容量消失
和泉茉樹
容量消失
◆
ストレージ。
それは僕たちが持つ、記憶容量。
アベレージ。
それは僕たちの記憶量の、標準値。
人一人が一生で知覚し続け、記憶し続けるよりも、僕たちはより多くのものを記憶できるようになった。あるものは超人的な能力で、あるものは技術的な拡張で。
僕たちは自分の人生を生きながら、他人の人生、作り物の人生を、まさしく生きることができる。
とりあえず、僕が何者か、どこにいて、何をしているか、それを説明したいけれど、或いはそれさえもが他人の創作した、仮初めの経歴かもしれない。
名前は、リー・ランファ。住んでいるのは香港。仕事はしていない。まだ十代の学生で、高等学校に籍がある。両親はそれぞれ、情報整備士をしている。
両親の仕事柄、僕は外付けの記憶装置を潤沢に拡張できる。そのせいもあって、僕の中にはまるまる四人分の人生が入っている。
日本人の剣豪、アメリカ人の政治家、アフリカの文明を受け入れない少数部族の男、イギリスで昔ながらのフィッシュ・アンド・チップスを移動販売車で売る男。
それぞれの人生の眩いばかりの華やかさと、絶望するしかない屈辱。
家族がおり、友人がおり、恋人がおり、子がいる。
剣豪は腕を切り落とされる。政治家は政敵を陰謀で追いおとす。黒い肌の僕は木の棒の先にナイフを紐でくくりつけて、鹿を追いかけ続けている。そしてフィッシュ・アンド・チップスは売れない。
僕の人生を語る必要があるはずが、僕の人生はくすみ、特徴がなく、希望が未来に待ち受けているはずが、僕が見ている四人の人生を見る限り、希望がそう簡単に現実の形を持つ、とも思えない。
希望、夢、あるいは展望さえも、どこか現実味がない。
そもそも現実味というワードさえもが、現実的ではない。
現実とは、こうなってみれば、おそらくは「生きる」ということと同義だったはずだ。
僕が生きている現実とは何か。
剣豪であり、政治家であり、蛮人で、みっともない労働者で、そして冴えない高等学校の生徒。
僕は一人なのか。それとも四人、あるいはもっと大勢なのか。
こうして人生をいくつも体験し、言えることがないわけではない。
何かを他人から学び取ることはできるのだ。
きっと僕はクラスメイトより、剣術に長けて、弁論は軽妙で、勇猛で、フィッシュ・アンド
チップスを作るのがうまい。
でもそれが何になる?
僕が生きているのは剣豪が活躍した時代でもないし、居場所は議事堂でもない。駆け回る原野はないし獲物もいない。まぁ、ちょっとしたファストフードを作れるのは、意味があるかもな。
僕たちはみんな、自分を失っている。
他人を知る。
それも完璧に、過不足なく、リアルな他人を知ることができる。
誰かが描いたストーリー、誰かが組み立てた世界、あるいは実際に生きたストーリーか、実際に神様が組み立てた世界。
僕たち人間は、もしかしたら人間の限界を超越しつつあり、神の領域、神の御業にさえも、手を伸ばしている。
高い木の先にある、黄金色に輝くひとつの林檎。
問題が全くないわけじゃない。
ただ、これだけははっきりさせないといけないのは、僕たちは実はすでに林檎を手に取っている。
色も形も味も様々な、他人の人生という林檎。
僕たちはいつも、林檎を食べている。他人の人生を味わって、満足して、そして、どうするだろう?
ストレージ。僕たちの限界容量は、厳然として目の前にある。
必要になれば、僕たちは林檎を捨てる。他人の人生を、忘れる。それで何の問題も障害もない。それは他人の人生。僕の人生は、僕の体に宿る人生だ。
希望はない、なんて言いながら、僕たちはまだ見知らぬ場所に希望を見出している。
黄金色の林檎を前にした時の希望とは違う希望。
僕たちが現実味を帯びて感じる希望とは、絶望の裏返しなのではないか。
望んだ未来、望んだ世界を生きることは、他人の人生を取り込むことで、いくらでもできる。
そもそもからして、僕たちは理想を望むが、その理想とは、比較の末にあるもので、相対的だ。僕の高等学校での日々よりは、剣豪の日々の方がマシなように。腰に布を巻いただけで、走り回って疲れ果てるのがマシなように。
そうなれば僕たちが未来に感じる希望とは、理想を超越することではなく、むしろ自分が堕落する、破滅することを期待する、間違った形の希望なのではないか。
満たされれば満たされるほど、僕たちは何かを捨てたくなってしまう。
自分の幸福さえ、幸運さえ、それを捨てた時に初めて意味を持つ、激しすぎる矛盾。
アベレージ。
みんな、それぞれに多くの人生を頭に取り込んで、静かに、穏やかに、満ち足りた日々を過ごす。
救いはあるのだ。
他人の人生という救い。視線を背ける先。光そのものを覗き込むのではなく、いい角度で光に照らされているように見える物体を覗き込むやり方。
僕たちは常に救われている。
もしかしたら、僕の人生も他人を救うだろうか。
僕というストーリー。僕というスタイル。
みっともなく、嘲笑され、唾を吐かれる対象。
誰かに、自分より下がいると思わせるだけの、そんな生き方。
いや、僕という物語はまだ、始まってもいない。
僕は幾人もの人の人生を間近に見て、これから、新しい場所へ踏み込むはずなのだ。
希望はあるはずだ。
本当の希望。
裏返しになっていない、希望。
僕は新しい人生を生きているはずだ。
何かが停止する。
容量が不足している。
結局はこうだ。
ストレージ。アベレージ。絶対に覆せない、神の領域。
絶対的な原則。
僕の眼の前で、剣豪の剣の振りが止まり、議員は身振りを交えた演説の途中で一時停止し、鹿も自分も静止し、フィッシュもポテトも油の中で泡もろともフリーズ。
何かを消去しないと、先へ進めない。
僕という人間。
リー・ランファを消すとしよう。
この名前も適当だ。
僕は僕だが、僕はリー・ランファではない。
では僕は、誰だ?
僕は誰の人生を、いつ、覗き込んで、その人になりきったんだろう。
手で何かに触れたい。明確に他者を理解したい。
自分自身も。
そう思っても、もう全ては凍りついている。
時間が止まった世界で、僕にできることは、消し去る対象を選ぶことだけだ。
意識だけが変に鮮明で、結局、僕は、全てを消した。
◆
自分がどこにいるのか、すぐには記憶が蘇らない。
僕には一億を超える名前があり、一億を超える人生がある。
一億を超える喜びと後悔。一億を超える成功と挫折。一億を超える色とりどりの生涯と、全てに等しくやってくる死という避けがたい結末。
第十二世代で生き残っているのは僕だけで、第十三世代の子供たちは、周囲で毛布にくるまってぐっすりと眠り込んでいる。
一人一人が長いコードで端末に繋がれ、しかし彼ら彼女らの眠りは決して冷たくはなく、楽しい夢を見ているように柔らかい空気をその空間に惜しげもなく発散していた。
僕は自分の年齢を思い出そうとした。
長い時間、数え切れないほどの記録を閲覧した。僕は誰でもあって、しかし僕自身でいつづけることに今のところ、成功している。
僕が一億を超える人間の過去を見続けても、僕という人間はただ一つの生を、まだ守っている。
もう遥か昔、人類の発祥の地である地球には穏やかな破滅があり、宇宙は人間の技術とその時間認識の中ではまさに無限に広がる、新たなる生存領域となった。
そうして宇宙に、果てしない世界に飛び出した僕たちは今、どこでもない場所で日々を過ごしている。
多くの人間が過去に生きていた。
人類の最終的にして理想的な計画は、その全てを記録する試みだった。
一人一人の見聞きしたことをより正確に、そしてより的確に、高精細で、微に入り細を穿ち、全ては長い時間を経て、記録された。
実際の人生を封じ込めたデータバンク。
現実には存在しない、誰かが思い描いた仮想の、しかし緻密に作りこまれたデータライブラリー。
いつからか両者に境界はなくなってしまった。
僕たちが知っている実際に生きたという人間は、遥かな年月の彼方に去るにつれて、伝承となり、伝説となり、寓話となり、もはや現実であることに大きな意味はなくなった。
ピタリと寄り添う、創作と事実。
僕たちにできることは、知ることだけだ。しかし全てを知ることはできない。時間が、そしてストレージが、僕たちの世界を囲む柵だ。
この柵の向こう側へ行くことができるものは、いない。
残念ながら、どこまでいっても僕たちは袋小路から出られない。
子どもの一人が声を小さな上げ、起き上がった。目をこすりながら、「いっぱいになっちゃった」と呟く。
そして目を覚ましている僕に気づき、こちらへ這うように進んできた。
「人生二つで、ストレージがいっぱいになっちゃう。どうしたらいい?」
純真で、まっすぐな視線に、僕は一体、どんな表情を返しただろう。今の僕は、どんな瞳をしているのか。
「いつか、大人になれば、アベレージも上がるさ」
「本当に? どれくらい?」
そうだな、と言いながら、この問いかけの真理をいつか、この子も知るのか、と考えていた。
アベレージが上がり、ストレージが増える。拡張もできる。
そうしてより大勢の人生を生きたとしても、どこかで自分の人生へ戻らないといけないのだ。この限られた空間で、ひたすら記録を確認し、人間という種を守り続ける、有意義と言えるものは全てが去り、残された何の意味も持たない日々に戻らなくてはいけない。
人生における発見、人生における閃きが生きる場所は、もうどこにもない。
今、この瞬間に僕の人生はあるし、目の前の少年の人生も、また存在する。眠り続けている少年や少女にもそれぞれの、今しかない人生はある。
それさえも、膨大な記録は飲み込むのか。
過去の人生が物語に組み込まれたように、未来の人生さえも、やはり物語か。
「どうしたの?」
少年の問いかけに、僕は一度、目を閉じた。
無数の人生が脳裏に浮かぶ。しかしそのどれもが、自分の人生ではない。
僕は物語を閲覧するという装置なのか。生きているのに?
僕はどこへ向かっているのか。僕の人生の終着点が死であるのは確実として、どのような過程でそこへ到達するのか。
到達すれば、僕も物語の一つになるのだろうか。
到達しなければ、物語ではないのか。
人生とは何か。過去か、今か、未来か。生きるとは、なんだ?
「いつか、わかるさ」
そう言いながら、僕は少年の頭を撫でた。
「ゆっくりと、眠るといい。ストレージを整理して、多くの人を理解してあげなさい」
少年はにっこりと微笑むと、元の毛布の元へ戻り、目を閉じた。
僕は自分の頭の中のストレージの状態をチェックし、アベレージの数値も確認した。
老化現象による処理能力の低下で、ひとつ丸ごとの人生を取り込めるのは、せいぜい二人分だった。時間にして、二百年分か。
それでも確かに、二人の人生を体験できる。
自分自身が生きたように、そこでは生きられるのだ。
もし、本当に頭に不具合が起こり、ストレージが今の半分になれば、僕の頭の中の人生はひとつになる。
そうなった時、僕は僕自身の本当の物語を捨てて、他人の人生を自分に焼き付けるだろうか。
記録を守り続ける、この終わることのない日々より、マシな人生は無数にある。
僕の人生に見るべきものは何もないのだ。消えても、誰も苦労はしない。同じ時間を生きた仲間たちは、あるものは記録に変わり、あるものは永遠に記録から消えたのだ。今更、僕一人がやはり消えたとしても、困るものはいない。
息を吐いて、僕は床に寝そべった。
静かだ。聞こえるのは子どもたちの寝息。
自分の頭の中にある、自分の人生を思い描いた。記録ではない、朧げで不確かな、純粋な記憶だ。
しかし僕だけが知っている、僕だけの記憶。
忘れていることさえも、記録は記録といて保管しているが、僕の記憶には見当たらないものがそこには含まれていることになる。
その記録を消してしまえば、僕の一部は死ぬだろうか。
生きているとか、死んでいるとか、ここは意味のない世界だろうか。
ストレージに働きかけ、僕は僕自身の記憶に触れた。
記録があっても、記憶にはないことは多すぎる。
記憶にある、いくつかの理想的な人生の断片を、記録に当たってどの個人の記録かを特定する。
起き上がり、部屋の隅のテーブルに直接、その個人記録のデータ番号をペンで走り書きした。
立ったまま、記憶を操作する。
僕の中から、何かが消えた。しかし、これから見るべき記録があること、そして自分がそれを望んでいることはわかる。
またか、と思う自分もいる。
理想の人生を送るために、その人生に関する記憶を消す。
記録を本当に楽しむには、謳歌するには、それが正しいのはわかる。
新鮮な記憶を味わうために、自分の思考を浄化する荒療治。
でも記憶の消去を繰り返していては、僕という人間の、僕だけの物語は決して前には進まない。
果てしない宇宙。果てしない時間。
その中の限られた空間で、限られた時間を生きる僕たち。
なのに僕自身が、限られているが上に限られてるものを、さらに削り取っている。
自分自身の行いに暗澹とした気持ち、暗いものを感じながら、僕は膨大な記録にアクセスし、テーブルに書かれている番号を元に個人記録を当たった。
地球だけにしか人間がいなかった時代、文明が発展、発達し、平和な時代に生きた誰かの記録だ。
記録にアクセスする前に、改めてストレージを確認した。
使える容量は、一八〇年分。記憶を消せば、それ相応の部分が焼き潰されるとしても、どうしても僕はそれをやめられない。
この後悔は、記憶を消すときにはないものだ。もし覚えていれば、記憶を消すことなどしない。
緩慢なる自殺以外の何物でもない。
何故、僕はそれを選択してしまうのか。
僕は少しずつおかしくなっているのだろう。考えるべきことが考えられなくなり、何かを切り捨てて、こうして少しまともに戻る。
結局は、また記録に没入し、道を外れていくのだろうけど、他にできることはない。
他人の人生こそが、救いなのだ。
他人の物語が上演されることで、自分の人生を見出せる。
光を見て、影を知るとしても。
そう、生きることは、知ることか。
生きることは、伝えることではなく?
そう、僕はきっと、もう生きてはいないのだろう。
記録をダウンロードする。床に座り込み、うつむくと、もう僕は僕ではなくなっている。
幼子の記憶。
両親らしい男女のぼやけた、まるで輪郭のない姿。
僕は声を発しているようだが、言葉ではない。
これは誰の物語か。
これが、僕の物語か。
そうでなければ、僕の物語は今、どこへ向かっているのか。
泣き叫ぶ自分がいる。
時間は緩慢に流れていく。
(了)
容量消失 和泉茉樹 @idumimaki
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