一片

レッドカーペット

  そろそろかな、そう思って上着を羽織ってマンションの部屋を出た。風が冷たくて体が強張る。マフラーを持ってくるべきだったか。自室へ戻ろうかとも思ったけれど、この冷たく尖った空気がすっと心に入るようで嫌な気持ちはしない。まぁいいか、そう呟いて、僕はマンションの階段へ向かった。六階から一つ一つ階段を降りてゆく。このマンションへ越して来てもう二年になるが、階段を使うのは今日で2回目だ。1回目はあの子と。なんだかエレベーターに乗ってしまうと時間が早く去ってしまいそうで、階段でゆっくり行きたかったんだ。あの日もこのくらい寒い冬の、やっぱりこんな日付が変わるくらいの夜だった。

  顔まわりがやっぱり寒くて、手と一緒にポケットに入れてしまいたいと思う。道を歩きながら、コンビニの窓ガラスをちらりと見やると、自分の耳が赤くて、なんで寒いと赤くなるんだろうな、なんて考える。辛いものを食べても、恥ずかしくなっても赤くなる。そう言えばあの子の爪はいつも赤くキラキラしていた。

  遠くにサイレンの音が聞こえる。と思うとすぐにそれは近づいて来て、僕の横を通り抜けて行く。耳を劈くような音だ。クルクルと回る赤い光が僕の目をザクザクと切り込んでくる。寒くて煩くて眩しくて、頭がクラクラするな、僕はそんなことを冷静に考えている。地獄があると知りながら地獄へ向かう心持ちって案外こんなものなのかもしれない。あ、僕ですか、僕は今地獄へ向かっているんです、あなたは?行き先を聞かれたらそんな感じで答えるだろう。そんな感覚だ。君もそんな気持ちだったのかい、そう思ってから、いや違うか、と思う。君にとっては地獄じゃあないんだな。

  大通りに近づくにつれて、目も耳もビュンビュンと行き交う車の音とライトに支配されていく。僕はなんとなくこの感覚が好きだ。何か体の深い奥まで押し殺されてゆく感じが。ただ今日は向こうの車線だけいつもと少し違う。車が困ったように滞っている。その道の先を見ると、いくつかの赤いライトがひっきりなしに回って辺りを赤く染めている。そうだあの歩道橋だったな、僕はあの夜あの歩道橋を指差したあの子の赤い爪を思い出す。

  向こうへ渡る信号が赤いのを眺めていると、隣から声が聞こえる。今ちょうどそこで事故があったんですって。車が人にぶつかったらしいよ。まぁ物騒な。都会の夜にはこんなに人が生きているのか、そう思いながら、僕は何とはなしにポケットから手を出す。はぁっと息を吹きかけて手をこする。ポケットに入れていても寒いのはやっぱり寒い。手の甲が赤くて、僕は寒いなぁ、冬だなぁ、なんて思う。あの子の爪は今日も赤かったんだろうか、飛び降りたときはさぞかし寒かっただろうね、今日は風が強いから。

  信号が変わって、僕はポケットに手を戻して道路を渡る。僕は君を好きだったし、きっとこれからも好きだろうと思う。僕が誰かを好きになっても、思い出をひとつ忘れても、君はずっと僕の心のどこかに残り続けるんだね。君が好きな君の姿で、変わることなく。君のその心はついぞ理解できることはなかったけれど、いつか何となくわかる日がくるんだろうか。君はわかる必要なんてないよって、いまの君が一番、いいんだから、ってまた言うだろうね。でもやっぱり理解できたらな、なんて思ってしまう。そう言ったら、また君はきっとふふって笑うんだろう。

  僕は静かに赤く照らされた歩道橋の方角へ歩く。道で足を止める歩行者たちの顔が赤いライトに照らされている。警察の制服を着た人々が彼らに離れるように促す。何があったんだ。事故なの。だれかが飛び降りたらしいよ。飛び降りたって。そう歩道橋から。僕はそんな人混みをかき分けて先へ歩いた。背中から、様々な憶測が聞こえた。女の子だそうよ、かわいそうに、こんなところでしなくても、苦労してたのかな、何も死ななくてもいいだろうに。君は空からこの声を聞いて、ふふって笑っているんだろう。

  声から遠ざかるように僕は歩き続けた。そうしてあの歩道橋から一つ離れた隣の歩道橋の階段を上った。薄い段を一つ一つ上ってゆく。砂なのか落ち葉の類なのか、隅っこが汚れているな、と思う。大通りの上をまたぐ歩道橋は少し緊張もして面白い。僕はその真ん中に立って、今歩いてきた方角、サイレンがなる方、あの子がいる方を見る。ちょうどその時、救急車のサイレンが鳴って、もぞもぞと動き出した。近くの車から段々と連鎖するように停まっていって、大通りの真ん中が開いていく。道の両端が車のライトで眩しい。その真ん中を、君が乗った救急車が世界を赤く照らしながら進んでいく。なんだか、王様が通るみたいだな。

  救急車はすぐにそのスピードを速める。あっという間に僕の目の前、そして足元を通り抜けて、反対側へ進んでいく。僕はその救急車を目で追う。脇へよけた車たちの赤いライトが道を照らす。ねぇ、まるでレッドカーペットみたいだよ。レッドカーペットの真ん中を、君がサイレンを鳴らしながら進んでいく。大通りの先、カーブして見えなくなるところまで、僕はその車を目で追う。君は満足したのかい。いや、満足したから飛び降りたんだろうね。今が最高なの、だから今止めなきゃ、君の赤いその唇が紡いだ言葉を思い出す。君が君の時を止めた世界で、これからも僕は変化し続けながら、止まらないこの世界で生きていくんだね。

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一片 @AmuDarya

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