咬爪症の女

武田コウ

第1話 咬爪症の女

 使い古された、ボロボロな机の上に叩きつけられた原稿用紙。時代錯誤な手書きの小説だった。


 壊れかけのエアコンが発する異音が、やけに耳障りだったことを覚えている。


 大学の文芸サークル。その小さなサークルの部長をしていたボクは、突然の出来事に戸惑っていた。


 急に部室に入ってきた女の子(見たことが無い、恐らく新入生だろうか?)、手入れのされていないボサボサの黒髪は伸ばし放題で、目の下にはクッキリと色の濃いクマが浮かんでおり、ギョロリと大きな三白眼が挙動不審に動いている。


 他の部員はたまたま授業に出ており、部室には僕一人。


 女の子はツカツカと僕の目の前までやってくると、原稿用紙の束を僕の目の前にある机の上に叩きつけ、こう言ってきた。


「小説……読んで」


 入部希望だろうか?


 文芸サークルは、その性質上コミュニケーションに難のあるメンバーも多い。


 しかし、ここまでの人材は初めての経験だった。


 僕は苦笑しながら対面の席に座るよう促し、彼女に新入生用のお茶とお菓子を差し出した(ちょうど入学式が終わり、入部希望者が来るかも知れないという事で、なけなしの部費で購入したものだ)。


 彼女は少し居心地が悪そうに席に腰掛けると、あたりまえのように自身の親指の爪をかじり始めた。


 見ると、彼女の爪はどれもボロボロで、どうやら爪を噛む癖があるらしい。


 あまり良い癖とはいえない。しかし、初対面でソレを指摘するのは良くないと判断した僕は、部室にあるコーヒーメーカーで自分用のコーヒーを入れて席についた。


 一般的な40×40の原稿用紙。束は分厚く、かなり長いストーリーのようだ。


書き殴ったような文字は荒く、とても読みづらくはあったが、手書きの原稿は、まるで明治の文豪を思い起こさせるようで嫌いではない(もっとも僕自身はPCを使って執筆しているのだが)。


 マグカップから一口コーヒーを啜る。


 苦いだけであまり香りの立たない安もののコーヒー。カフェインのためか、プラシーボ効果なのかいくぶんか頭がすっきりしたように感じられる。


 そして僕は原稿を読み始めた。


 タイトルのついていないその小説は、誤字脱字も多く、句読点の打ち方もデタラメで、お世辞にも読みやすい文章とは言えなかった。


 小説をあまり書いた事がないのだろう。しかし、何故か文章を読み進める事を止めることができなかった。


 それは圧倒的な熱量。


 文章を綴る技術だとか、話の構成だとか、そんな些細なことを超越した感情の爆発。


 小説に込められた狂おしい程の狂気が、僕を引きつけてやまない……。


 夢中になって読み進め、最後の一文を読み終えた時、僕は全身にびっしょりと汗をかいて、しばらくの間放心状態にあった。


 ”この小説は駄目だ”


 僕は本能で悟ってしまった。


 僕がこの時間に授業を取っていたら、散歩をしていたら、他の部員がこの場所にいたら……僕がこの小説を読むことは無かっただろう。


 しかしもう遅い。


 彼女は僕しかいないこの部室に来て、僕にこの小説を渡してしまった。


 眼鏡を外し、目を閉じて指で軽く瞼を揉む。どうやら瞬きすることすら忘れてしまっていたようで、目にかなりの疲労感がある。


 ゆっくりと目を開け、眼鏡をかける。


 目の前に座っている女の子は、小説を読む前と同じように自身の爪を噛んでいた。こんな小説を読んだ後では、その姿すら少し恐ろしく見える。


 薄い窓硝子の向こう側が、かすかに騒がしかった。


 薄く笑う。


 僕はもう戻れない。


 きっと彼女は死神だ。


 こんなにもあっさりと、こんなにも唐突に。


 小説家を目指していた僕は殺されてしまった。

 
















 それから十年、僕はまだ小説を書けずに生きている。





  

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