それでも私は、幸せでした。
沖町 ウタ
プロローグ 秘密の場所
「これから先のお前たちの人生だ。まだ時間があるからと言って適当に考えるんじゃないぞ」
授業後のホームルーム。担任の先生が進路希望調査を配りながらそんな事を言った。
秋が始まりを迎えた頃に突然やってきた、自分の将来を考えさせられる出来事。僕たち高校2年生は、そろそろ進路について考えなければならない。来年には受験に向けて勉強し、大学に入り、何か職につく。そう言う選択を僕達はしていかなければならない。
僕は3人の友達と、貰った進路表をみながら帰路を歩いていた。
「進路か〜。お前ら将来やりたいこととか決まってるのか?」
僕の前を歩いていた
「俺は実家を継ぐつもりだ。今も日々家で修行してる」
武の実家は居酒屋。日々家の手伝いをしながら、料理の修行や経営に関する事を学んでいるらしい。
「お前はいいよな、道が決まってるし。考える必要なくて」
羨ましそうに武を見ながら日向は言う。しかし、武は小さく首を横に振って否定する。
「そうとも限らない。時々、居酒屋の経営以外に道は無いものかと考えたりもするぞ」
以外な答えをする武に日向も意外そうな顔をしていた。
「そうなの? なんかしたいことでもあるのか?」
「いや…そうではなく、ただ漠然とふと思うんだ。居酒屋の息子として、代々続いてきた店を引き継げることは光栄だと思う。しかし、もし他にやりたいことやしたいことがあった時、自分はどうなっていたのかと思うだけだ」
武はまじめな表情でまじめにいう。
「……お前そんななりして細かいよな」
日向はからかうように言う。なりとは武の身体つきのことだ。背も高く、骨格もしっかりしていて、格闘技でもしているかのような見た目をしている。しかし近藤は料理の腕は一流だが格闘技や運動は得意ではない。
「細かくはない。まじめに向き合ってるだけだ」
さも当然のことといった風貌で答える武。そんな二人のやり取りに、僕の斜め前を歩いていた
「そうだよ~。武の真面目さのおかげで僕達はテストで赤点とらずにすむんだから~」
「それはお前だけだろうが……」
常に赤点ギリギリをさまよってる陽介と一緒にされたくないのか、日向は引き気味に否定する。
「つか、話し戻すけど、お前は将来やりたいこととかないのか?」
話を一区切りつけ、日向は改めて陽介に問いかける。
「俺は大学に行く! そんで~、バイトして~サークル入って、女の子と遊びまくる!」
「遊ぶことばかりじゃねぇか……」
全く考える気のない陽介に日向はまたも呆れる。
「そうではなく、なりたい職業はないのか?」
武が質問を丁寧に言い換えて再び尋ねる。
「そんなの大学いってから決めればいいよ~! 遊んどける時に遊ばないと!」
結局遊ぶことしか考えてないみたいだった。
「……まぁ、お前はなんやかんや生きていけそうだよな。その性格で」
日向は諦めた様にそういうと、
「まぁな!」
と、自信満々に陽介は返事した。いい返事に、これ以上の話は無駄だろうと全員が判断したに違いない。
「そういう日向、お前は将来どう考えてるんだ?」
今度は逆に、武が日向にそう投げかけた。
「……まぁ、実は俺も決まってないんだけどな。とりあえず大学いって、大手企業目指すかな〜。細かくは大学いってから考えるつもりだ」
「なんだよ~俺といっしょじゃん! じゃあそれまで毎日遊ぼうぜ!」
「遊ぶのはいいけどほどほどにしろよ……」
「はいは~い!」
ちゃんと決まってはいないものの、皆なんとなくだが将来の事を考えていることに、僕は少し驚いていた。
僕も何かないだろうか、と深く考え込んでいると
「難しい顔をしてる亜樹は何かあるのか?」
武が僕の顔を見て聞いてくる。
「お前は頭いいからな。どんな所行くんだ? やっぱ、将来は先生とか? それとも教授か!?」
後ろにいる僕の方を向いて、期待の目で僕を見てくる日向。
「よ、
それに合わせて、陽介も僕をはやし立てる様にそういって僕の方を見てくる。
そんな期待の目に、僕は小さくつまらない答えを出す。
「そんなの……まだわかんないよ」
僕は困った顔をして答えた。
将来を考えた事がない。したい事も、目標も何もない。ただ与えられた課題をこなす事しかしてこなかった。テレビやネットでよくやりたい事をやっている人を見るけど、僕にはそれがとても羨ましかった。好きな事を仕事にする。それが理想的で、一番輝ける事なのは理解できる。しかし、好きな事を見つけられない人はどうだろう。やりたくもない仕事をやり、惰性で生きているのだろうか。そうはなりたくないと強く思う。
しかしやりたくない事があるわけでもなく、それは出来るとは到底思えなかった。
唯一、自分にある特殊な事といえば――
僕には昔から変な癖がある。それはどこでも起きる。例えば、家の自室で本を読んでいた時のこと。
「上条は声を荒げながらこう言い放った。貴様ら纏めて殺してやる! そして俺が最強となるのだ! その声は、世界を大きく揺らし、人類を震え上がるのには十分すぎた。しかし、彼らには目の前の大きな敵に屈しない覚悟が――」
物語に浸り、僕は無意識の中で、声に出して物語を読んでいた。
「亜樹! 静かにしなさい!」
扉を勢いよく開けて入ってくる母の怒鳴り声で、夢中に読んでいた本の世界から現実に引き戻される。
「うわぁ!」
その時の驚きで、びっくりした僕は驚きで本を落としてしまった。
「お、おどかさないでよ……」
本を拾いながら、集中を乱された母に不満を言う。
「なんであんたは本を読むときはそんなにうるさいの? 本を読んでる時だけは生き生きしてるんだから……」
不満を言う僕に対し、母は自分の方が迷惑と言わんばかりの様子だった。
「そんな事言われても……。僕にとってはこれが普通なんだから」
僕は集中をきらされた事にむすっとしながら答える。それに対し母も文句を言ってくる。
「喋らずに読めないの?」
「読めてたらそうするよ……」
そう答える僕に、呆れたように溜息を着く母。
「普段からそれだけ明るい子だったら良かったんだけどねぇ……」
溜息を吐きながらそういって、母は扉を閉めて去って行く。
「う、うるさいなぁ……」
立ち去る母に聞こえもしない文句を返す。
親にすらも言われる僕のこの癖。本を読んでいるといつの間にか内容を口に出して読み上げていることだ。
僕は本を読むのが大好きで、基本的に一人でいる時は本を読んでいる事が多い。
僕自身は物語に夢中になってるので気にはならない。けれど、外的要因などで集中が途切れると我に返る。
僕は大声で本を読んでいた時の事を覚えている。それが人前だった時は自分の無自覚の行動に恥ずかしさが込み上げてくる。
いつからこんなふうになったかわからないけれど、気が付けばその癖は現れていた。本を読んでいる僕は、物語の世界に没頭している。僕が意識することなく起きる症状なので、おそらく治らないものだと思っている。
そんな変な癖を恥ずかしいと思うようになったのは中学生時だ。暇だった時に教室で本を読んでいたら、僕はいつもどおり本に夢中になり、声に出して本を読んでいた。
休み時間ではあったけれど、現実に戻ってきた瞬間、クラスの皆が冷たい目で僕の方を見ていた。
それが恥ずかしくて、僕は顔を真っ赤にして本を仕舞い、純粋な僕は逃げ出しもせず誤魔化しもせず、ただただ小さくなり、恥ずかしさをこらえるしかなかった。
そんな冷たい視線を受けてから、僕は人前で本を読む事を恥ずかしいと思うようになった。
家では気にしないけど、流石に親に言われてしまうと集中力が切れるのでどうも読みづらい。図書館なんて論外だ。静かにしなきゃいけない所で、声を出して本なんか読んだら追い出されてしまう。
高校2年生になった今、僕が自由に本を読める場所は限られている。
家は親が怒るから駄目。自分の教室は変な目で見られるから駄目。図書室なんて論外だ。じゃあどこで読めばいいんだろう。
唯一、今までは川辺で読んでいたが、時折知らない人が通ったり、風に吹かれたり、正直集中出来ない。ゆっくりと、誰も来ない屋内で読書がしたいと。
そう考えた僕は、2年生に上がった時ぐらいに改めて学校を探検した。校舎内、グラウンド、校舎裏、校内をグルグル探してみると、それは以外な場所にあった。
去年まで使われていたが、だいぶ古くなっているということで今年から使われなくなった古い旧校舎があったのを思い出す。
旧校舎で授業をしていたすべてのクラスや授業などは新校舎へと移された。
その校舎はすぐに取り壊されることなく、しばらくは学校に残るらしい。詳しい理由は知らない。各校舎の入口には鍵が掛かってるし、容易に入ることは出来ない。
僕は適当に旧校舎の周りも見回っていた時、中に入れる抜け穴を見つけた。
それは人が一人通れるぐらいの床下の通気窓だった。足元についてる通気窓は鍵が壊れているのか締まらず、簡単に開けることが出来た。割と狭い窓で、細くないと入るのは難しそうだ。
少しドキドキしながら、僕は細い窓をなんとか抜け中に入る。中は机やら椅子やらが沢山置いてあり、物置状態になっていた。
昔ながらの木の机や椅子があり、一新された今の環境を知ると、戻りたくはない程使い古された学校の備品達。
1年間だが、使っていた事に少しの懐かしさを感じながら、僕は教室から廊下へ抜け階段を上がって行く。
外の景色は夕暮れ。なんとなく、僕は夕陽がみえるかなぁと思い立ち、4階へと階段を上がる。
僕はいけない事をしているドキドキと、ここなら誰も来ないのではないだろうかというワクワクで希望に満ちていた。
4階に行くと、教室には鍵が掛かっていて入れないようになっていた。
いっそ廊下でもいいから此処を拠点としようか、なんて考えながら1つ1つ扉をガタガタと試しに開けてみる。基本どのドアも鍵が掛かって開かない。
しかし、一つのドアがガラガラと抵抗される事なく綺麗に開いた。
中に入ると、教室内は広い窓から入る夕日に照らされ、夕焼けに染まっていた。
教室後方には乱雑に机が積んで寄せられ、半分程は広々とした空間になっていた。
僕はそのまま中に入り、窓の方へと近づき外の景色を見る。窓からは沈む夕日が綺麗に見えた。その夕日が特別綺麗かと言うとそうではない。夕日を売りにしている観光地で見る物には劣るだろう。
しかし、誰もいない自分だけの場所。ドキドキした気持ちと、夕暮れの校庭が相まってか、僕はこの景色を見て、迷うことなく思った。
「ここなら、邪魔されずに読めそうだ」
それ以来、僕は頻繁に旧校舎の4階に行っていた。1人になっては思う存分本を読み、時には友達と一緒に帰って本を読まない日を作ったり。
旧校舎に本を読みに行く時は、図書室に行くと嘘をついている。彼らは図書室に来ることがないからこんな嘘でも簡単に通ってしまうのだった。僕が本を好きなのを知ってるから不思議にも思わないはず。
彼らは僕が声に出して本を読む癖があることを知らない。自分の欠点を他人にひけらかす人はいないだろう。
季節は秋の始まり。僕は今日も友達に図書館に行ってくると伝え、そそくさと急足で旧校舎の裏にある床下の通気窓から慣れた足取りで侵入し、意気揚々と階段を駆け上がる。
そして、いつもの教室で僕は本を読み始める。
乱雑に置かれていた机と椅子を一つ窓際に起き、そこに座って夢中に本を読む。それが僕の幸せな時間だった。
誰もいない。誰にもなにも思われない。その楽しさが僕の癖を強くしていた。
最近では気がつけば教室の中心で、身振り手振りをするかのように体を動かしながら本を読んでいる。もちろん手に本は持ってるから、ただ歩き周り、片手をあげたり力を握ったり、胸に手を当てたり。動きながら本を読んでいるだけだ。
それが楽しすぎて、字が読めなくなる時間まで、僕はずっと本を読んでいる。
将来の事とかも考えなければいけないとは思うけれど、今の僕にはそんなの分からない。
本を読むのは好きだけど、文章力があるわけじゃないから小説なんて書けないし、勉強はするけど、ただそれは普通に勉強をするからテストで点が取れるだけであって、決して頭がいいわけじゃない。
だから僕も、ありふれた人達と同じように、適当な大学に言って、なんとなく就職先を見つけて、適当な職に就くのかな~なんて漠然と考えていた。
それでも、なにか自分のしたいことをしたいなと思う自分もいる。だから僕はまだ進路を決められないでいた。
そんなことを心のどこかで思いながらも、僕はいつもと同じように本を読む。
「この世界は美しい。けれど悲しみに満ち溢れている……。ああ! 何故この世界はこんなにも矛盾しているのだろうか!」
主人公の台詞を声に出して読み上げる。ヒロインの台詞もそれは同様。
「矛盾などしていません! この世界には、様々なものが溢れているからこそ美しいのです。悲しみ、喜び、怒り。言葉だけでは語り尽くせないほど、様々なモノで満ち溢れているのです。だから人生は幸せになれるのです!」
物語に夢中な僕は、自分が旧校舎にいるという事をもはや覚えていない。物語の中に入り込み、僕は現実にいない。この綴られる物語そのものになりきっている。
ヒロインの台詞はそのまま続く。
「美しいものだけを見るのはおやめなさい。悲しみを知り、怒りを堪え、様々な事柄を経験すれば……あなたも私も……きっと、きっと素敵な――」
快楽にも近い没頭をしていたその時。この後最高の決め台詞が入りそうなその瞬間の出来事。
突如として僕のいる教室の扉が、何者かの手によってガラガラと音を立てて開かれたのだった。
普段聞こえないはずのその音に僕は敏感で、物語の世界から、瞬時に現実へと返ってくる。僕は目をウルウルさせ、立ったまま神に手を差し伸べるかのように片手を伸ばしたポーズを決めたまま、扉のほうを見た。
そこには……女子生徒が立っていた。僕の見たことのない、長い黒髪をした女子だった。
目を丸くして、口を小さくあけ、唖然としているような表情で僕を見てくる。僕もきっと似たような表情をしてるに違いない。
僕は一瞬どう反応してよいのかわからなかった。見られたことの羞恥がやってくる前に、物語から返ってきた僕は、少しハイになっているようで、現実と創造の区別がつかなくなっていたのか、しばらくお互いに硬直状態が続いた。
しかし、自分が教室という場所にいることに気がつくと、現実だということを頭が理解し、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。耳まで顔を真っ赤にすると、僕はぎこちない動きで手を降ろし、窓際に置いてある席に、肘膝がぎこちない人形のような動きで座ると、勢いよく顔を伏せた。
まさか人が来るなんて思っていもしなかった。しかも女子。女子なんて一番見られたくない。
僕は色々な事を考えた。今後の学校生活、変な噂を立てられ、後ろ指を刺される日々。キモイ奴だと距離を置かれる日々。友達がドン引きして去っていく絶交。
なによりも、こんな場所で、特定の女性に見られるという事が、何よりも僕のパニックを増幅させる。
「……あの」
恥ずかしさとパニックで顔を上げられず、しばらく伏せていると、扉の前で立ち尽くしていたのか、少し遠くから女子の声が聞こえる。僕はその声にびくっと身体を少しだけびくつかせていると、彼女は恐る恐る言葉を続ける。
「ここで何をしているのですか?」
純粋な問いかけだった。僕は内心、そっちこそ何してるんですかと問いかけたかった。しかし恥ずかしさで慌てていた僕は誤魔化そうという想いに必死で、顔を伏せたまま答える。
「な、なにをしているのかと言われても…… 僕は本を読むのが好きで……で、でも一人になれる場所がなくて……口にしちゃうからここで本を読んでたんです! ほんとです! それだけ!」
何言ってるんだこいつ。いや、僕は。支離滅裂な説明に自分でも何を言ってるのかさっぱり分からない。絶対変な人だと思われたと、僕は心の中で泣いていた。
「……本を読むのが好きなんですね」
しかし、意外な事に、女性の口からは、優しい口調でそう言う声が聞こえた。引かれた感じもなく、ただ人と出会っただけのような口調だった。
僕はその声色に、ちらっと少しだけ顔を横に向け、女性の顔を見て答える。
「……そ、そうですけど」
僕の答えを聞いた女性は、少しだけ柔らかに微笑み、教室の中に入ってきた。
「ずいぶん楽しそうに読んでいましたね。なんの本なんですか?」
楽しそうに読んでいた。彼女のその台詞に、僕はあの癖を聞かれたと改めて再認識し、恥ずかしくなりまた顔を伏せる。
「い、いや……対した本じゃ……ただのライトノベルです……」
「ライトノベル?」
女性は僕の方に近づき、ながら疑問形で復唱してくる。ここは嘘でも純文学と言ったほうがよかっただろうか。
しかし、パニックで言い訳をしたい僕は、彼女の質問に答えるしかできない。
「さ、最近の流行りですよ。なんていうか……漫画と小説の中間みたいな」
凄いざっくりした例えを僕は言った。これはあくまでも個人の感想であり、全てがそうであると定義付けているわけではない。心のなかでも、僕は何故か言い訳を続けていた。
「そのようなものがあるのですか。私知りませんでした」
納得した彼女に僕はそう返した。そして、当然の疑問を僕へと返してくる。
「でも、本を読むなら図書室の方が良いのでは無いですか? 静かですし、雰囲気もきっと図書室の方が落ち着くと思いますけど」
的確な指摘に、よくわからない緊張が走る。
僕は顔をバッと上げ、弁明をするようにはっきりと彼女の顔をみて言った。
「そんなの読めないからに決まってるじゃないですか!」
女性は少し驚いたのか、軽く一歩下がる。
「よ、読めない?」
僕の言ってる意味が全く伝わっていない様子。それもそうだ。僕が聞いたって首を傾げるよ。
僕はもう一度言う。
「そ、そうですよ……読めないんです」
「どうしてです?」
彼女は首を傾げた。
まったくもって察してくれない。まぁあの光景を見たって、本を読んだらつい声出しちゃうんですよ~。なんて伝わるはずもなく。
俯き加減で、小さな声で僕は恥ずかしさに耐えながら答える。
「さ、さっきの僕を見てたらわかりませんかね」
「……とても楽しそうに本を読み上げていた事ですか?」
楽しそうにと言われ、見られた時の事をからかわれている様に思われ、再び恥ずかしさが増してくる。僕は一度上げた顔をまた伏せるのもなんだか逃げたようで嫌だったり、色々な感情が混ざり、投げやるように答える。
「そうですよ! あんな風に声を出して読んでたら人前で本なんて読めないじゃないですか!」
あえて彼女の目を真っすぐ見つめ、僕は言い放った。
「…………」
すると、彼女は僕の目をじっと何も言わずに見つめ返してくる。
「…………」
僕も合わせた目線を外すことが出来なかった。
数秒そうして硬直状態が続く。すると、先ほど勢いに任せて彼女を見た僕は段々と冷静になってきて、恥ずかしさというよりも、女性と目を合わせている事に対する照れの方が強くなっていく。そして、僕はようやく今まで会話をしていた女性の顔をしっかりと認識することになる。
くっきりと存在感のある目。腰ほどまであるさらさらした長い黒髪。しかし随分と華奢な体つき。やせ細っているわけでもなく、健康的な痩せ方に思える。
一言で言えば、綺麗な人だと思った。
気が付けば僕は彼女を観察していた。その間に彼女は何かを考えていたのか、突如人差し指を天井に向け、頬のあたりでピンと立てる。
「つまり、あなたは静かに本を読むことが出来ない……と言う事ですか?」
首を傾げ、名推理をした様に少しどや顔をして彼女は言った。
「……そう! そうです! だから僕は一人で本を読める場所をさがしてたの!」
解を導き出した彼女を囃したてる様に、僕は気が付いたら嬉しそうに答えていた。
「なるほど、確かに図書室では静かにしなければいけないという決まりがありますね。声に出して本を読んでいては、ほかの人に迷惑になってしまいます」
「流石です! 話が分かりますね!」
僕は拍手でも送りたくなるようなテンションでそういうと、彼女は手を降ろし、後ろ手に組むと、僕にまったく関係ない質問を投げてくる。
「……ということは、ここにはもう誰もこないという事ですか?」
僕の台詞に、彼女はなにか違う情報を得たようだった。おかしなことを聞く人だ。この校舎が使われたのが去年で最後だったことは、生徒なら誰でも知っている。
「そりゃ、今年から旧校舎になって使われなくなったんだから、誰もこんな所こないですよ」
僕がそう答えると思い出したように少し慌てた様子で彼女は言う。
「え……? あ、そうでしたね! すっかり忘れていました! あはは……」
笑って誤魔化した。忘れるほどどうでも良かったのだろうか。
まぁ、興味ない人からしたら覚えてもいないこともあるのかな。
「……綺麗ですね」
彼女は不意に視線を窓の外に向けると、座っている僕の机を挟んで向かい位置までやってくる。
その視線につられるように外を見ると、天は真っ赤に燃えていて、夕陽が教室中をオレンジ色に照らしていた。
僕は視線を彼女に戻す。彼女は外の景色を見ながら、何とも言えない表情をしていた。寂しいような、でも何処か笑っているような……今の僕には分からない、彼女は不思議な表情で夕陽を見ていた。
なんとなく彼女に見惚れていると、僕の視線に気が付いたのか、目が合う。
「あ……」
僕は見ていたことを悟られたくないと条件反射で思うと、目線を逸らす。
すると彼女は思い出したように軽く謝り話を戻す。
「ごめんなさい、話が逸れてしまいましたね」
「い、いえ……別に」
謝られるほどの事でもなかったので僕は小さく否定すると、彼女は僕のほうを振り返り姿勢を正して自己紹介を始める。
「申し遅れました。私、3年の
生徒同士の挨拶とは思えない丁寧な挨拶に驚きながら、僕はそんな挨拶をしたことも無いので普通に挨拶を返す。
「えっと……東條亜樹です」
「東條さんですね。よろしくお願いします」
そういって深々とお辞儀をする。そんな丁寧な挨拶されるとこちらも少し緊張してしまう。
「よ、よろしくお願いします……?」
何がよろしくなのかは疑問だったが、細かいことは気にしないでおこう。
そう思っていると、彼女は舵の切り方が唐突で、確信に迫る質問をしてくる。
「東條さんは声に出して読むのが好き、と言う事ですか?」
「いや、好きとかそういうことじゃなくて……無意識なんですよ。声に出すのが」
僕は気が付けば恥ずかしさもなくなり、悩みを打ち明ける様に話を始めた。
「本を読むのは好きなんですけど……夢中になると物語の全てを口が紡いでしまうんです」
「……病気ということですか?」
「びょ、病気と言われるとそんな診断を受けに行ったこともないですが……」
本を読んでると口に出してしまうんですなんて恥ずかしすぎる。その結果異常ないですねとか言われた日には二度とその病院にはいけなくなる。
「しいていうなら、変な癖……ですかね」
「……癖ですか。私は最初てっきり、演劇の練習をしているのかと思ってました」
白々さんは笑ってそう言った。その言葉を聞いて僕は唖然とした。
「……そういう言い訳があったのか!」
盲点だった。演劇の練習だと言えば違和感ないんだ。
「言い訳しないでも、素直に言えば良いじゃないですか」
僕のひらめきに、白々さんは面と向かって否定してくる。
「えぇ……絶対嫌ですよ」
「どうしてですか?」
「だって普通に考えてキモイじゃないですか、そんな事打ち明けられたら」
本を読んでると口に出しちゃうんです。なんて普通聞いたらドン引きだ。
「そうですか? 私は素敵だと思いますが」
「ステキ?」
何処がどう素敵なのか僕には1ミリもわからない。
「はい。事情を知った上で言うのはおこがましいかもしれませんが、東條さんの語り口、とても良かったですよ」
急に褒められて僕は思わずドキッとした。彼女はそのまま言葉を続ける。
「迫真の台詞読み、感情を込めた抑揚、素人目ではありますが、光るものがあると思いますよ!」
突然の誉め言葉に僕は素直にそれを誉め言葉だとは受け入れられない。
「そんな訳ないよ……皆が言うのは一つだよ。うるさい、黙れ。そんなことしてて恥ずかしくないの?」
そう自分で思い返しながら口にすると気分が落ち込んでくる。
しかし、白々さんは落ち込んだ僕を励まそうとしてくれているのかぐいぐいと詰め寄ってくる来る。
「私はそうは思いません! 東條さんはもっと自信もって良いです!」
強く、僕の否定的な言葉を否定してくれる。その強い言葉に、僕は少し、心が揺らぐのを感じた。
「だから自信もって、演劇に集中してください!」
と、急な的外れな言葉に僕は疑問をもつ。
「ちょ、ちょっとまってください! 僕は演劇をしたいわけじゃないですよ!」
いつからそんな話になったんだろう。熱くなりすぎて本懐を見失っている。
「……あれ?」
僕の否定に白々さんは首を傾げた。
「僕は、ここに本を読みにきてるんです」
改めてそう伝えると、白々さんは一瞬考える様に固まると、ああ、と再び動き出す。
「そうでした。最初演劇の練習だと思っていたので、演技に自信がない方なのかと思ってしまいました」
「演劇なんて僕はやった事ないですよ。喋ってしまうのは、本を読んでしまう、癖なんです」
「そうでした。それで、本を読む練習をしているんですね?」
違うってば。さっき理解してくれたんじゃないの?
「克服も練習もありません! 僕はただ本当に、静かに本を読むのが好きなんです。ただそれだけなんですよ」
と、もう一度説明をすると、
「そんなのもったいないです!」
机に手をバンと手を置き、目をキラキラさせて彼女は言う。
「その癖は才能です! 生かすべきです!」
「な、何をそんなに……」
「克服するべきです! 皆さんに見てもらうべきです!」
「な、なに訳のわからないことをいってるんですか!?」
人前で披露? 生かすべき? 何度言っても、彼女は僕の消したい癖を、強調させようとしてくる。
だから、僕は強く拒否する。
「僕はそんなことしたくないんです! 人前で喋るのなんて……そのせいでトラウマなんですから!」
「だったらそれこそ向き合ったほうがいいですよ! いつまでも否定して逃げていたら、一生トラウマのままです!」
「そ、そんなこと言われても……」
「それに、これから先の人生、ずっと此処に来れるわけじゃないですよ? 逃げずに向き合えば、本を読むとき、その癖がでなくなるかもしれないじゃないですか?」
「そんなのわかんないじゃないですか」
「やらなければ何もわかりませんよ?」
「それはまぁ……そうですけど」
そんなことは分かっている。でもトラウマに自ら立ち向かえるほど僕は強くない。
「でも、そんなのどうやって克服するんですか……」
僕は気が付けばそう問いかけていた。そんなの、癖を持ってる僕しかわからないのに。
「そうですねぇ……」
しかし、彼女はう~んと顎に手を置いて考えてくれる。
そして、思いついたように目を開くと、楽しそうにこう告げた。
「でしたら! 私がその練習相手になってあげます!」
と、さも何でもないことのように言い放った。
「え? ……えぇ!?」
とんでもない閃き僕は純粋に驚いた。
「これから平日は毎日ここに来ます! そして、東條さんが癖を克服出来る様にお手伝いします!」
「何のために!?」
目的が分からない。僕が仮に癖を克服できた所で、彼女になんの得もない。
「何のためでもありません! ただそうするべきだと私が思うからです!」
「い、意味わかんないです……なんで今日初めてあった僕のためにそんなことをしようと思えるんですか」
「考えてみてください。使われなくなった旧校舎で二人だけの教室。夕陽が綺麗なこんな素敵な場所で出会った私達、奇跡みたいだとは思いませんか?」
「……ま、まぁ、確かに印象には強いかも」
僕は今までの人生で初めて出会ったタイプの人と話していると改めて思う。
「でしょう? そして、そこにはお互い癖のある物同士が集まり、悩みを抱えている。これは、お友達になるしかありません!」
「随分と飛躍しているような気もするけど……」
「……当然無理にとは思いません。私も熱くなってしまいましたし。あくまでも東條さんが良ければ、という前提ではありますが、どうでしょう?」
最後は僕が決めることだと、彼女は言った。ここまで僕に熱く語っておきながら、そこで引くのはずるい。
でも、確かに彼女の言う事に僕は納得できることがたくさんあった。
克服しなければいつまでもこのまま。でも変える勇気はなくて、一人になれる所を探してばかり。……そんな僕の秘密の場所に、突如現れた一人の女性。
その女性は僕の癖を理解し、肯定し、克服できるように手伝ってくれるといった。
僕の卑屈で、弱気な部分を補ってくれる彼女の手を、ここで振り払う理由がどこにもなく、
「……ホントにいいの?」
と、僕は遠慮気味に再確認した。
「もちろんです」
彼女は嘘のない笑顔で、間を作ることなく答えた。
どんな結末になろうと、やってみなければわからない。彼女の言った言葉と、彼女の熱い気持ちに打たれ、僕は返事を返した。
「じゃあ……よろしくお願いします」
そういうと、彼女は元気に答える。
「任せてください!」
そういう彼女に、僕はなんだか妙に安心した。
内心、彼女が言い出したことだし、僕は着いていくだけでいいか、などと思っていると、
「今日はもう日が暮れますので、明日からさっそく取り掛かりましょう!」
彼女は嬉しそうに入口へと小走りで駆けながら言うと、扉に手をかけ唖然と立ち尽くす僕の方を振り返る。
「本は東條さんが持ってきますよね」
「あ、はい」
「ではお願いします! また明日!」
僕に向けて笑顔で手を振る白々さん。僕も小さく手を振り返すと、扉を開け颯爽と去っていたのだった。
「……なんだったんだろう」
嵐のように現われて、僕の平穏を乱して消えていった。
僕は彼女が去っていた扉のを見たまま、しばらくその場に立ち尽くしていたのだった。
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