第76話 涙
僕が鞄から取り出した原稿用紙の束を、遠山加奈子は「ありがとうございます」と言って受け取った。
自分の手書きの文字を見られるというのは何ともむずがゆく、恥ずかしさすら感じられたが、初対面で頬を張られた相手にそんな感情を抱いてもしょうがないかもしれない。
遠山加奈子は、真剣な眼差しで僕の書いた小説を読み始める。
モチーフにした当人に小説を読ませるのは、僕の人生で二度目だった。
やがて、僕たちの注文したメニューをもった店員がやってくる。
やる気のなさそうなアルバイトの店員が、テーブルの上にパスタとピザを置いて去っていった。
しかし、彼女は料理が届いたことなんて気が付かないとばかりに、無心で小説を読み進めている。
僕は、少し遠慮がちに「料理、冷めますよ?」と声をかけたが、その言葉すら彼女には届いていないようだった。
仕方なく、僕は彼女が小説を読みえるのを黙って待つことにする。
料理を先に食べてしまうこともできたが、何か自分の作品を読んでいる人を放っておいて、一人で先に料理を食べてしまうことが後ろめたく感じられた。
だから僕は、刻々と冷めていくピザとパスタを前にして、何もせずに黙って遠山加奈子が小説を読み終えるのを待った。
小説は、まだ完成していない。分量事態は大したことないはずだが、先ほど彼女自身が言っていたように、あまり小説を読む習慣が無いのだろう。
彼女の小説を読むスピードは非常にゆっくりで、僕は冷え切ったピザを食べなくてはならない覚悟を決める。
それから10分か20分か。時計を見ていた訳ではないから正確な時間はわからないけれど、やがて彼女は小説を読み終えた。
放心したようにボーっと遠くを見つめ、目の前に僕が座っていることや、ここがファミレスであるということすら認識していないように見えた。
唐突に、彼女の眼の端から一筋の涙が流れ落ちる。
まったく予想していなかった出来事に、僕はどうしてよいのかわからずに混乱した。
遠山加奈子は音もたてずに涙を流し続け、自分が泣いていることすら気が付いていないようだった。
やがて、ボーっと遠くを見ていた彼女は、ハッと気を取り直して僕に向き直る。
震える声で、彼女は僕に問いかけた。
「あなたからはカナエはこう見えているのですね?」
「ええ、彼女の悩みについては少し聞いていました……ですが、その小説に書かれていることはあくまでも僕の妄想です。真実とは程遠いこともあるでしょう」
そう、あくまでも小説に出てくるカナエは、僕の偏見というフィルターを通してみた彼女の姿に過ぎない。
「いえ……外から見て、カナエが……私たちがどう見えているのかが知れただけでもありがたいです。カナエは……苦しんでいたのですね」
そして、遠山加奈子は少し自嘲するように笑った。
「一つだけ間違いがあるとするならば、私は再婚していません。あの人はただの新しい恋人で……ほとんど一緒に暮らしていましたが、つい先日新しい女を作ってどこかに行ってしまいました」
「……それは…………何と言っていいか」
「いえ、すいません。今話すことでもなかったですね。相沢さんには関係の無いことでした。ですが、彼が家にいたことも、カナエを苦しめる一因となっていたのですね……文字として客観的に自分を見ると、私は酷い母親だと改めて実感できます」
何と言っていいのかわからなかった。
僕は結婚したこともないし、もちろん子供もいない。
何を言ったところで、彼女の悩みには寄り添えないだろうとわかっていた。
遠山加奈子は、そこで初めて目の前に置かれた料理に気が付いたようで、少しばつが悪そうに言った。
「すいません。料理、冷めちゃいましたね」
◇
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