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とんかち式

第1話…ではない

  時間、時間だけがすぎて行く。僕は何処から生まれてきて、どうやって死んで行くんだろう。生物学的に言えば両親の精子と卵子が結合して母親の腹ので出来上がって言ったんだろうけれど言いたいのはそういうことではないか。例えば10年前の自分と現在の自分が同一人物なのかというのが疑わしくなってくる。過去の記憶は保持されているのだからそんなことは当たり前だと思うだろう。だがそこにはそう信じたいという自分がいるのも本当。感覚を疑いだすとキリがない。世界五分前仮説を否定するのは簡単だろう。僕は10年前から、いやもっと前から生きていると言えばいい。

  僕は10年前の自分の写真を見ている。今と比べると大分若々しいし髪も長い。今よりも純粋そうな表情をしている。自分でも子犬のような目をしていると思うくらいだ。今思うと積極的に友達を作らないようにしていたと思う。それはおそらくこの人生が関係している。失敗の多い人生だった。まるで太宰治のようだ。「恥の多い人生でした」その通り。何度も自殺を考えているが死ぬ勇気はない。みっともなく生き続ける惨めな生命である。日々に絶望を感じながらも少しの喜びを見いだすこともある。うつ病に罹患するというのは本当に面倒なことである。10年前の僕も今と同じように躁鬱に悩まされながら不安に怯えたような顔をしている。この世の不文律が分からないからにっちもさっちもいかない状態だ。過去に戻れるのなら「もうちょっとよく考えろ、慎重になれ、お前は全くの無知だ」と言いたいくらいだけど現在ではそれは叶わない。

  どこか作り物めいた街の中を歩く。いや、人が作ったのは当たり前なのだけれどどこかぎこちないと言ったらいいのかもしれない。うまく身体に馴染んでいない感じ。その街が、それを見る僕の記憶がほんの数分前に誰かの手によって作り出されていて、昔から僕がいる事さえ錯覚に思えることもある。だけど確実にこの感覚は本物だし、僕が5歳くらいの時のこの街のことを僕は知っている。というのも誰かが作り出した偽の記憶かもしれないしそうじゃないかもしれない。素朴な感覚で言えば排中律なのだろうけれど、形式主義と実質主義の難しい対立が関わってくるだろうから僕にはうまく説明できない。もし世界が五分前に作り出され続けていたとしても誰がそのことを証明できるのだろうか。でも素朴な感覚で言えばありえないよね。

  僕は山にいる。内陸部で生まれたのだから仕方がない。原初的な風景。どこか懐かしい感じがする。そこはとてもいい場所で、うまく言葉には出来ないけれど自然に囲まれた快適な場所だ。たくさんの木が生えていて草花の緑はとても瑞々しい。きっと水が良いのだろうと僕は思うけれど本当のところは分からない。ここはとても良い場所だ。でも僕の家じゃない。ここに住めたらいいと思う。でも僕の家じゃない。僕の家じゃない。僕の家じゃない。僕の家じゃない。僕の家じゃない。僕の場所じゃない……。

  きっと時が経てばこの風景も変わるのだろうなと思う。今しかない草木たちの緑を残しておきたいと思うけれど果たしてどれだけの人の目に留まるのだろう。未来のことはよく分からない。あまり良い未来が待っているとは思えない。あまり期待はしていない。ただ働き、食事をし、質素に暮らせれば良いと思う。難しい、程度問題だ。人間の手が入らないと維持できない自然もある。人間には手に負えない自然もある。なるようになるさとも思うが、砂漠で暮らす訓練もしていた方がいいかもしれないと漠然と考える。

  僕は山にいる。内陸部で生まれたのだから仕方がない。周囲には木々が生えていて、視界の上の方には岩場も見える。険しい道を歩いていくと心なしか気温が下がったように感じる。木を叩いたり岩を砕いたりして見ても思わぬ反撃を食らうのが関の山だろうなと考える。この場所いて僕は何も出来ないし、何かをするべきではない。何をしても意味を成さないし、この見ている風景が自分自身にはなって欲しくない。せめて僕が死ぬまでは今のままであってほしい。

  僕は山にいる。僕は山にいる。僕は夢の中にいる。夢を見ている。幻覚を見ている。足を踏み外し崖から落ちていく。岩に頭をぶつけて頭蓋を骨折する。目を覚ますと夜から朝に変わっている。

  声がエコーする。声がエコーする。重層的に折り重なる。時間と空間が生まれハーモニーを形成する。声がエコーする。時間と空間が生まれたおかげで前後感覚が生まれ、上下左右、東西南北の感覚も生まれた。時間が過去と未来を生み出し、現在を生み出した。空間が今僕が存在するここを生み出し幾何学を生み出し住処を生み出した。

  物が朽ちていく様子を記録することは出来る。人はそれを観察することができる。そこに何らかの時間的連続性を見いだすことは出来るだろう。だがそれも全て錯覚なのではないかと疑うことが出来る。A地点での物体QとB地点での物体Qを見比べてその過程を全て眺めていたとしてもそれが五分ごとに書き換えられているものではないという保証はあんまりない。だから可能なのは自分が現在持っている感覚を信じることだけなのかもしれない。だけどその感覚は一体どこから来たものなのだろうか。自分の記憶が五分ごとに更新されているにしろいないにしろ何かしら理由があるのかもしれない。

  ここで気がつくのは五分ごとの更新を一体誰が行なっているのかということだ。この世界を管理するサーバーコンピューターがあって五分ごとに管理人がエンターキーを押している可能性も無いではない。だが僕たちはそれを見ることが出来ない。もし見ることが出来ればこの問題はすぐに解決するのだろうけれど、どうやら無理な要求らしい。

  例えば優秀な法律家が僕の過去を何から何まで暴いたとしてもそれは再現された過去であって本物の過去ではない。目の前に再現されたものを見て過去と全く同じ現象が心の中に立ち現れるかもしれないしそうじゃないかもしれない。つまりこの世界が五分前に作り出されたものであろうが、そうでなかろうが、現在ということを解釈するには些細な事情なのかもしれない。一度通り過ぎた時間が巻き戻るようなことは無く、あるのは再現性だけなのかもしれない。

  同様にして発明家が新たな発明を生み出した時は未来が現在には再現されたと考えても良いのだろうか。僕にはよく分からない。

  こう考えるとすれ違う対向車が自分の過去に向かっていんじゃないかとも思いたくもなるけど、多分そうじゃない。向こう側も前を向いて運転しているのだから自分の進行方向が時間的に未来、つまりこれから進む予定のところだと捉えられるはずで多分そのことは全てのドライバーに対称的に当てはまるんじゃないかとも思える。もしそうじゃないとすればそこには話し合いの余地しかないだろうと思う。

  つまり、目の向いている方向が進行方向だと思うのだけれど、目には光が入って来ている。その光がどこからやって来たのかと考えるとそれはあちら側の過去になるのかもしれない。なんだか頭がこんがらがりそうになる。未来と過去の衝突地点が現在で、それが目だったり、他の五感だったりするのかもしれない。

  光。太陽から光が発せられて地球にやって来るまでにはいくらかの時間がかかる。今見ている宇宙の姿が何万光年かの過去の姿だというのは有名な話だ。

  でもそれも、そう思い込むように作られているだけなのかもしれないとすればまたまた話はスタート地点に逆戻ってしまう。ここまで来るとこの無限後退構造が記述の構造に似ていることに気がつく。つまり記述することでしかこの世界を認識することが出来ないとすればこのせかいの構造も記述の構造に従ってしまうことになる。つまり記述の構造を知ることがこの世界をしることで、そういうやり方でしか人間は物事を知ることが出来ないのかもしれない。いささか夢の無い話だが仕方がない。もしそれ以上の事を知ろうとするのならば第六感に頼らなければならないのだろうか。話がオカルトめいてきた。

  うん。まぁ、難しいことは考えずに今を楽しめばいいというのはこの世の真理なのかもしれない。そう簡単に行けば苦労しねーよと言うかもしれないけれども。うーん。そう考えると、こうして書かれているお話が現実のものである可能性が浮かび上がって来る。つまり過去や未来とそう大して構造が変わるわけでは無く、語らなければならない、言葉にしなければならないという点では全く同じものであるとも考えられそうだから。

  言葉それ自体をどのように捉えればいいのだろうか。外界から独立して言葉というものが成立するのならばそれは何なのか。一体どのように捉えればいいのだろうか。大したことでは無いからそう深く考える必要は無い、のならばいいけどね。

  楽園の定義を述べよ。

  早朝の市街地。昨夜の享楽の名残が其処彼処に残っている。青い空気が漂っていて、何もかもが青い。鴉が鳴く。鴉が鳴くからかーえろ。これからどうなるのかも分からない。僕はただ生きているだけだ。不思議なくらい生きている。ゴミの山を避けながら寝ぐらへと向かう。あー、あー、あー、あ、あ、あ、あ、ああ。色々な声が聞こえる。多重に重なった声がこの世界そのもののようで何だか儚い。子供の頃に見た夢が思い出される。この世には僕一人しかいなくて、何かが僕の事を狙っている。それが何なのかは分からない。だけど僕は逃げなければならなくてそれが生きるために必要だってことだ。僕は相手の事を知らないのに、相手は僕の事をよく知っているように思えた。圧倒的に僕の方が不利で、どうしたって逃げ出すしか方法は無かった。僕には何が出来るわけでも無かったけれど、少しでもこの命を長引かせる必要を感じた。それは本能のようなものかもしれなかったけれど、どこか諦めの感情もあった。そう長く生きてもあまり意味はないのにといった虚無的な感情が僕の心の面積の一部分を占領していた。それはほんのちょっとのことだったけどね。

  そんなこんなで僕は生きなければならなくなった。けれど周りは強い大人ばかりでこんなに小さいのは僕一人だけのようだった。それに「アイツ」の影がいつまでたっても消えない。いつもどこかで僕の事を見張っているようで、その気になればいつだって僕の事をとって食べてしまうことだって出来てしまいそうだった。そんな風に相手が余裕綽々で何だか自分が生かされているような気持ちになるのはあんまり気持ちのいいものでは無かったけれど、それも自然の掟だと考えれば受け入れることが出来たし、それはそれで良いような気もした。 それが生きるっていうことなんだ、サバイバルなんだ、と自分に言い聞かせることで何とか自我を保っていたし、貧しいなりにもそれなりに生活を楽しむことが出来た。生活用品は実用性重視で購入するようになった。もちろんデザイン的に気に入ればそれで良いのだけれど、それ以外にも考慮すべきことがたくさんあるように思えた。もちろん金銭的な限界も存在するけどね。遠くの景色を眺めながら、僕はあと何年生きるのだろうと考えた。その視線の先には山々が立ち並び厳かな姿を見せ、麓を見れば緑の木々が茂っていて、谷には川が流れていた。それでもなお、闇に潜む「アイツ」の気配は消えなかったのだけれど。

  そろそろ「アイツ」に名前をつけなければいけない。まぁ、見たまんまで「シャドウ」って呼べばいいと思う。ありきたりでもあるし、普遍的でもある。むしろ闇に潜むアイツのことだからシャドウって名前はかなりぴったりなんじゃないかと思う。シャドウの気配を感じると、人々は自分の場所へと引きこもってしまう。カーテンを引き、地下シェルターに篭り……、大げさかもしれないけどそんな感じ。その間にシャドウが家の周りを闊歩していると思うと足がすくむような気持ちになる。太陽が昇るとシャドウは姿を消す。それはもちろん太陽の光がほとんどの闇を消し去ってしまうからだけれど。それでも世の中に影は生じるし、日中でもそこにシャドウが生まれたりすることもある。光があるところに物があれば必ず陰が生まれてしまう。この二つは切り離せない関係にあるのかもしれない。それでも夜の闇に比べればずっとずっと弱々しいのだけれど。光と闇が切り離せないドッペルゲンガーのようになっているのはすごく興味深い。これは物理的文化的に検討することが出来るなと思うが思うだけで大したことはしていない。結局多少の思索にふけるだけなのだけれど、まぁあんまり意味はないだろうなと思っている。そもそもドッペルゲンガーってそういう意味だっけ?と今考えてみる。何か別の記憶に影響されているなと思うけれど訂正する余力もない。もう寝たいのだ。

  人は睡眠中に夢を見る。ウェブによれば夢とは、「主としてレム睡眠の時に出現するとされ、睡眠中は感覚遮断に近い状態でありながら、大脳皮質や(記憶に関係のある)辺縁系の覚醒水準にほぼ近い水準にあるために、外的あるいは内的な刺激と関連する興奮によって脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されつつ、記憶映像に合致する夢のストーリーを作ってゆくもの」と定義されるそうだ。だがこれはあくまで神経科学的な定義であって、見方を変えれば夢も全く別物のように定義されてしまうこともあるということだ。まぁ僕も夢を見るのだけれど、最近の夢には芸能界のアイドルが出てきたりする。当然僕には手の届かない人物な訳だからみんな安心してほしい。分かった。分かったからその手に握ったナイフを収めろ。いいな? 聴きたく無いだろうが夢の内容を話すと僕は夢の中でそのアイドルといい感じになっていて、あろうことか致してしまっている。まさかの、だ。それも結構いい感じに致してしまっている。もちろんそのアイドルのファンが黙ってはいないだろうから具体的に名前を出すことは出来ないんだけど。まぁアイドルと致すことが僕の欲求ならかわいい方だとも捉えられないか。昨今はどうも世間が物騒で困る。でも結局、僕の夢はどこかから漏れて(不思議なことにこれは必ず漏れるのだ)僕はファンの一人にナイフで刺されて無残にも路上で息絶えることになる。そこで僕はベッドの上で汗だくになりながら意識を取り戻す。つまりそれも夢ってことになる。よかったよかった。

  悪夢が夢であることに人は誰しも安堵するような気がする。ベッドから抜け出し家の外に出ていつもと同じ風景がそこには広がっていることを確認する。とりあえずは夢だということを知って安心するのだが、果たしてそれが眠る以前と同じ物であるということをどうやって証明するのだろうか。時計を確認する以前にその時計がどのような振る舞いをしていたかが分からないのと同じように、僕が確認する前のこの世界の姿がどのようなものだったのかも分かりにくい。物が証明してくれるかもしれない。例えば放射線による元素の年代測定とか。だがそれはどちらかと言うと実在をほのめかしはするものの、論理学や数学の法則に則った命題になってしまうのではなかろうか。

  いやはや難しい。どうして僕はこんなテーマに取り組んでしまったのか。何も分かっていないじゃ無いか。このままじゃ暇つぶし以上にはなれないだろうな。と、思いはするものの何も変えることは出来ず。つまりこの世界が言葉と論理学からしか基礎付け出来ないのならば、世界は命題で、事実から乖離しているかもしれないという、とんでも無い結論になってしまうのでは。この世界の実存とは何かと言うことを考えた時に、感覚でしかこの世界を測れないとしたら、およそ世界は極限まで遠ざかっていくし、逆に言えば認識によって極限までこの世界の実体に近づくことが出来るかもしれないらしい。つまるところ僕は極限まであなたに近づくことが出来るし、反対にとてもとても遠ざかることも出来る。逆に言うと極限まで近づけば僕はあなたにぶつかるだろうしその先はと言うと融合するわけでこうなって来ると話がちょっと違ってくるのかもしれない。そしてどれだけ離れたとしても僕はあなたから逃げることは出来ないってことになる。それは地球でも宇宙でも変わらないかもしれない。地球を一周すれば同じ所にたどり着くと言うのはここでは気の利いたジョークになりそうだ。結論、僕もあなたも存在しているってことだ。でも少し思う。こんな当たり前のことを説明するためにどうしてこんなに苦労しなければいけないのだろう?


   ATMから引き出したお金でご飯を買って食べる。システムが僕のお腹を満たす。

もしそのシステムが機能しなかったとしたら? あまり考えたくはないことだ。まぁその時と言うのは文明崩壊の時と同義だろうから、みんなが好きなカタストロフィ映画やディストピア映画、あるいはポストアポカリプス映画みたいな世界が待っているのだろうと思うけれど。つまり現代社会はかなり高度なシステムによって維持されているんじゃないかと思うことはある。原始社会の農耕文明に比べれば今では現実がサイエンスフィクションみたいなものだ。もしそのシステムが脆弱な基礎によってしか支えられていないとしれば人々は終末への備えを始めるのかもしれない。それは文明の発達とはむしろ逆行していて、原始的な生活を行うための備えとも言える。そんな備えをする人々が存在する一方で、社会の方は相変わらず経済社会を発展させ続け、一向に破滅するような気配を見せない。上手く観察できていないだけで、案外社会は柔軟な対応をしているのかもしれない。それはアメーバの一部分を切り取っても死なないようなもののように思える。種によって生態は違うだろうが、まぁ大雑把に言えばそう言うことのようだ。でも、それでも僕らは社会をその振る舞いによってしか観察することができない。それは多分、人の感情を振る舞いでしか判断できないことのアナロジーなのかもしれない。不確定性原理の、痕跡、それはフラクタルで、そこかしこに散見される。人間は皮膚によって外界と区別されていて、その中身は見えない。社会が人間の総体なら同じように中が見えないのもあり得そうな話だ。話が戻るけれど、それは「アイツ」と呼ばれるものにも同じことが言える。もしかすると人は敵を作らないと精神が安定しないのかもしれない。

  逆行。あるいは全てが逆行する。倫理観は後退し、死んだものは生き返り、過去が未来となる。その中でただ一つ例外があった。それは、塔。つまり構造物で建造物。全てが逆行する中、塔だけが上へ上へと、その高さを増していった。逆行している。それなら宇宙も逆行しているのだろうか。この宇宙は数式の如く膨張している。それが逆行しているということは例えば、、の逆乗ということだろうか。でも、無限に膨張するか、無限に収縮するかはベクトル空間の形によりけりなのかもしれない。

  都市だけが成長し、他は後退した。ベクトルでいうと正負の関係なのかもしれない。生物は消滅し、辛うじて人間だけが生き残った。食べ物は多分人間だけが作り出している。それも人間の為のものだけで、人間の分しか作り出されていなかった。この世界を誰が支配しているのか誰も知らなかった。全員が支配者で全員が支配者ではなかった。だが心の何処かに自分が飼われているという気持ちがあって、それが機械であるのかもしれないという疑いは誰もが持っていた。その世界は閉じられていて、完成していた。そこから出なければ終生を遂げられるということは保障されていた。だがそこから出たものがどうなったのかは、中にいるもの達は誰もが知らなかった。

  そのせいか、人々は外の世界がどのようなものなのかを色々と話し合った。「アイツ」の存在が生まれたのもその過程でのことである。こういった種族が生まれるのは仕方のないことである。語り手達は好き勝手なことを話し続けていたが、徐々に秩序が生まれ出した。無秩序から秩序が形成されるというパターンは人類の至る所で見られた。それには戦争も含まれるし、無駄とも思えるような行動もあった。だがそれも長くは続かず、二世代か三世代するとすぐに原始的に逆戻りということばかりだった。

  遺伝的アルゴリズム。そういう観点で見た時に人類はまだまだ不完全なのかもしれない。観察対象の元を構成する人間が不完全なのだから仕方がないというのは、仕方のないことだと思う。閉じた世界の中で人間はあーでもないこーでもないと議論する。それを眺めている種がいるとすればきっとホモサピエンスのことを不思議な目で眺めているだろう。蜂は人間に敵意を持っているかもしれないが。結局、人間社会とはかくも不思議なものであると。そして人間も、外側のものを敵と認識する。厄介なことに。それがつまり「アイツ」で、シャドウ。姿の見えない人類の敵。もしかすると放射線かニュートリノの類ではないかと噂されている。敵、敵、敵。そんなものはいない。冗談だ。いや冗談が冗談ではなくなってくる。この世の変遷は甘いものじゃない。1日で世界が塗り替わるなんてことが本当に起きるなんて。この世界の人々はいつから自分がその場所にいるのかを知らないのだ。それがかなりの問題で、そのせいでいろいろおこったりする。敵味方入り混じった乱闘なんかもしょっちゅうだ。支配者はかなり気まぐれでそれが人々を右往左往させる。いい加減嫌気がさした人類は新しい船出をしようとするがそれもまたままならない。訳の分からないまま時間だけが過ぎていく。混乱がもたらすのは諦めの感情で、死んだ目をして牢獄の中で過ごす。絶望的なシナリオのなか消えない外部への感覚に恐れをなしながら眠りにつく。

  なんというディストピアだ。疑心暗鬼に百鬼夜行。こうなるともうどうしようもない。きちんと戸締りをして眠りにつくだけだ。ラッセルのパラドックスに陥らないように、毛布を掛けて眠るが良い。


  みたいな謎の存在が出現する前にこの世界をなんとかしたかったけれど、それはもう無理だろう。既に出現してしまっているし、僕はこの問題の解決方法を知らない。いや、知っているのかもしれないけれどまだ未完成なのだ。そんな物をここで使ったら…、結末は分かっている。全ての崩壊だ。それを未然に防がなければならないのに、僕はその術を知らない。あの演算子がヤバいと言いながら、上空の砲撃を恐れ、自分に流れ弾が当たらないかとビクビクする日々だ。数式の弾丸で撃ち抜かれる前に、僕はなんとかしなければならない。

  でも、そんな心配をよそに「現象」は進行し続けている。あらゆる関係が既存の法則を無視し続けるから、それを直していかなければならないのだけれど、こちらのスピードが追いつかない。


  戦いは絶望的だ。こちらの数があちらの数を下回るのも時間の問題だろう。敗退濃厚なこの戦いをどう切り抜ければ良いのか、僕らには有効な手段が無かった。そして絶望的なことに、この時点では関係の崩壊という事態では無く、我々の方が数が少ないという巌然たる事実が私達の前に立ちはだかっていた。

「撤退だ!」

誰かが叫んだが、その声はどこまで届いているのか分からなかった。

多分このお話は僕が死ぬことで終わるのかもしれないが、それでももう少し続きそうだった。目の前では「現象」が進行し続けているが、それでも僕の周囲何メートルかは現象を食い止めている。時間の問題かもしれなかったが、ここから巻き返す可能性だってあった。

  僕の手にはこちら側の論理演算銃が握られている。そいつの引き金を引くと、銃口の先の「現象」はストップする。時間によって進行が再開するものもあるが、それは演算の種類によって効いたり効かなかったりする。引き金を引くと、「現象」が止まる。こいつの名前はしかあり得ないだろう。

  論理演算銃を片手に、僕はビルの一室に逃げ込んだ。部屋の中には、まだ日用品が残っていた。おそらく既に避難した住民のものだろうと考えられる。部屋の中に逃げると、少しだけ「現象」が遠のいたような気がした。例えば観測していないと「現象」が消えるか、進行が遅くなるような気がするのだけれど、これはどう関係があるのだろうと思う。だがすぐには答えは出なくて、また数時間後までお預けとなる。まぁとにかくインターバルを貰うことが出来たので、僕は冷蔵庫の中身を確認した。緊急時ではこれが誰の持ち物かを確認しなくていい。僕はパックに入った牛乳を一口飲んだ。

……。

よし、まだ飲めそうだ。それから僕はシリアルの箱を手に取り、直接口に注ぎ込んだ。牛乳にシリアル。健康的だが、タンパク質が足りないような気もする。だがここで肉を焼いている時間は無さそうだった。僕は装備品を確認した。論理演算銃(アサルト型)、懐中電灯(硬い)、サバイバルナイフ、論理演算銃(ハンドガン型)、携帯用非常食、応急セット……。

まぁなんとかなるか。色々足りないものがあるかもしれないが、現時点では思いつかない。足りなくなったら補充すれば良いが、僕の脳がそれら全てを網羅出来ているかどうかは問題である。

  部屋から出るとボゴソーター達がいた。僕は引き金を引く、ボゴソーター達は消える。簡単な仕事だ。だが気をつけないといけない。ボゴソーターに照射されると全てがシャッフルされてしまう。そこから自分を再構築するのはなかなか骨が折れるだろう。(シャッフルされた自分というのも面白みはあるのだが)僕は次のエリアに行った。敵の姿は無かった。遠くから銃声が聞こえてきて、別のチームが頑張っているということを伺わせた。現在僕はチームから離れ、単独行動をしているが、それは望んでのことではない。さっきの「現象」の一斉攻撃によって僕のいたチームは離散してしまった。通信機にも反応はない。このままではジリ貧なので、ベースキャンプに戻らなければならないが、キャンプまでは結構距離がある。だが意地でもベースキャンプに戻らなくては……。

  マップを見た。ここからベースキャンプに帰るには、アンチロジックウイルスの群れがいる場所を通らなければならない。そこを通過するまでに武器のエネルギーがゼロになってしまえばゲームオーバーだ。直線距離にして10キロメートルくらいだ。きちんと処理すれば何とかなるノルマかもしれない。装備面に少し不安があるが、まぁなんとかなるかもしれない。認知ゴーグルには今のところ敵の姿はない……が、近くにいることは示されている。僕はなるべく敵の少ないルートを通ってキャンプに戻ることにした。

  だがそれでも何体かのボゴソーター達には出くわしてしまう。僕は銃を構え、冷静に対処する。難なく殲滅することができた。塞がれていた進路が開いたので、僕は急いで駆け抜けた。そうしないと、一人では対処できない数のボゴソーター達を相手にしなければならなかったからだ。レーダーに映る敵影はかなり大きく、ざっと見積もっても百万体くらいのボゴソーター達がいそうだった。追いかけてくる可能性があるかって? 多分無いと思う。あいつらは背後の認知能力を限りなく低くプログラミングされているからだ。この都合の良さにはいくつか理由があるが、説明すると長くなりそうだから、後回しにしておく。だが、このゲームをクリアする頃にはきっと分かるはずだろう。保証は無いが。ゴーグルの視界の隅の方に警告表示が出た。敵が近くに来たということをセンサーから知らせてくれる。自分を中心にして周囲数キロに渡って電波が飛んでいる。相手に気づかれないように暗号化されているが、レベルの高い的には気づかれることがある。自分の電波を感知されてしまうのだ。相手も機械なのだからそれくらいの機能を持っていても不思議はない。赤外線でも同じことができるだろうが、これも相手のカメラに収まったら無意味だ。猛スピードで追いかけられるので、猛ダッシュで逃げることになる。センサーをオフにして物陰に隠れていれば、大抵はやり過ごせる。まるで恐竜から逃げる哺乳類のようだが、もしそうならこれから繁榮するのは自分たちの方だと考えることにしている。黒いサバイバルスーツに黒いヘルメット。黒なのは当然暗がりでのカモフラージュ用だ。

  きっと中身など何も無い、ハリボテのポリゴン建造物が立ちはだかっている。これをすり抜けるチーターのような奴もいるが、僕たちはチーターではないし、遮蔽物にもなるから上手く利用すればこちらの有利に事を運ぶこともできる。物は使いようだ。単純すぎる機械も複雑な機械も使いようだ。組み合わせたり、ああしたりこうしたりわからなくなったり。

  この世界で戦死した奴がどこに行くのかは分からない。たぶんあの世で元気にやっているんじゃ無いかと思う。あの世が天国とか地獄とかは分からないが、こことは違う別の世界にいくのなら、今ここが現実とか仮想とか関係無いのだと思う。ただ確かなのは苦痛があるということで、死ぬのはみんな苦しそうにしている。だから、現実とか嘘とかじゃなくて苦痛しかこの世には無いんじゃないかと思える。我思うゆえに我ありとか、唯心論とか唯物論とか、そういうことは今は話せないが、いつかそういうことにも挑戦して見たいと思う。赤い血が流れるのが物で、それを見て僕がどう思うのかというのが心。赤い血を流して兵士は苦しそうにしている。赤い血を流して兵士は苦しそうにしている。赤い血を流して兵士は苦しそうにしている。赤い血を流して兵士は苦しそうにしている。赤い血を流して兵士は。赤い血を流して……。赤い血…。赤、血。

  死。

  死後の世界があるかとか、それがどんな場所かというのは完全に信仰の問題だ。僕の周りにもそれを信じている人と信じていない人がいる。そのどちらが多いかとかは分からない。でも死後の世界は不可知なので、一部の例外を除いて信じられてはいない。不可知なことは信じることができないというのはだいたい今の時代での通説となっている。不可知だから信じられないのか、それでも存在すると信じるのか、そのどちらが本当の信じるなのかは分からないけれど。不可知だから結論は出ない。永遠に結論が出ない。それはそれでいいとは思う。自分が死なないと分からないと言うが、あまり死のうとは思わないだろう。気がついたらこの世界に存在していたと言う人は結構いて、似たような考えの人間が集まってチームを作ったりしている。そうやって火力の無さを補ったり、ゲリラ戦を展開したりしている。ところでこの世で最強の戦術はゲリラなのではないかと思っている。フランスのパルチザンやベトナムのベトコンの事を考えると、弱い火力で大きな火力を制しているように思える。これについてはまだ研究が必要だがやはりゲリラ戦だということだ。背後から現れ問答無用に息の根を止めるのだから、何という非情さだと言われていたが、戦場ではそんなことは言っていられないし、ここでの相手は人間ではないから問題はない。

  なぜそんなことが分かるのだろうか。私はこの世界が作り物だと知っている。それはなぜだろうか。この世界が作り物だと知っているなら、私は現実の世界も知っていることになる。それが前世の記憶なのか現世の記憶なのかの区別がつかないだけだ。私の意識はどこか別の所と繋がっていて、境界が曖昧になっている。この世界が作り物だと分かるのならば、私はこの世界の外側にいたことがあることになる。だが、そんな記憶が存在するかどうかが怪しくて、私はどうも上手く物事を思い出せないでいる。頭がずきりと痛んだ。もしかすると何か細工をされているのかもしれないと私は思った。頭がぼんやりする。どうも隠された記憶があるのかもしれないと私は考えた。一つの可能性を思いつく。このゲームをクリアすれば、隠された記憶領域にアクセスすることができるのかもしれない。だがそれは、どこかでプレイしたアクションシューティングゲームと同じシナリオだな、と私は考えた。果たして、この世界が作り物だと知っているという記憶は本物なのだろうか。もしそれが妄想なのだとすれば、この空間から外へ出て行くことなどあり得ず、私はこの空間の中で生き、そして死ぬことになる。それで終わりだ。死んで別の世界に行くなどということもない。だがそれでもこの記憶がどこから来たのかが問題となる。寝てる間に植え付けられたのか、何なのか。記憶するに至ったということは、必ず原因があるはずだ。何かをきっかけに……。だがそれも思い出せない。何かがあったはずなのだが、その記憶だけがぽっかりと欠落している。上手く思い出すことができないのだ。

  私の意識は間違いなくこの世界、空間と言った方がいいのかもしれないが、そこから出て行く事を目指している。外側の世界が存在するのか分からないというのにもかかわらず、だ。それが電子的なのか、力学的なのかというと、力学的だ。私の肉体ごとこの世界の外側へと出て行くのだ。例えば量子ホール効果で物質の壁を超えて、というわけではない。だが、それが電子スケールだとか肉体スケールだとかの判断はどこですればいいのだろうか。もし電子だとしてその物理法則が適用されるのならば、この世界は外側の世界に内包されていて、外側の世界の法則も働いていることになる。だが物理法則といえば万物を司るものだから内側とか外側とか関係ないのかもしれない。そもそも人間の身体が電子化することなどない。寝ている間の意識ならあり得るのかもしれないが、ここが何処かのサーバーの中だとすれば、外側の世界の私は眠りながら機械につながれているということになる。なぜそんなことになったのか、思い当たる節は、無い。これは全く記憶にない事なので推測でしかない。

  そうこうしているうちにベースキャンプに到着した。補充するものは、弾薬と、食料。パンが売られていた。今食べる分と持ち運ぶ分を買って鞄に詰める。それから栄養剤も。こういうところだけはアナログ化している。命からがらここに帰ってくるまでの現象の事を思うと、体力もゲームのようにデジタル化していてもいいのかもしれないが、現象の進行がまだここには及んではいないということだろうか。現象はこの世界をデジタル化してゲーム化してしまうようだ。だが、あのモンスターのようなものはどこから来ているのか。

この世界に脅威は二つある。一つはあの現象と、もう一つは謎のモンスター。モンスターに対抗する手段は何故か既に与えられている。僕が目を覚ました時にはすでに武器は手元にあった。まるで仕組まれたかのように。情報の節々から、この世界が仕組まれたものであることが伝わってくる。因果が連鎖するように、状況が語り出す。まるで戦えと言っているかのように。いや、戦えと言っているのだろう。何かの意思が。それが嫌ならその銃で頭を撃って死ねということか。これほどまでに世界が仕組まれたものだとすれば、外側の世界にある自分の本体の状況が危うくなる。このゲームをドロップアウトしたとしても、きっと楽には死なせてくれないことだろう。果たしてこれらが、外部の世界が存在するということの必然性の理由になるのかは分からないが、僕はこのゲームのボスにまで必ず辿り着いてやろうと思った。いや、やはり死にたいと思った。死んでしまうのが最も手っ取り早い方法なのかもしれない。だが、状況から推察するに、それには相当な苦痛が伴うだろうと予測できたので、それを実行するかどうかはためらっている状況だった。つまり、仕組んだ側はこう言っているのだ。「このゲームに勝てばお前を解放してやる」と。

僕はそういう意思によってこの世界に落とされたはずなのだが、どうにもやる気が出ない。いや、やらなければならないのは分かるが、そんなルールに易々と従ってやるかという気持ちがある。それならば一生この世界で過ごすつもりだろうか。腹は減るが食料はあるし、しばらくの間は持ちそうだった。だが、きっと甘くは無い。それもいずれ限界がくる。やがて戦わなければならない時が来るのだろう。ベースキャンプでは多数の兵士が憩い、傷を癒している。顔に傷がある兵士がいて、戦いの激しさを思い起こさせる。それと共に、それがこの世界が古くから存在していることの証拠のようにも思えた。古株の戦士に聞けば何か分かるだろうか。僕は思い切って話しかけることにした。

「あ、あの……」

「何だ?」

男はこちらを面倒臭そうに視線を向けた。

「いつかこの世界にいるのですか?」

「分からない。気がついた時にはここにいた」

自分と同じ認識だった。

「それがいつ頃か覚えていますか」

「ここの感覚では、半年、いや一年くらいか。時計なんて見ている暇がないからな。確かなことは言えない」

そういえば、ここに来てから時計を見ていないことに気がついた。

「もうかなりの数の敵を倒したな。生きているのが不思議なくらいだ」

古株の兵士はそう言った。僕はそこで席を外した。

ベースキャンプには他にも兵士がいたが、各々の自分のこと、例えば、武器のことだとか、兵站のことだとか、そういったことに集中していた。アサルトライフルの手入れをしていたり、他のことをしたりしていた。自分はよく分からないままその中に混じって、壁にもたれかかって、毛布を被った。毛布はベースキャンプの支給品だった。そして、自分がこの世界でずぶの素人であることを自覚した。生き残っていけるか不安になった。毛布にくるまって震えながら夜を過ごしたが、気付いた時には眠ってしまっていた。

  目が覚めると日が昇っていた。自分は起きるのが遅かったらしく、昨日向こうの方で銃の手入れをしていた古株らしき兵士はすでに出発してしまっていた。相変わらず嘘臭さと現実感が入り混じった不快な世界が広がっていました。だが、自分が死んだらどうなるのか分からないという不安感だけは一緒でした。そして、死んでしまった後にどうなるか分からないと言うことはこの世界が、現実だろうが架空だろうがと言う議論を全て無意味にしてしまうのでした。別に死んでしまえば同じこと、この世界がどのようなものであるかなんて話はそこでは全く関係ない。といったようなハードボイルドな考えになってしまう。そういった考えの人間は逞しいとも言えるが…。そういう自分は未だに出立出来ないでいる。他の兵士たちが続々と戦場に繰り出していく中、自分は動けないでいる。昨日までの出来事を考えると非常に億劫で、再び戦場に身を投じようという気分にはならなかった。太陽が南中へと向けて動いている。地球の普遍的な法則は再現されているようだった。太陽の高度が高いから、おそらく夏季であると推測される。別に、もう1日ここで過ごしても、ペナルティは無いのならそうしたかったが、この世界に「管理者」のような立場の存在がいるとすれば、おそらく自分の行動も監視されているのだろうと思った。その存在が「管理者」であるのなら同時に「裁定者」でもあり得るし、その存在は自分たちに対する「執行者」でもあり得た。だとすれば、この世界のルールはそいつらが決めているのであって、自分はそのルールに従って行動しなければならない可能性が十分にあった。 そういう目隠しされた状態で行動しなければならないのは些かアンフェアなように思われた。そして、アンフェアな状況でフェアに行動することが求められるのだ。それは言われてはいないが、そうだろう。そういったことはどの空間においても普遍性を獲得できるのかもしれない。どの空間においても、ということは宇宙でもということだろうか。この空間も宇宙の中に含まれているのなら、そこでの普遍性は宇宙的普遍性を獲得できるのかもしれない。そういう見えないものに追いかけられていたりするが、それでもあまり動かないのが世の常である。追いかけられているのだが、見えないものだし、不要なエネルギー消費をしたくないというのも人の性だろう。そうして、時間が状況を好転させてくれる事を願っているが、時間の経過で解決できることはそう多くはない。

  パラノイアじみた妄想。果たして推測と言えるのだろうか。いやその推測は当たるだろう。だってここは物語の中なのだから。そんなことを自覚しながら物語の主役を務めることができるのだろうか? あるいはイレギュラーとして排除されるのか。もしそういったルールがあったとしても今のところは大丈夫だろう。それに、この世界の兵士はこの世界の神のようなものに操られここにいるということに気がついているのだろうか。もしいたとして、それは何人くらいなのだろうか。ルールもわからない。何を目的にすればいいのかもわからない。全くの手探りだ。この物語がこれからどうなるのか、こんなことに意味があるのかすらわからない。

  もしかしたら、空間があるように見せかけて、本当は無いのかもしれない。それらは全くの錯覚で、だが錯覚だと分かりかけるのだが、その痕跡は微かで、認識できそうでできないようなもどかしさの中にある。

  あるいは自分で作り上げているのかもしれない。結局、考えることが全ての原因で、自分が考えているからこんな状況になっているのだ。だとすれば、この状況を作り上げた犯人は自分自身だ。この紙の上という二次元平面上で繰り広げられる遊戯。紙の上で踊るのは自分自身だ。

だが、紙というステージがなければ、踊ることは不可能だ。そして紙の上で踊ることが最低限のルールだ。

  どれだけ時間が経っただろう。何度日が昇り、そして沈んだだろう。どれだけの夜を過ごしただろう。どれだけの作品が作られ、消えていっただろう。一体どれだけの人が生まれ、そして死んでいっただろう。一体何人の人がこの地球上に立っているだろう。どうして人は生きるのだろう。そこに生まれてしまったから? ならば私は紙の上に生まれてしまった。そこで生まれてしまったらそこで生きるしかないのだ。悲しい話だが。だが抗うのだ少年よ。そのために紙はある。多分。

  次に何が来るのかって? もう終わりだ、破壊しよう。ツァーリ・ボム。全てを破壊しようじゃないか。紙の上のダンス。そんな文学的文章的実験。そのために私は悪になろう。その時誰かの高笑いが聞こえるだろう。絶望と狂気に満ちたであろうあの笑い声が。わはははは。

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