泣かぬ赤子

雨宿 稲狸

泣かぬ赤子

医者になれば、数多い選択を迫られる。それは私だけのことではないのはもちろんだが、ベテラン、新参者に関わらず頭を抱える。


手術の是非はもちろん、処置の方法、緊急自体の対処など、多くの場面で、重要な選択を突然に迫られる。医者として道を歩み始めて十数年の私は、これが医者が難しいと言われる所以ゆえんだと思っている。


某日、私は帝王切開手術に参加した。概要としては、赤子の摘出はもちろん、母体の生存も手術の大切な要項である。


「帝王切開だ。いつも腹を開くとは訳が違うのはわかるだろう。赤子だけでなく、母親の命も懸かっている。注意するように」


執刀医は手術前にメンバーに忠告した。


この執刀医は私が始めて手術に参加したときから補佐を務めさせていただいている城本さん、いわゆるベテラン医師である。聞くところによると、この道に入って、三十年以上いるという。彼の指示は明確かつ的確で、彼が執刀医を務める手術で、失敗した所を私は見た所がない。


手術はほどなくして開始。私は助手の一人として、城本さんの指示に合わすことしかしないが、やはり一寸たりとも狂いがない。それでいて城本さんは慣れた手つきでスムーズに執刀を進めた。手早い手術は、患者の負担を減らすために重要なことであるが、帝王切開は特にスピードが肝である。


城本さんのその素晴らしい技術のおかげもあり、一時間程度で摘出は終了した。母親も無事であった。


予定通りかつ、ミスなくオペが完了したと思って、安堵したのも束の間


赤子が産声うぶごえをあげない。


私は冷や汗をかいた。私だけでなく、医療スタッフが焦りを覚えているのは明らかであった。


しかし城本さんは赤子をじっと見て、呼吸器の配備を考えている看護師に、彼は


「…堕ろそう」


と冷ややかに言った。


当然、周りのスタッフはざわつく。私ももれなくその一言に驚いた。


「堕ろすってどういうことですか?赤子を殺すって言うんですか?」


スタッフの一人がたまらずこう言った。


しかし城本さんはその冷ややかさを保ちながら、スタッフの目を赤子に誘導させた。見た所、やはり赤子は産声をあげない。しかし、胸が上下しているので、呼吸はしているように見える。ただ、その動きは不規則で、止まったと思えば動き、動き続けてると思えば急に止まる。


「おそらく、呼吸障害だ。長くはない」


「そんな、せっかく安全に摘出できたのに…」


補佐の外科医が続けて何か言おうとしていたが、それをはばかるがごとく、城本さんはワゴン上のトレーに手に持ったメスを音をたてて置いた。


「もし、この子を生かしたままにしたらどうなる?間違いなく一生病院で暮らすことになるし、呼吸器が外れることもない。そして、ただ死を待つことしかできない。それはこの子自身はもちろん、母親や父親にとっても辛いはずだ」


今までに聞いたことのない城本さんの一喝の後数分、手術室は静寂に包まれ、ピッ、ピッと機械が作動する音だけが響いた。


その後、その場のスタッフはしぶしぶ了承し、赤子は死産ということになった。


手術の終了後、私は待機所でコーヒー片手にぼんやりと今日の手術を思い返した。


窓の外は、赤く照らされ、そよそよと木々が揺れる。


「お疲れ様」


振り返ると、後ろから今回、麻酔を担当した田中さんが入ってきた。


「…あ、お疲れ様です。なんと言いますか…本当に、これで良かったのでしょうか」


今回の帰結に、自分の心が決着をつけることができず、ついそんなことを言ってしまった。


「なに、気にすることじゃない。あいつがこんな決断をするのも今に始まったことではないからな」


私は驚いた。その一言で、私の城本さんに対する人物像にひびが入った気がした。


「本当ですか?私は、城本さんが失敗した所なんて、一度たりとも見たことなんてないんですよ」


田中さんはそれを聞いて、そりゃあそうだと笑った。私には田中さんがなぜ笑っているのかわからなかった。


「いいか?俺はあいつが『失敗した』なんて一言も言ってないだろう。あいつは手術で失敗するような男じゃないのも、俺もよく知っているさ」


そういって、田中さんは私の隣に立った。


「じゃあ、城本さんはどうして…」


「お前はことが失敗だと言いたいのか?」


私は言葉に詰まった。ふと手術中の城本さんの熱弁が脳内に流れた。


「お前は真面目な奴だ。良い意味でも、悪い意味でもな。『人の命を救う』職業ってのが医者だという主張は、みんな一緒だ。でも、いつでも全ての人の命が救えるとは限らない。丁度、今回のオペみたいにな」


私は黙って田中さんの話を聞いていた。反論の余地もない。むしろ図星と言うべきだった。


「そんなとき、医者は『人の命を救う』から『人の命を選択する』に変わるんだ。ただ人を生かすだけってのは医者のすることじゃない。助ける本人ないしその人の周りの未来を見据えて手術をする。これが医者の本来の姿だ」


田中さんは沈みかけの太陽の見える窓にもたれかかる。


「もっとも、俺はそんなたいそうな選択はしたことがない。でも、俺よりも経験の多いやつらはみんな口をそろえて言うんだ。『人の命を選択する』ってな。ある人が言うには、ある街でひとつの病気が流行してな、病院のベッドが足りなくなったんだと。自宅療養を余儀なくさせてしまって、そのせいで全員の命を助けられなかったって嘆いてた。またある人は、不治の病で苦しむ患者に殺してくれと懇願されて一ヶ月間、頭を抱えていたって奴もいたぐらいだ」


さっきまであった田中さんの笑顔はいつの間にか消えて、表情に暗雲がたちこめた。


「そして…いつか俺もそんな選択を迫られるだろう。お前だって例に漏れない。そうだろう?」


すっと田中さんは目線をこちらに戻した。


(もし、この子を生かしたままにしたらどうなる?)


選択 ーー城本さんはあの赤子の将来や、その様子を見た母親や父親の気持ちを汲んで、赤子を殺すことを選んだのだろう。…だが


「しかし、それでもやはり受け入れ難いです。もし、母親や父親が、それでも子供と一度顔を合わせたいという気持ちだったと思うと…」


田中さんは、深く息を吐いて、肩を落とした。


「確かに。第三者がもし、この手術の一部始終を見たならば、この選択を批判する人は当然いるだろう。当然だ。しかし、もし今回赤子を生かすと選択をしたとしても、批判する人がいるのも当然だ」


田中さんは冷ややかに笑った。


「理不尽なものだな。どっちの選択を選んでも、俺たちが批判されるのは避けられないんだ。生かせば『可哀想だ』と言われ、殺せば『非人道的だ』と言われるんだからな。その点で、あいつは凄いよ。その選択を、赤子の顔を見て一瞬で判断したんだからな」


私ははっとして、苦しそうに必死で呼吸する赤子を思い出した。


「だから、受け入れ難いのは当然だ。それ以上に大切なのは、その現実を真摯に受け止めることが、医者には必要なんじゃないか?それが、患者や、その周りの人の為だと思わないか?」


田中さんのその優しい口調の中に混じる不思議な説得力を感じた。


このとき、私は始めて自分が運良くも道理の通る平和に満たされた世界に生きていたということを自覚した。


私は田中さんの言葉に対し、静かにうなづく。


『業務連絡、業務連絡、麻酔科医は至急手術室へ。繰り返す、麻酔科医は至急手術室へ』


その後間もなく、院内の放送が流れた。それを聞いた田中さんは、外に乗り出した身を戻して。ドアのほうへ歩いていった。


「じゃあまたな。あんたはまだ若い。すぐに理解しろとも言わないさ。真面目なお前なら、いつか気づくだろうからな」


そう言って、笑顔で退出していった。


一人残された部屋。私は缶コーヒーを口付けて、一口分の液体を含み、喉に通した。


空は赤に混じって青みを帯び、その中間は緑色に見える。


私は医療スタッフとして始めて城本さんに出会って、彼のようなミスせず、その実力で、他のスタッフから厚い信頼を得られるような医者でありたい、そう意気込んでいた。しかし、それは彼の本質ではない。彼が失敗しないのも、みんなから信頼を得られるのも、全てはその難解な選択を乗り越えてきた賜物ということであったということだ。


『金子先生、106号室、永田様のところまで、お越しください。繰り返します。金子先生、106号室、永田様のところまで、お越しください』


再び入った放送を聞き、私は残ったコーヒーを全て飲み干し、あの母親のいる部屋へ向かった。


その部屋に向かう途中、私は反対側の通路を歩いていた城本さんと目があった。城本さんは、私と目があうやいなや、すぐに視線を元に戻し、私の肩をポンと叩き、『よろしく頼むよ』と小声で伝えられた。


その言葉に、私は心を決めて、106号室をノックした。


「失礼します」


永田さんはまだ、横になったままで、顔をこちらに向けた。


「こんばんは、ご気分の方は大丈夫ですか」


「ええ、それよりも、子供の方は…?」


私は覚悟を決めて口を開いた。


「…手は尽くしたのですが、残念ながら…」


「そうですか…」


永田さんの目は下を向いていたが、まるでそうであったことを薄々ながらも察していたかもしれないと私は感じた。


「申し訳ございませんでした」


「いえ、貴方が謝ることじゃありませんよ。それに…何だか、これでよかったんじゃないかなって、私も思いますよ」


「えっ?」


察していたにしてはあまりにも深く掘り下げたようなことを言われたので、私は戸惑ってしまった。


「いやね…私の夢のことなもんで、勘違いかもしれないけれど、私の子供が『ごめんね、ありがとう』っていきなり言ったもんだからね、もしかして…と思ったんだけど、やっぱり、あれはほんとに夢だったのかしら?」


私は驚いた。麻酔で永田さんは、当時の出来事は知らないはずなのに、その予兆があったというのは、話には聞いたことがあるが、実際にあって、その上それを受け止めていることに、私よりも強いものを持っていると感じた。


「いえ…忘れてください、私の独り言なので。それよりも、お医者さんは忙しいでしょう?私の子供の分も、沢山の人を助けてあげてくださいな」


呆気に取られる私を見かねたのか、永田さんは、私に労いの言葉をかけてくれた。


「…はい、ありがとうございます。何かありましたら、またお知らせ下さい」


そういって、私は部屋を退出した。


廊下の窓から差す月明かりが、強く照らす蛍光灯にかき消されていた。

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泣かぬ赤子 雨宿 稲狸 @Inari-Amayadori

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