3-6 仲直りのしるし

 徳斗は、店から借りた傘を差してアパートまで戻って来た。

 その手には先輩スタッフである氷川のアドバイスで、購入したケーキを入れた袋を持っていた。

 稚姫の部屋はまだ電気が点いている。

 アルバイトを早上がりできたおかげで、就寝はしていないようだった。

 彼女の部屋の前では、八田が腕を組んで立っていた。

 夜目も利かず、視界も悪くなった時刻だというのに、彼は姿を隠すことなく軒先の下で雨を避けたまま徳斗の帰りを待っていた。

「八田さん。ワカがバイト先の店に来たみたいだけど、急にこの天気でさ……何かあったんでしょ?」

 その問いに、八田も力無くうなずく。 

 彼も一部始終は物陰から見ていたものの、全てが徳斗の責任とは言えない状況に困惑していた。

「ねぇ、鍵を開けてよ。俺が直接、ワカと話するからさ」

 このまま徳斗を主人に会わせてよいものか、状況が悪化するのではないかと躊躇していたが、八田も今は彼に頼まざるを得ず、うなずき返す。

 八田は部屋の戸を数回ノックし、ドアノブに挿した鍵をゆっくりと回した。


 徳斗が部屋を覗くと、稚姫はベッドの上に倒れ込んでいた。

「おい、ワカ……入るぞ」

「……もう寝るから出てって」

「なんだよ、今日はわざわざ店まで来てくれたんだろ?」

「知らない。行ってないもん」

 稚姫はベッドの上で視線も合わせずに、枕に顔を埋めて弱々しく呻く。

「じゃあ、なんで怒ってるんだよ?」

「女の人と楽しそうにしてた。あたしとよりも楽しそうに喋ってた」

「店のお遣いでだろ? 一緒に買い出しに行ってただけだって。勘違いだよ。ワカのこと相談してたんだよ。ここんとこお前に嫌われてるのかなって思ってたからさ。俺に悪いとこがあったら直すから」

 それでも彼女はまだベッドに伏せたままでいた。

 八田は玄関先に立ったまま、黙って二人のやり取りを見守る。

 徳斗もこの先をどうすべきかと悩んでしまい、重苦しい沈黙の時間が流れた。


 部屋の外からは、バケツをひっくり返したような激しい雨音がする。

 仕方なしに、徳斗はビニールの袋からケーキを入れた紙の小箱を取り出す。

「俺もバイト代がいくらか入るからさ。初穂でワカが絶対に気に入りそうなもの買ってきたんだよ。今日は焼きイモじゃなくてケーキだよ。甘くて美味いから一緒に食べようぜ」

「……いらない」

 徳斗はゆっくりとベッドに近寄る。

 だが、稚姫はにべもなく吐き捨てる。

「もういいから、はやく帰って」

「そう言うなって。学校とバイトばっかりでワカをほったらかしで悪かったよ」

 徳斗は稚姫の肩を揺する。

「ほら、起き上がってさ。食べよう」

「ケーキなんかいらないから、ほっといてってば!」

 上半身を起こした稚姫は、徳斗を押しのけるようにその手を払う。

「うわっと!」

 咄嗟のことで避けることも出来ず、徳斗の手から小箱が滑り落ちた。

 落下の衝撃でふたは開き、苺の乗った生クリームの小さなホールケーキが崩れた姿を見せる。


 その瞬間。

 徳斗は稚姫の頬を叩いた。

 玄関で待機していた八田も靴を脱ぎ、室内に上がってきた。

「ワカ。お前、太陽神じゃないのかよ……食い物を粗末にしていいのか?」

 稚姫は叩かれた頬を押さえ、瞳を潤ませながら呆然と徳斗の顔を見ている。

「前にも言ったろ。このクリームだって乳牛から絞ったミルクで出来てるんだぞ。スポンジだって鶏の卵から出来てるし、それに使う小麦や上に乗ってたイチゴも、砂糖もみんな作物から出来てるんだ。動物も植物も太陽のおかげで育ってるんだぞ。それをお前は神様だからお供えされるのが当然だと思ってるのか? 食べたくないものをいらないって拒否できると思ってるのか? お前自身の仕事で満足な食事ができることのありがたさが、まだわかんないのかよ!」

 徳斗はゆっくりとしゃがみ込むと、足元に落ちたケーキ箱を拾った。

「そりゃ、こんなケーキや焼きイモなんかでお前の機嫌を取ろうとした俺も悪かったと思う。でも良かれと思って、ワカのために買ってきたのだけは間違いないのにさ……」

 指に付いたクリームを舐めながら、慎重に箱のふたを閉じる。

「ワカが喜ぶものをと思ったんだけど、余計なことだったな……」

『あたしが喜ぶもの?』

 昼間、あたしは買い物に出掛けた。

 徳斗が喜びそうなプレゼントを用意した。

 同じように徳斗は自分に喜んで貰いたくて、甘いものを買ってきてくれた。

 ずっと徳斗と仲直りしたかったはずなのに、徳斗とお話したかっただけなのに……それなのに自分は勘違いで意地を張って、せっかくの徳斗のプレゼントを払いのけて床に落とすなんて。どうしてそんなことをしてしまったのだろう――。


「八田さん。念のため、絨毯のとこ拭いといて貰える? これは俺が片付けるから」

 徳斗は、歪んだケーキの箱を両手で持って立ちあがった。

 箱ごと絨毯に落ちたため、形は崩れたものの幸いにも食べるには差し支えはないようだ。

 玄関に向かって歩き出そうとする徳斗の服が、ぐっと引っ張られた。

 振り返るとベッドから降りた稚姫がシャツの裾を掴んでいる。

「……食べる」

 うつむき加減に視線を徳斗に合わせぬまま、彼女はぽつりとつぶやく。

「徳斗が買ってきてくれたケーキ、食べる」

「……そうか? じゃあ食べるか」

 八田はお茶とカップを用意し、湯が沸くまでの間に手際よく絨毯を拭き始めた。

 徳斗はテーブルの上に紙箱を置くと、崩れたケーキを二人で分け合う。

「あのね……あたしも徳斗にプレゼントがあるの」

 稚姫は椅子から立ち上がるとベッドの下にかがみこんで、そこに隠しておいたラッピングされた商品を取り出す。

 包装紙は一度雨に濡れてしまい、乾いてゴワゴワに波打っていた。

「こないだの首飾りのお返しをしたかったの」

「マジで? 俺に?」

 稚姫は無言でうなずきながら、顔を紅潮させたまま手渡す。

「ホントかよ、嬉しいな! もういま目の前で開けてもいいか?」

 彼が包装を剥くと、出てきたのは除菌コーティングされて寝汗もすぐ乾くという、枕と掛け布団と敷き布団のカバーセット。

 プレゼントの意図が咄嗟に理解できず、徳斗は笑顔のまま固まる。

「えっ……と、これは……」

「徳斗のおふとんがいい匂いになるといいなと思って」

「俺の布団ってそんなに臭いわけ? ちょっと自信無くなるけど……まぁでも嬉しいよ。ワカが一生懸命、俺のために選んで買ってくれたんだもんな」

「これで一緒にお昼寝できるね」

「おい、一緒にって……」

 稚姫も思わず突いて出た自身の言葉に、自分であれこれと想像してしまい、またも赤面する。


 ケーキを食べ終える頃には、稚姫もすっかり笑顔を取り戻していた。

 そんな彼女の様子を見て徳斗も胸のつかえが降りた。

 すっかり時間が経過して夜も更けてきたのを確認した徳斗は、お茶を飲み干す。

「それじゃ、ワカもそろそろだろうし、八田さんはとっくに寝る時間だな。俺も部屋に帰るわ」

「もう帰っちゃうの? もう少し一緒に居たい」

「そうは言っても、明日も学校とバイトだからさ。同じところに住んでるんだから、週末でもバイトない夜でも、いつでも会えるじゃん」

 徳斗はプレゼントの布団カバーセットを持って立ち上がった。

 すると稚姫が彼の背中に顔をうずめると、腕を回して抱き着く。

「どうしたんだよ、ワカ?」

「……おやすみのあいさつ」

 本当は徳斗の正面に入って彼の腕でぎゅっとして欲しかった稚姫だが、顔がずっと火照っているのが恥ずかしく、背中からしか甘えられなかった。

 でも、気づけば以前のような胸の苦しさとは違うドキドキを感じる。

 彼の近くに居て、こうして身体を寄せると、とてもあたたかくて、安心感に包まれているようにすら感じた。

 いつしか部屋の外からは雷鳴や雨音が一切なくなり、秋の夜を告げる虫の声が静かに鳴きだした。



 翌日の午後。

 徳斗は、アルバイト先の店で氷川に礼を述べた。

「なんやかんやあったけど、仲直りっていうか、無事に元に戻って終わりました。ありがとうございます」

「あー、やっぱり妹さんも意地を張ってただけでしょ? 良かったじゃない」

 それを聞いていた他のスタッフからも冷やかしを受ける。

「そりゃ、あんな可愛い妹さんが甘えてくるんじゃ、お兄ちゃんとして変な虫が寄らないか心配しちゃう気持ちもわかるけどさ。原井君も健全じゃないよね」

「いや、まぁそうなんすけど……あいつも危なっかしいところがあるんで」

 妹を溺愛する兄というキャラが確立してしまったが、もっと危ない店長のように陰で言われるよりは皆が素直に茶化してくれるだけで、徳斗にはありがたくもあった。

 そんな危ないオモイカネの姿は、まだ店にはない。

「……そういえば、店長は遅いっすね。今日も公休でしたっけ?」

 店内を見渡す徳斗を、怪訝そうに見る氷川。

「原井君、あたしが店長だけど?」

「えっ? だってここに、黒縁眼鏡でちょっと冴えない、ネチッとしたオタクっぽい性格の男の人が居たじゃないすか?」

 突然に徳斗が何を言い出すのかと、皆で顔を見合わせる。

「男の店長なんて居ないよ? ここはずっとあたしの店だもん。男性スタッフだって原井君を初めて採用したくらいなんだから」

 徳斗が慌てて店の扉の外に掛かる看板を見ると『ゲームカフェ・ヒカパラ』と書かれていた。

「えっ、どういうことなんだ……」

 オモイカネは姿だけでなく、人々の記憶からもその存在を消していた。

 徳斗も混乱して、髪を掻きむしる。

「おかしいな。つい昨日まで居たくせに、どこ行ったんだろ……」

 


 オモイカネは、店が入った雑居ビルの屋上に居た。

 上空を見上げると、昨晩の天候は急回復し、澄み渡る秋の空が広がる。

「徳斗殿。ひとまずは、昨日は上手くいったようだね」

 笑顔を浮かべ、腕を組んだまま鷹揚にうなずく。

 だが、その笑顔はすぐに消える。

「でも、こんなに太陽が不安定じゃ下界の民は大変だよ。ワカ姫様には、お健やかに下界での修行をしていただきたかったけど、気長に待てる状況でもないからね。天上界に行ってご報告差し上げないといけない由々しき問題だな。ワカ姫様にもアマテラス様にも申し訳ないけど、これ以上は看過されないんじゃないかな?」

 するとゲームカフェの店長として着けていたエプロンと、黒縁眼鏡を外す。

「八田もバカだね。せめて徳斗殿を僕のところではなく、他の神の元でアルバイトさせれば、これほどすぐ判明することもなかったというのにさ……」

 日の傾いた西の空を眺めながらつぶやく。

「僕が<ことあまつ神>の一柱の息子だっていうのが、実に残念だね。父上には決して逆らえないんだ」

 エプロンを大きく放り投げると、瞬く間にその姿を隠した。

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