その3

 佐久田始はその当時、S大の経済学部に在籍していた。大学に赴いて調べてみたところによると、

(”昨今の学校は個人情報の流出に厳しいってのに、どうやって調べたのか、”だって?職業上の秘密だよ)、成績も相当に優秀で、教授たちの受けも良く、一流企業への就職も内定が決まっていた。

 しかし、沖田百合子との関係について知っている者は、一人もいなかった。

 まあ、当たり前と言えば当たり前だろうな。

 人妻と不倫しており、ましてや別れ話が出ていて、自分が半ばストーカーまがいの行為をしていたなんて、他人に話す人間がいるとは思えない。


 彼が住んでいたのは青山にある学生専用のマンションだった。

 家賃は一か月六万円ちょっと、とても学生の身分で住めるところではないのだが、彼の家は千葉県で明治時代から続く老舗の仕出し弁当屋で、いわば『お坊ちゃん』だという。

 俺はまずオートロックになっている玄関から、彼の部屋のチャイムを何度か押してみた。

 しかし応答はない。

 今度は管理人に頼み込んで、至急の要件だと言い、部屋の前まで通して貰った。

 そこで発見したのが、冒頭の死体という訳だ。

 警察の尋問(任意の取り調べなんて生易しいもんじゃないな。やっぱり探偵と警察おまわりは、相性が悪い。)の合間に、それとなくこっちから訊いてみると、遺体は死後約半日は経過しており、管理人によれば、その間彼の部屋を訪問した者は誰もいないという。

 もっとも、管理人は午後6時以降は管理人室からいなくなるので、そこから先の事は分からず、モニターも調べたが、怪しげな人物はいなかったとの事だった。

 死因は刺殺で、心臓を刃物でえぐられていた。

 凶器はサバイバルナイフ(彼はナイフの収集が趣味だったという)で、マンションから歩いて数分の所にある児童公園の植え込みの中から発見された。

 このことが俺への疑いを晴らす決定的な証拠になったわけだから、その点は犯人にも感謝せねばなるまい。

(さて・・・・困ったぞ)俺は思った。

 何しろ肝心のターゲットが殺されてしまったんだからな。

 もう一度事件を洗いなおさねばならん。

 依頼人はほっとしたかもしれないが、俺はそうはゆかん。

 何故って?

 この事件にはまだ何か割りきれないものが山のようにあるからだ。

 気になったことは徹底的に調べなけりゃな。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 男は俺が仕事場に入って行っても、どうぞと声を掛けはしたが、作業台に向かったまま、顔を上げようともしなかったが、3分ほどして、やっと頭を上げ、ゴーグル型のルーペを額の上に持ち上げると、どうぞお掛け下さいといって、俺に椅子を勧めた。

 彼の名前は富田三郎とみた・さぶろうといい、かつて沖田百合子の元で働いていた。今では独立して、ここ横浜にアトリエを持って、一人で宝飾品の工房スタジオを持っている。

『佐久田君が亡くなったのは、今朝新聞の報道で知りました』

 富田はそこで言葉を一旦区切り、コーヒーを淹れて戻って来ると、一つを俺に勧め、自分も啜ってから、また話し始めた。

『僕と佐久田君は先生(彼は今でも沖田百合子のことをこう呼ぶ)のところで半年くらいしか一緒に働いていないから、あまり良く知らないんですが、真面目で熱心だったことは覚えています。惜しいことをしました』

 そう言ってわざとらしく言葉を詰まらせてみせた。

『でも、僕はそれほど彼と親しかったわけではないので、お答え出来る事なんか、本当に僅かしかありませんよ。申し訳ないんですが』

『そんなことはないでしょう』

 俺はそう言ってから懐に手を入れ、シガレットケースを出し、シナモンスティックを取り出すと口に咥えた。

 

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