸に駐在する土佐藩士たちにも伝えられた。藩主が永久蟄居ちっきょなど納得できようもない。

 血気盛んな家臣たちは、幕府に一死報いようと集結し、あわや江戸での戦に発展しようとしていた。

 しかし山内容堂公は自ら藩士に対して説得を行い、遺恨を残しつつも争いを回避し、その場を治めた。


 老中の一党支配となった幕府の力は増し、幕府に対して異論を唱える論者たちを次々と捕縛し投獄、処刑するなど容赦ない処分が下された。世にいう安政大獄である。

 

 この強硬的な安政大獄の決行で、幕府反対は一掃され幕府側の完全勝利と思われたが、大きな遺恨は火種となり全国に広がっていく。

 

◇◆◇◆桜田門外の変

 三月三日、この年は珍しく季節外れの雪が降った。

 昨晩から降り出した雪は、朝になっても降り続き、路面を白一面に覆った。

 

 江戸城の大奥では、大勢の女官たちが日頃に増して忙しそうに廊下を往来する

 今日は大奥にとって一大行事。桃の節句である。

 大奥の女官たちは、豪華な料理や菓子を用意し、いっそう艶やか着飾る。

 将軍を迎える為の準備を入念に、盛大に節句の行事祝う。

 

 この日は、各大名たちが節句の挨拶に江戸城に登城をする恒例行事が行われる。

 江戸城を取り巻く様に建てられた各藩の大名屋敷からは、華やかな大名行列が組み登城する。

 江戸の人々は年に一度の行事を楽しみにし、次々と現れる大名行列を見ようと通りに集まり、大通りは大変に賑わいであった。


 ◆

 今日は雪が降った事もあり、通りには商売目的の蕎麦屋や一杯飲み屋の屋台が集まっていた。集まった江戸の観客たちは、冷えた身体を暖める。

 

 とある一軒の蕎麦屋に客が一人。着流し姿の侍が冷えた身体を温める様に、杯に酒を注ぎ、口に運んでいた。

 そこへ体格のいい旅姿の侍が、蕎麦屋ののれんをくぐった。


「だっだんな様!」


 蕎麦屋の亭主は、旅姿の侍を観て驚き、慌てて口を閉じた。

 旅姿の侍は、着流し姿の侍の横に座る。


「鉄之助、国元の様子はどうだ?」


 旅姿の侍が訪ねる。


「もう我らの手では、藩士ヤツらを抑えきれん」

 

 鉄之助と呼ばれた着流し姿の侍は、手に持った杯を怒りをぶつける様に机に叩きつけた。


「すまん・・・」


 鉄之助は杯からこぼれた酒を見つめながら謝る。


「あとは、我らが殺る」

「おぬしは、事の顛末てんまつを見届け、後は薩摩の同志と共に動け」


「必ず終わらせる」

「・・・」

「すまん・・・」


 鉄之助は自分の無力さを恨む様に、額を拳で叩いた。

 

 旅姿の侍は、鉄之助の肩に手を添えると立ち上がり、人込みの中に消えていった。

 

 ◆

 老中筆頭である大老・井伊直弼が江戸城への登城の為、彦根藩上屋敷を出立しようとしていた。

 老中である井伊家の屋敷は江戸城外門に近く、屋敷から出て大通り曲がれば、目と鼻の先が江戸城まで距離である。

 以前から、幕府に恨みを積もらせる不穏な動きありとの密告があったが、礼節を重んじる、井伊直弼にとって恒例行事は欠かせないものである。

 心配する江戸家老の言に従い、急遽、供の護衛を増やし、六十人の共侍に守られ、駕籠に乗り込むと行列は次々と屋敷の門をくぐって行った。

 

 彦根藩で生まれ育った、井伊直弼にとって、この時期の雪は珍しくはないが、久しぶりに江戸で見る大雪は、ふと故郷を思い出す。

 幼少の頃・・・将来の見えない部屋住み生活、ただただ学問や剣術にはげみ、友と国の行く末を語った事を思い出させる。


「殿っ! そろそろ桜田門に到着いたします」


 駕籠の隙間から雪を眺めていた井伊直弼は、老中就任よりわずらう胃痛をかばうように腹に手を当てた。

 

 突然。駕籠の外が騒がしくなる。


直訴じきそお頼み申す!」

「なにとぞっ!」

直訴じきそお頼み申す!」


 行列の先頭で騒ぎが起こった。

 

 幕府に直訴を訴える身なりの整った藩士が駕籠に近づく。

 遠くからやって来た為か、旅姿で動き易い服装、草鞋ぞうりをしっかり履き雪仕度をしっかりと整えている。

 警護の侍が大声で制止し、駕籠が止まる。

 直訴じきそを申し出た藩士を警戒し、確かめようと数人の共侍が駆け寄る。


「・・・」


 雪が白く積もる路面に直訴じきそを申し出た藩士が、膝をおり、深々と頭を下げる。


 井伊直弼は、駕籠の隙間から直訴じきそを申し出た侍の横顔を見た。

 直訴じきそは、主人である幕府や己の藩を批判し裏切る大罪。

 受理されれば、己の一命をもって、責任を取る覚悟。


「相分かった・・・直訴じきそをこれへ持て」


 井伊直弼は、直訴じきその受理を承諾した旨を伝令に伝える。


 次の瞬間。

 銀色に光る閃光と共に、血しぶきが舞った。

 

 直訴じきそを申し出た藩士が、直訴状じきそじょうを受け取ろうとした供侍に対して、刀を抜き、下から斬り上げた。

 

 斬られた供侍は、よろめき後ずさる。

 

 突然、銃声が鳴り響いた。

 

 銃声を合図に気勢が上がり、右前方、左前方から、そして井伊直弼の乗る駕籠に向かって横合いから、刀を抜いた侍たちが駆け込んでくる。

 

 行列を見物していた観客たちは、慌てふためき、悲鳴を上げる。

 

 護衛の者たちは雪よけの雨合羽あまがっぱ、刀が濡れない様に刀の柄には柄袋を巻いている。

 寒さで手がかじかみ柄袋を外そうにも指が思う様に動かない。

 刀を抜けず鞘が付いたままの刀で応戦する。

 

 金属がぶつかる音。

 叫び声と悲痛な悲鳴とが井伊直弼の乗る駕籠へ徐々に近づく。

 井伊直弼の乗った駕籠に何かがぶつかり、大きくゆれる。

 続けて、三人の悲鳴が聞こえ地面におちた。

 駕籠の周りには、彦根藩 江戸屋敷で師範代を務める剛の者が護る。

 

 罵声が激しく響く。

 また銃声が一発。

 駕籠が衝撃と共に大きく揺れる。

 

 一瞬、静かになったかと思うと駕籠の戸が激しく開けられ、銀世界の光で視界がさえぎられた。


「うっ」


 強い力に胸元をつかまれ、井伊直弼は駕籠から引きずり出される。


「大老・井伊直弼殿か?」


 血で片目が見えない程、流血した男が、訪ねた。


「先生っ! 早く殺っぺ」


 鬼気迫る、若い侍の男の声が割り込む。


ひかえろ!」


 流血の男は、若い男の声を強くさえぎる。

 

 井伊直弼は、大きな体で地面にあぐらをかき、“どっか”と座った。

 

 大きく息を吸い、ゆっくり目を閉じた。

 

 そして井伊直弼は、鬼気迫る対面の刺客の目を“カッ!”と見据え問うた。


「我が天命もこれまでかっ!」

「・・・・・・」

「天がわれちゅうするのか?」

「・・・・・・」

「我がこころざし・・・忠義ちゅうぎであるかっ!」


 流血の刺客に問うたか?

 はたまた、天に問うたか? 

 いや自分の運命に問うたか?


 井伊直弼は、叫ぶ。


「・・・・・・」

いな!  忠義ちゅうぎなり!」


 流血した刺客は、井伊直弼の問いかけに答える様に叫ぶ。

 そして天高く振り上げた刀を振り下ろした。


「・・・・・・」


 地面を覆う真っ白な雪が、真っ赤に染まっていく。


「・・・・・・」

 

 江戸城、桜田門・外苑。

 井伊直弼を手にかけた、刺客は懐から白い布を取り出すと、丁重に首を拾い上げ、白い布で包んだ。

 そして、その刺客は、語らぬ井伊直弼の前に正座すると、左手平を額の前に運び目を閉じた。

 そして、井伊直弼の後を追うようにして、自らの刃を首筋に当て、引き斬った。


――――――

 桜田門外の変以降、「天誅てんちゅう」掲げ、武力で事を解決す風潮が高まり、政治中心の江戸、京都では「天誅てんちゅう」の嵐が吹き荒れる。

 当初、攘夷思想は敵国を排除するという思想であったが、いつしか尊王攘夷、幕府を倒す思いに変化していく。

 若者の命と行動をエネルギーとして燃やし、日本全土を巻き込む幕末の嵐に突入していく。


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