記録再現士は演技ができない

伊丹巧基

001 記録再現士は演技ができない


 記録を補完し再現するのは、冒涜だという人がいる。その人の想いを踏みにじって、勝手な解釈で肉付けすることに、もう少し疑問を覚えたほうがいいと言ってくる人もいる。あなたは悪意の有無を問わず、人の尊厳を辱めているのだと。


 その通りだと、僕は思う。

 人は、知らないほうが幸せな場合が殆どなのに。


『ねえ、明日も奥さんいないんでしょ。また会えないの?』

『ダメなんだよ、明日は子供の面倒見なきゃいけないから。今日だって、会社の会議に参加してそのまま飲みに行くって話してあるから、キミに会えたんじゃないか』

『やだー、悪いんだから』


 ここはラブホテルの一室、その再現。4駅隣の『ムーンワルツ』、休憩2時間6400円。

 目の前でいちゃついている男性と女性の横で、全く同じ顔の男性が青い顔で肩をすぼめている。

 そしてその反対側に、無表情のまま座っている女性。男女の営みの再現を、冷めた目で見つめている。


「ありがとうございます。もう結構です」


 僕は再現されたその一室を閉じる。そうすると、さっきのラブホテルとは全く違う、普通の生活感あるマンションの一室だけが残される。飾ってある家族の写真。地面に転がったままのおもちゃ。


 僕が今立ち会っているのは、浮気の証拠を突きつけるその現場だ。もう証拠も離婚届も揃っていて、あとは実際に奥さんが別れを告げるだけ。この場にいるのは追い詰められた旦那さん、ため込んだ証拠を爆発させている奥さん、そして彼女に雇われた記録再現士ログメイカーの僕。


 別れましょう、と冷たく言い放った奥さんを横目に、僕は淡々と請求書送付のメールを作成する。この手の依頼を数えきれないほどやって一つ分かったのは、ドラマのようにどちらかが驚くことは殆どなくて、お互いそうなることをどこか予期していたように、あっさりと破局するパターンの方が多いということだ。


 全てのモノの動きがトレースできる現在、ログは人間よりは嘘をつかない。彼が『ムーンワルツ』に入った時間、部屋のライトの明るさ、部屋のコンドームの使用個数、ベットの上にいた時間。そういった記録をつなぎ合わせれば、その時の状況が見えてくる。

 もちろん、ラブホテルのような施設はその手のログは外に出さないし、処分する速度も他の業種に比べて速い。それでもその日にログを請求されたら提出せざるを得ないわけだ。今回はそのパターンだと言える。


 更に今回は、奥さんが旦那さんの荷物にボイスレコーダーまで仕込んでいたおかげで、ログと音声の合致した再現は正確で、彼の浮気は一分の隙もなく証明されている。


「これは2週間まえのホテルでの光景を再現してもらいました。あなた、こういう甘い言葉も投げかけられるんですね。意外でした」


 正直、他人のセックスを残業しながら作りこむのは苦痛だったが背徳的で楽しくもあった。その甲斐もあり、悪趣味なくらいよく出来た。浮気相手の身体を撫でる手つきや、絡み合う舌の動き。この再現を弄ってネットに流せばポルノとしていい金にはなるだろう。

 普段はここまで再現せず、ログから個人の動きを追うくらいなのだが、今回は奥さんの希望もあって音声とログを突き合わせこの密度で再現させている。言い逃れをさせないためだ、と打ち合わせの時に言った彼女の目はしばらく忘れられないだろう。


「昔からあなたが浮気性なのは知っていましたが、まさか子供が生まれる前からだなんて。見抜けなかった自分にも腹が立ちますが、あなたの節操のなさは怒りすら通り越して感服します」


 こんな言葉を証拠と一緒に叩きつけられたら目の前は真っ暗、頭は真っ白だろう。旦那側も、最初は少し動揺していたが、今は完全に黙り込んでいる。

 今日子供が室内にいないのは、この現場に立ち会わせないためだろうか。奥さんは淡々と言葉を続ける。


「もうあなたには何も期待しません。私は自分の仕事で十分あの子を養えます。あとは離婚届にサインしてもらうだけです」


 タグの埋め込まれた紙の書類に、ボールペン。このボールペンがどこで買われたかまで、すべては膨大な記録の中だ。つなぎ合わせれば、そこに物語を見出せる。証拠に基づいたノンフィクションポルノムービーは、法廷では通じなくても人の心に諦観を植え付けるには十分だった。


 サインの加わった書類を、奥さんは感情のない目で見つめている。証拠を集め、僕まで雇って手に入れた望みの成果。残念ながら、そこに喜びの様子も、達成の笑みもない。

「ありがとうございます。これで、わたしとあなたは正式な他人です。あの子には会ってもいいですが、決められた日時だけにしてください」

 その決別の言葉を、旦那さんは白い顔で頷く。納得しているというよりは、むしろ目の前のことが夢か視界ジャックであってほしいと願っているようだ。

 目的を果たした以上、ここにいる必要はない。自分は調停人でもなんでもない、ただの記録再現士でしかないのだから。


「では、僕はこれで失礼します。ご利用いただきありがとうございました」


 深々とお辞儀をすると、奥さんは黙って頭を下げた。当然、旦那さんの方は下げようともしない。接続を切ろうとした瞬間、彼が口を開いた。


「……さっきのは、君が作ったのか」


 不愉快そうな声。ログから再現した空間のことだろう。


「はい。私がログを元に情報を整理、欠落した一部を補完し再現しました」

「要するに、創作、いやでっち上げたわけか。なんて悪趣味な」


 悪趣味。幾度と言われた単語は、耳に慣れ親しみすぎてそれが嫌な言葉だと認識するのに時間がかかるようになってしまった。


「よく言われます。まあ、あなたに悪態をつかれても良いくらいの代金は戴いているので」


 それだけ言い残して、僕はVRから自分を切り離す。現実の光景は、静かなマンションの一室、すべて同じメーカーで統一された家具に小物。生活を彩る要素を自己判断しなくなった人間が、とりあえず人間らしい暮らしをしていると錯覚できるように作られた空間。

 もう何年もこの部屋を出ていない。食品や消耗品は全て宅配、運動は室内で筋トレや有酸素運動。ゴミは外に分別して出すだけ。客以外の誰にも会わないこの仕事は、どうやら天職だったらしい。


 依頼は一月に一件程度だが、完了するまでに時間がかかるから、いつも並行して仕事を進めることになる。そのうちの一つは今日終わった。報告のレポートを自動筆記で生成して、最低限体裁を整えてから上司に送付する。すぐに確認完了の連絡が来るだろう。

 一段落ついて、コーヒーが飲みたくなってコーヒーメーカーの前に立つ。豆にこだわりはないけれど、インスタントはどうも口に合わなくて、毎回挽いてもらったブレンドを仕入れている。そしてそこに牛乳を一対一でいれて、時間をかけてずるずると飲む。たぶんコーヒー党からは総スカンを食うだろうけれど、幸いというか、コーヒーに熱心な知人は一人もいなかった。


 席に戻ると、新しい依頼の通知が一件来ていて、思わず顔をしかめる。少しぐらい暇な時間をくれたっていいだろうに。仕方なく席に付き、メールを開く。


『件名:【依頼No.2113009-268】亡くなった知人の生活再現依頼』


 覚えた違和感に手が止まる。本当に自分が対応していい仕事だろうか、という疑問だ。死んだ人間の再現は、警察が犯罪の痕跡を探す際にお抱えの記録再現士に任されるものだ。まれに親族が役所に許可をもらい再現する場合もあるが、それも特別な記録再現士にしか許されず、僕のような民間の一般再現士にはそもそも記録を追う許可が下りない。

 

 しかしこれは正規の依頼だった。すでに上司の目は通っている以上、無茶な依頼ではないということらしい。それでも疑わずにはいられなくて、僕は上司に連絡する。

『すみません、先ほど連絡いただいた依頼の件について確認したく、今お時間よろしいでしょうか』


 送信したチャットに素早く既読が付くと、上司が早速返信してきた。


『対応可能かどうか気になったのなら、対応可能です、というのが回答になります。血縁関係にはありませんが、内容・期間共に法律面での問題は見当たりません。詳細はお客様に直接確認をお願いします。聞いたうえで判断に迷った場合は再度お声がけください』


 自分が聞く予定だった回答が、疑問をぶつける間もなく回答される。速度だけは流石だ、と内心舌を巻きながら『承知いたしました。お客様にご連絡します』の一文だけ返す。


 やったことのない種類の依頼でもない。やや気が重いのは、ログを漁る対象が死人だということ。無関心を装っても、記録を見る中でその人がすでにこの世にいないことを想ってしまう。端的に言えば、引き摺られるのだ。死者を記録の中で再現するということは、死んだ人間の生きた痕跡と向き合うことになり、その感触は泥のように堆積し、自分の内面を蝕んでいく。やりたがらない人が多いのは事実だ。そして、そういう仕事は苦にならないと判断されている奴に任されることが多い。この場合は、僕のことだ。


 依頼主に、自分が担当になった旨、依頼の詳細を打ち合わせするために一度会話したい旨を伝えるメールを出す。

 数時間後、出したメールに対する返信が来る。

 承知しました。よろしくお願いいたします。テンプレートで構成された簡潔なメール文面から、人柄を予測はできない。名前の雰囲気だけ見ると男かと思ったが、正直自信はない。

 Web上で会う日程を決めたら、少なくとも今日のタスクは終わりだ。実際の対応はその日の自分が考えればいい。そのまま僕の頭は、今日の夕飯のことにシフトしていく。


 翌週、webの打ち合わせ場所に来たのは、ショートカットの女性だった。来ている服や背景の雰囲気、シミひとつない肌に、しっかりとセットされた髪。人を見た目で判断してはいけないと言いつつ、その社会人として優秀そうな雰囲気にやや気圧される。もちろん僕は、意図的になにも飾っていない白い背景に、顔が分からないようにアバターの表情を映し出している。

 社交辞令もそこそこに、僕はさっそく仕事の話を切り出した。


「早速ですが、この知人の方……『ミズタニレイカ』さんとはどういったご関係でしょうか。親族でも婚姻関係でもない場合は、聞くのが決まりでして」


 そう言いながら、僕はこの『ミズタニレイカ』の記録を開く。死んだのは三カ月前。不慮の事故で亡くなったようだ。趣味のバイクツーリング中に、対向車と接触。頭を強く打ち、死亡。

 貰った写真の彼女は、バイクの上で気怠そうな笑みを浮かべている。失礼だけど、目の前の彼女とは対照的だ。


「私の……友人です。一年前まで同棲していました。喧嘩別れして以来連絡を取っていなかったのですが、先日別の人から訃報を聞いたんです」


 含みのある言葉に、多少察してしまう。こういう口調を取るということは、こちらの反応を警戒しているということだ。自身の信条や趣向に迷いがなくとも、相手も同じとは限らない。それにこれは経験則だが――男女問わず、一見関係のない誰かの再現を依頼する人は、表面上堂々としていても、そこに含まれた感情を完璧に隠せてはいないものだ。

 だけど、そこにいちいち突っ込む必要はないだろう。依頼を十全にこなし、余計な詮索はしないのがこの仕事の流儀だ。


「分かりました。で、再現させるのはいつごろの水谷さんでしょうか? まずはログが残っているかどうか調べますので」


 普通に考えれば、一緒に住んでいたころの一部始終か。あの人と仲が良かった時代、幸せだった時代をもう一度見たい、という依頼は何度か受けたことがある。経験で得られた勘所に頼り、話しながらログを古い時点までさかのぼる。


 ちょうど彼女が暮らしていた一年前のログの有無を見ようとしたところで、ようやく彼女が口を開いた。


「再現して戴きたいのは、亡くなる数日前か数週間前……いつでもいいので、直近の彼女のありのままの一日の日常を、再現してほしいんです」


 ログを探す手が止まる。


「えーっと、それは……いつでもいいってことですか? 場所とか、内容とかは関係なく?」


 オウム返しで聞いてしまった自分を一瞬恥じるが、大事なことだ。いつ、どこで、なにを。そいつらをまずは押さえろ、と僕にこの仕事をレクチャーしてくれた先輩は教えてくれた。


「はい。彼女の起床から仕事、就寝までのルーチンを一日再現してください。複数候補があるなら、その中で一番日常的、平均的な日の行動でお願いします」


「気を悪くさせるつもりはないのですが、あなたは彼女と長い間会っていないのですよね? それこそ、彼女のただの平日だけの再現になりますよ」


「はい、それで結構です」

  言い切った彼女に気圧され、僕はそれ以上口を出さないことにする。苦情を言う客ではなさそうだが、こういう時は要求するものを素直に提供するのが一番いいだろう。


 依頼の内容を再確認し、料金含めて合意した前金を入金してもらう。そして依頼の合意報告と入金確認を上司に送付する。送るのは一瞬でも、返信までは少し時間がかかる。

 上司の確認だけは自動化されない。昔、この承認部分を自動化したら、それを潜り抜けるようなプロセスを組んで家で寝ている輩が出たらしい。人の目で見たところで大差ないとは思うが、疑ってかかる、という人の心理は、時には機械よりも優れているのかもしれない。


 それは正直どうでもいい話だが、そのどこかの誰かさんのお陰で、僕はチェックが終わるまでの間、相手と対面したまま過ごす必要があるということだ。

 僕はこの瞬間が一番苦手だった。特に、相手に話す意思がなさそうな場合は。他愛のない会話はまだできるけれど、こちらから話を振るのは好きになれない。それに、これは被害妄想が過ぎると分かっているのだが、相手に『この人は自分に興味がある』と思われるのが一番いやだ。


 それでも、これは客商売。この後で『本日の対応はいかがでしたか?』というリンクと共に星5つの評価画面が彼女に表示されるわけで、そこで一つ星と共に『愛想が悪い』と言われるのは避けたい。


 必死に話を振ろうと、視界に映る範囲で何かないか、と探りを入れる。しょせん画面上に見えるのは、彼女の座った姿と、湯気が立ち昇る柄のないマグカップくらいだ。


「……それ、コーヒーですか?」


 少しかしこまった口調になってしまったが、彼女は意外そうな顔をし、どうやら会話に応じる気になってくれたらしい。


「ええ、そうですが。よく分かりましたね」

「まあ、紅茶とかならティーカップにするんじゃないかなと思って。ホラ、一応webとはいえ対面ですし」


 見栄くらいは張るだろう。紅茶が好きなら、紅茶を入れるいいカップくらいは持っているだろうし。


「なるほど、なかなか鋭いですね」

「はは、ありがとうございます。僕もよくコーヒー飲むので、つい聞いてしまいました」

「いいですよね。私、コーヒー結構好きなんですよ。これも専門店で豆を買ってきて自分で挽いてるんです。よく一緒に飲んでました」


 その瞬間の彼女からは、警戒心が少し消えて、素の表情がうかがい知れる。人に見せられる範囲での、心からの笑顔。

 他愛もない会話に繋がってほっとする。こういう会話ができただけで、評価は良くなるものだ。いい人と一度認識さえしてもらえればいいんだから。


「凄いですね。好みの豆とか――おっと、」


 わざとらしく、僕は承認連絡に反応する。これが来れば、この会話も打ち切っていいというサインだ。想定通り、彼女も表情が先ほどまでの依頼者に戻っていく。


「承認されましたので、まずは検討した内容を次週報告し、来週から進捗報告の一報入れさせていただきます。完成が近づきましたら、ご都合の良い日に再現日を設けさせていただく予定ですので、ご認識いただければと思います」


 目安は一月。1人の生活を1日分再現するなら、そのくらいはかかる。それに、この依頼主は細部にこだわって欲しいタイプだと経験が言っている。

 ウェブ特有の挨拶の応酬を繰り広げて、打ち合わせを終える。なぜ再現したいのかまでは分からなかったが、何か悪意がある様子もない。まあ、再現してみれば自ずとわかる話か。

 一息ついてから、僕は故人『ミズタニレイカ』のログを数週間分ログ管理業者に請求する。依頼者の誓約書、企業の法律順守の誓約書、管理者の承認名簿、必要な書類ファイルはたくさんあるが、そういうのは大体まとめて出せるような仕組みになっている。


 書類仕事が一通り完了したら、まずは彼女の室内を再現する。間取りや家具の配置は分かっている。あとは対象の日の荷物や食事を用意すれば舞台は完成だ。


 そこからは地道な作業になる。丸一日かけて、ある一人の生きていた数十分の再現を進めていく。触ったモノとモノの記録から、移動した動線を導き出す。冷蔵庫が開かれ、中からビールの缶が一つ持ち出され、数秒後ソファーに一人分の重量が乗ったことをログから解読し、その動作を取った人間を再現していく。


 これは監視社会だ、ディストピアなんだ、とたまにSNSで誰かが一石を投じ、そこに無数の共感が寄せられる。しかし、その投じられた一石が呼んだ波紋が、ブラジルの蝶の羽ばたきのように何かを変えるなんてこともない。その共感を寄せた人たちの中にすら、分かっている人はいるのだ。

 全てにログが残ることで起きるメリットは、真っ当に生きている限りはデメリットよりも大きいということを。

 だから、これは情報社会の一つの形でしかない。そしてその変化に気付けていても、流されるだけでしかないのが人なのだろう。


 そんな雑念の傍らで、僕は一つ一つのログを並べ替え、正しいと思われる動きを再現していく。ログを繋ぐ仕事が仕事として成立しているのは、そこの細部を詰められる思考力が大事なんだ、と自分に言い聞かせて、記録を少しづつ再現していく。


 あらゆるものにログが残る以上、ログの読み方さえ分かれば、その人物が『水をコップで飲んだ』という動作をしたことは、コップの使用履歴と水の使用時間で分かる。だけど、『なぜ水を飲んだのか』はその前後の動作や環境を考慮しなければ分からない。

 そして、それを理解するということは、その人間の心理をリアルに想像する必要がある。もうここにいない人間を、自分の中に思い描く。他人を深く知ると情が湧く。その人物の行動が頭の中で浮かぶようになる。

 だがふと、脳裏によぎる既にその人がここにいないという事実。

 やりたがらない記録再現士が多いのは当然だ。死に対する意識は人それぞれだが、そこに不可侵を見出し、タブーだと忌避するのは、至極正しい判断だと言える。

 ならば僕は、と問いかける。僕にはできる。死んでいようがいまいが、自分の再現は真に迫っている。根拠のない自信じゃなくて、自分に与えられた評価の実績で分かる。

 だけど、それほどまでに一人の人物を深く理解して、次の仕事の時には忘れ去るようなルーチンを繰り返して平然といられるのは、人間としておかしなことなんじゃないのか。


 いけない、と僕は一度席を立つ。こういう時は煮詰まっている証拠だった。あと一週間。期限には間に合いそうだが、まだまだ道のりは遠い。コーヒーを取りにキッチンへ向かう。コーヒーメーカーのスイッチを押して、ぼんやりと黒い液体が抽出されていくのを眺める。


「疲れた顔だね。いい加減休んだら?」


 ああ、やっぱり今日は疲れている。この部屋は、僕一人しかいないのに。

 顔を上げても勿論何もいない。でも、視界の端に誰かが映る。背後や室内に誰かがいるような気がする。具体的に言うと、身長165㎝、体重49キロ、26歳の女性。ああクソ、なに頭に浮かんでいるんだ。

 僕の部屋に、僕が今再現している人物が存在している、ような気がする。気がするだけだ。仕事が佳境を迎えると現れて、こうして僕に語りかけてくる。


「やっぱり彼女らしいよねー、私のありふれた一日が見たいだなんて。二人の時はずっと見てきたくせにさ」


 ほら、だから当然こういうところの再現はできない。本人が彼女、なんて曖昧な呼び方をしたはずがない。

 ログはログだ。僕の手元にあるのは大量の記録だ。彼女の肉声など聞いていない。前の浮気調査のような録音があれば別だが、この目の前の女性に僕は一度も会ったことがない。知っているのは写真と最低限のプロフィール。彼女の口調なんて、分かるはずがない。

 ここにいるのは、僕の手元にある『ミズタニレイカ』のログから生み出された、ただのキャラクターだ。そう自分で分かっているはずなのに、僕は無意識でこういう幻想を産み出してしまっている。


 黙っていると、その気配はするすると僕のそば、台所の狭い床を歩き回る。しかし何も触らない。見ているだけだ――誰かが料理を作っている時、そうしたように。自分で料理するときとは違う、舐めるような目線。


「ま、気になるんだろうね。私、彼女に全部やってもらってたし。ブラもパンツも洗ってもらって、ご飯もおつまみ以外は作ってもらってたし」


 そう言って彼女が軽やかな足取りで、僕のベットに腰を掛けたのが分かった。揺れるはずのないベッドが、正確に彼女の体重分へこんだのだ。しかし顔を上げても、そこには僕が今朝起きたままの布団が転がっている。

 放っておくといつまでも消えないのは分かっている。かといって、邪険に扱うとつけあがる。疲れた頭で、僕はとりあえず思いついた言葉を投げかける。


「……コーヒー、いりますか?」


「遠慮しとく。私、マズいコーヒー嫌いだし」


 なんなんだよ、と睨み返した時には彼女はもう消えていた。そして僕の手元にはコーヒーの入ったマグカップが二つ。一つはミルク入り。もう一つはブラック。インスタントよりはマシだと思うが。

 ふふ、と笑みがこぼれる。どうやらまだ、僕は病院に行くつもりがないらしい。


 そして再現が完成したその日、僕は有休をとった。



 当日。お披露目の日。

 やってきた彼女はすまし顔で、でもどこかそわそわとした雰囲気で画面の前に現れた。

「お待たせしてしまいました。早速再現を見ていきたいと思いますが、よろしいですか?」

 

「はい、お願いします」


 承認を得て、僕は再現を開く。

 選んだ一日は、他のログと比較して、一番何事もなさそうな日にした。『ミズタニレイカ』の仕事は広告、毎日朝の7時に起きて、朝ご飯を食べて化粧をして、仕事に行く。職場は再現できないので9時間ほど飛ばして、仕事を終えた彼女が夜の七時くらいに帰宅してくるところから再開。化粧を落として手早く寝巻に着替える。買ってきた総菜と合わせて手早く一品炒め物を作った夜ご飯。洗濯と掃除をして、少し端末を弄って、寝る準備を整えてベットに潜り込む。


 それが全てだった。一つの再現として、早送りして見せてしまえば三分程度。しかし、それだけの断片でもよく分かる。『ミズタニレイカ』は、この生活様式を、苦も無く維持していた。正直、僕のどんなにいい日常を切り取っても、彼女の普通の一日と比べるべくもない。


 再現が終わって、彼女に目をやる。この瞬間でだいたいこの仕事の成果が分かる。眉間にしわを寄せていれば気に食わないところがあって、頷いていれば満足したということだ。そして彼女に浮かんでいる表情は――そのどちらでもない、困惑の色を帯びていた。


「……これ、本当ですか? なんていうかその、ずいぶんと立派な生活ですけど」


 その第一声は、普通に記録再現士にかける言葉としては、あまりに失礼だろう。一月費やした成果物を、そもそも否定するような言動。でも、僕はなぜかそこまで不快感を覚えなかった。彼女が本気で動揺しているのが分かったからだ。


「ええ、多少の差はありますが、彼女の平均的な一日を選びました。何か気になることありますでしょうか」

 

 しばらくの無言。発言しなければいけないという状況で固まってしまうのは、自分の中ですぐに結論が出せない時だ。少し様子を見ようと黙っていると、結論をまとめたらしく彼女が口を開く。


「いえ。特には。確かに、こんなにしっかりやれているとは思っていませんでしたが、気になることはありません。はい、ありがとうございます」


「あ、嘘ついてる」


 僕の手がピクリと止まる。


「ねえ、私に言わせなくても分かってるんだよね? 彼女が嘘ついていること」


 こんなことは初めてだ。打ち合わせ中に、誰かの気配を感じるなんてことは。音声を一瞬切って、深呼吸して、誰に向けているわけでもない言葉を絞り出す。


「……ログだけ見ている僕に、そんなこと分かるわけないだろう」


「確かにログだけ見ても手掛かりはないだろうね。でも君は分かっちゃったんだ。彼女の身体から通して出る、嘘のサインを。もっと言えば、嘘だと見抜ける『ミズタニレイカ』の直感プロセスを君は一時的に会得しているんだ」


 頭が痛くなってきた。これが自分の中から出て来たというのなら、まともじゃない。この依頼もとっとと切り上げてしまおう。これ以上続けていると、本当に実体すら見えてきそうだ。


「……どうしましたか?」


 どうやら、反応がなかったので問い返されてしまったらしい。慌てて僕は首を振る。


「すみません、なんでもありません。内容に不備や要望ないようでしたら、最終的なお支払い手続きとデータのご連携をさせていただきます」


「え、ええ。はい。大丈夫だと思います。ありがとうございます」


 納得した表情ではない。無意識かもしれないが、歯切れの悪い言い方だ。


「ねえ、言ってくれないかな。ピシャっとさ。私、彼女のこういうところは、あまり好きじゃなかったんだよね。肝心なところで引き下がって、ずっとそれを引きずっていくところがさ」


 言う必要はない。そこまで踏み込む必要もない。これは仕事だ。プライバシーに足を踏み入れれば評価にも影響する。僕はリスクは取らない。給料分の仕事だけしていればいい。

 それに、どうせこいつも僕の頭が産み出した余計な創造物だ。仕事が終わればそのうち消える。次の仕事に変われば、あっという間に霧散していくだけの存在じゃないか。


「いいのかい、君は。彼女はこの先ずっと、自分に疑問を覚えながら生きていくんだよ。それは呪縛なんだ。彼女自身が彼女を縛り付けて生きていくことになる。君は黙ってそれを見過ごすのかい?」


 黙れ。僕はイタコや霊媒師じゃない。ただの会社員、一介の記録再現士だ。疲れた頭が産み出した死者のために、現実の依頼者に干渉するのは一線を越えた行為だ。

 心の中でつぶやいた言葉とは裏腹に、僕の口は勝手に言葉を紡ぎだした。


「……もしかして、堕落した生活を期待していましたか? まともに掃除もご飯もできない、惨めな生活を」


 僕の言葉に、ハッとしたように彼女は顔を上げた。動揺。図星だという確信がなぜか自分の中にある。そして、そのあと彼女がどういう反応を見せるのかも。


「……突然ですね。何をおっしゃっているか、よく分かりませんが」


 ああ、やらかした。社会人のベールの奥から、邪な感情を隠すための本能的な警戒心が顔を出す。もう、このクライアントからの評価は最低だろう。だが、まだ引き返せる。始末書の一つでも書けば許される。口をつぐめば、僕は問題ない社員のままだ。


「あんまりこういうことは言いたくないのですが、あなたは、怖かったのではないでしょうか。『ミズタニレイカ』にとって、あなたが重要な存在だったのかどうかを知ってしまうのが。あなたは自分が彼女に必要な存在かどうか、ずっと気がかりだった」


 彼女の視線が泳ぐ。


「一年前に別れたと言っていましたね。推測ですが、あなたは彼女があなたの元に戻ってくると思っていたんじゃないですか? それこそ、『あなたがいないと私は何もできない』――そう言ってくれることを願っていたんじゃないでしょうか」


 ずっと引っかかっていたのだ。再現した『ミズタニレイカ』の一日は、それはごく普通、むしろ立派な部類の生活だった。そんな平和な日常を、それなりの額を払ってまで再現させようとしている意味とは何なのか。だから、ログを隙間なく見た。そして『ミズタニレイカ』を理解したと思えた時、ふと、依頼者のまとわりつくような気配を感じてしまったのだ。


 依頼者である彼女は黙ったまま。真実を突きつけるのは快感だというのはとんだ間違いだ。僕は手元のログの中で、静止した『ミズタニレイカ』を見つめる。


「そして、彼女は帰らぬ人になった。あなたの求めていた回答は永遠に返ってこない。だからあなたは私の会社に依頼した。諦めきれなかったからです。死んでいなければ、彼女はあなたの元に戻ってくるはずだったんだ、という証拠が欲しかった」


 アバターで対面していてよかったと、これほど実感した日はない。素の僕なら、彼女の表情を直視できなかっただろう。

 核心を突いた感触はある。見ず知らずの人間に見透かされたことへの困惑、そして隠していた感情を露出させられた屈辱。そしてそれらを隠そうとしていたはずの彼女の顔は、原色の青を薄く乗算したように血の気がなかった。


「それは……」


 声にならないぷつぷつとした音が、音声越しに耳をざわつかせる。

 ここまでは分かっていた。余計なことばかり言ってわざわざ彼女の薄暗い感情を白日の下に晒したのは、この後に続ける調査結果の意味が、全く違ってしまうからだ。

 僕は一拍置いて、そして――ああ、さらにここから続ける言葉を絞り出すのは、なんて難しいんだ。


「そのうえで、あえて言わせてもらいますが――彼女は、あなたなしでも生きられていたと思います」


 言ってしまった。

 しかし、そこには嘘をつくことはできない。この部屋に住んでいた『ミズタニレイカ』は、かなり真っ当に生活が出来ていた。ごみは指定された日に捨て、週二回掃除し、食生活は自作と外食を使い分け、時間通りに仕事に行く。正直、僕の堕落した生活よりも真っ当に、社会に適合していた。


「あなたが同棲していたころは、あなたに任せておけばよかったから、それに甘えていたんでしょう。できないのではなく、やる気がなかっただけ。そして1人になれば、それを十全にこなすだけの能力があった」


 個人の推測で片付けるには、ログが揃いすぎている。電気や水道の払い忘れもなく、消耗品の補充も定期的。これだけの生活の中で、誰かにアウトソーシングしていた形跡もない。これだけ自分でできるのに全部他人に任せていたとは、なかなかいい性格をしていると思うが、客観的に見ても、彼女が生活力のない人間だとは言えないだろう。


「……僕からの話は以上です。今更言っても無駄だと思いますが、申し訳ありません。立ち入ったと分かっていても、この事実を伝えるだけだと、あなたにその、良くないものを残すと思ったので」


 言い終えて、相手の言葉を待つ。なぜだろう。今まで受けた依頼の中で、こんなに心臓がどきどきするのは初めてだ。なんで俺は、べらべらとこんなことを話してしまったんだ。

 記録再現士は記録を基に再構築して仮想の空間で演じさせるだけの社会人。そこには人の感情が入り込む余地はない。記録再現士は演技をしてはいけないのだ。事実だけをできる限り正確に伝える必要があり、憶測が含まれてはならない。

  

 気まずいとしか言えない時間が流れる。打ち合わせの時間が少しずつ過ぎていく。

 彼女が深呼吸して、口を開く。


「……驚きました。これ、何かの手品とか、企画とかじゃないですよね? 私、あえて名探偵に依頼した真犯人みたいっていうか」


 その言葉に棘はない。彼女の例えに倣うなら、探偵に自供する時はこういう口調になるのかもしれない。だが、僕の言ったことは、探偵の話す真実とはあまりにも程遠くて、少し苦笑いしてしまう。


「推理でもなんでもありません。記録に基づいた再現は事実ですが、そこから先のあなたについての話は全て僕の想像・推測の産物です。むしろ、あなたには私の言葉がプライバシーの侵害だと弊社に苦情を申し立てることもできます」

「しませんよ、そんなこと。確かに恥ずかしいところをお見せしてしまいましたが、逆に踏ん切りがついたというか」


 すーっ、と彼女が息を吸う。そしてそのまま、張っていた気を吐き出すように、深くため息をついた。


「正直、私は代わりがきくんだろうなって内心思ってました。玲香は外で見ると、凄くカッコよかったんです。友達も沢山いましたし」


 画面越しでも分かる、諦めた悲しい目だ。この仕事をしていく中では、たまに見ることになるその目の色を、僕は黙って見つめている。確かに、彼女の言う通り、すべてを看破され観念した犯人のように見えるかもしれない。


「あなたのおっしゃる通り、私が依頼した理由は玲香が生活できてないさまを見たかったからです。掃除の一つもしなかった彼女がどんな酷い生活を送っていたかを見て、笑ってやりたかった」

「だから、平均的な一日、というオーダーをしたんですね。平均的に乱れた生活を送っていたなら、その再現を見るだけで分かってしまう」


「自分でも陰湿だなと思います。でも、そうでもしないと心が休まらなくて。というか、気付いたらいなくなってるんですよ。私にさよならとか、そういう言葉の一つも言わずに」


 そして、もう一度息を吸い込んでから、彼女は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと口を開く。


「まあ、なので……まだ未練はあるんですけど、諦めようと思います。私がいなくても問題なかったんだってことが分かっただけで、十分かな、と思うことにします」


 言い終えた、というには歯切れの悪い回答だ。納得したというより、させたような口ぶり。

 そしてもう声は聞こえない。つまりもう彼女のために語る必要はないということなのかもしれない。事実は伝えきった、ということか。

 今度は僕の口からため息が漏れる。もし仮にあの声が亡霊だったとして。ここで語り終えたと思っているなら、それはとんだ間違いだ。



「分かりました。では――ここからは余談というか、たまたまログを見ていて気付いたことなので、記録再現士としてではなく、一個人としてお伝えします」


「……え?」


「彼女は彼女なりに、あなたのことを大切だと感じていたはずです。証拠は――これです」

 

 そう言って僕は、マグカップを持ちあげた。


「コーヒーですよ。彼女は、あなたが淹れたものじゃないと飲みたくなかったみたいですね」


 依頼者の頭に疑問符が浮かぶ。僕は、ログから得られた情報を口にした。


「部屋にあったコーヒーメーカーは、使用したログがありませんでした。コーヒー豆やフィルターの購入履歴もありません。彼女はあなたと別れてから、一度もコーヒーを飲もうとはしなかった」

 

 そう、本当に彼女はコーヒーを一度も飲んでいない。僕が見ることのできたすべてのログに、コーヒーは登場しない。アイスコーヒーもエスプレッソもカフェモカも、彼女のログには存在しないのだ。


「なのに、使わないコーヒーメーカーを捨てようともしなかった。あえて確認しますが、彼女はコーヒーが嫌いだったんですか?」

「いいえ。いつも一緒に飲んでました。それに、良く褒めてくれて……」


 彼女が言葉に詰まる。その間に、僕はミルク入りのコーヒーに口をつけた。うん、いつも通りの味だ。苦みも甘みも中途半端であいまいな、よく分からない味。


「僕はコーヒーの良し悪しが分かるほどいい味覚は持ってないんですが、少なくとも彼女にとってコーヒーは、あなたが淹れたものだけが、唯一良かったんでしょうね」


 もし『ミズタニレイカ』がこの依頼者の存在を不要だと思っていたなら、次の相手を見つけるのなんて一瞬だっただろう、とは言わない。というより、この依頼人にはそんなこと、言うまでもないだろう。


 画面の向こうの彼女が、目元を拭ったのが分かった。そして小さく笑みをこぼす。


「……ありがとうございます。あなた、いい人ですね」

「そんなことはありません。僕はただ、自分が想像してしまったことを隠すのが下手なだけです」


 間を少し開けて、僕はただの記録再現士に戻ろうと、軽く咳払いした。


「あー、その、話を戻します。最終的なお支払い手続きとデータのご連携について、確認してもよろしいでしょうか」




 一仕事終えて、少し休憩する。端末に戻れば、どうせまた新しい仕事の話が着ているに決まっている。さっき完了報告を出したばかりなのに、一部の余裕もなく詰め込んでくるのは本当に非人道的で、上司の顔が浮かんでげんなりする。

 もう部屋に気配は感じない。成仏したのか。いやそんなわけがない。仕事が終わると同時にストレスから解放され、幻覚症状も収まった。それだけの話だ。

 それに、もし仮にあれが『ミズタニレイカ』だったとしたら、感謝の一つくらい言い残してくれてもいいだろうに。だが、言わないのだろう。彼女がここにいたのなら。

次の仕事が待っている。僕は再び席に戻った。

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記録再現士は演技ができない 伊丹巧基 @itamikoki451

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