昏(くら)い誘惑(わな)
冷門 風之助
その1
その日、俺は世田谷署の捜査一係の調べ室にいた。
勘違いして貰っては困る。
別にパクられた訳じゃない。
任意の事情聴取って奴に応じただけだ。
いつもなら”任意なら断る。どうしてもっていうなら
何しろこの俺、私立探偵乾宗十郎が、死体の第一発見者だったんだからな。
たまたまだよ。たまたま。
ある調査を依頼されてね。
聞き込みに回った先で出っくわしたって訳さ。
刑事達は二人がかりで俺を取り囲み、
”あの
”お前は何であそこに行った?”
”何時までもそうして黙っていたら、放免してくれるとでも思ってんのか?”
連中だって分かって言ってるのさ。
任意同行ってのは拘束力がないから、いつまでも留め置くわけにも行かない。
当り前だが俺は現場から110番に通報もしている。
つまり免許持ちの探偵としての義務は果たしているって訳さ。
結局4時間と30分と30秒、刑事達のスカスカな”拷問”に耐え抜き、釈放された。
もう午後二時をとっくに回っている。
お陰で昼飯を食い損ねた。
仕方がない。
そのまま事務所に戻った俺は、こんな時の為に蓄えておいたカップラーメンに湯を注ぐ。
3分きっかり、蓋を取ろうとすると、電話が鳴った。
”遺体は・・・・やっぱり彼でしたの?”
年配の女性の声で、少しばかり不安そうな調子が、受話器の向こうから響いてきた。
”ええ”
俺の簡潔な答えに、一呼吸あって、ため息をつく音が耳を打った。
遺体が発見された事は、正午のニュースで知ったという。
”でも、これで良かったのかもしれません。私にとってはことが露見せずに済んだんですもの”
率直と言えばそれまでだが、何だかひどく嫌なニュアンスを感じた。
”有難うございました。探偵料の残金は、すぐにでも指定口座に振り込ませます”
彼女はそれだけ言うと、もう一度”有難うございました”と、例の言葉を繰り返して電話を切った。
何だか割り切れないものを感じたが、その時は空腹をなだめるべく、カップラーメンをすすり込むことに注力していたので、それ以上深くは考えないようにしていた。
これで事が収まればそれで良かった
しかし、やっぱりただじゃ済まなかった。
つくづく俺は貧乏性な探偵に出来上がっているらしい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女が俺の事務所を訪れたのは、四月の初め、新型ナントカウィルスの緊急事態宣言の間隙を縫うようにしてやってきた。
マスクにサングラス、それに肘まであるかと思われる、黒い手袋という重武装でだ。
『初めにお断りしておきますが・・・・』
いつも通り、俺は客が来た時の前口上を切り出した。
『私は合法的であり、反社組織とも無縁で、かつ離婚と結婚に関わらない依頼であれば、大抵の事は引き受けますが、その点は大丈夫ですか?』
答えの代わりに彼女は大ぶりのバッグから取り出した小切手ホルダーを開け、別に取り出した赤いボールペンで折り目をしごき、まず”6”と書いてから0を五つつけ足してから切り離して
俺はそいつをちらりと眺めただけで、足を組みなおし、彼女の観察を始めた。
年齢は恐らく50代半ばといったところだろう。
頭髪はショートカットで、栗色に染めて、軽くパーマを当てている。
顔立ちは卵型で、サングラスを外した目は、まなじりが心持ち切れ長。
鼻はそれほど高くなく、肌は白い。
その年齢の割に皺が少なく、ほうれい線もさほど目立たない。
着ているものはコーヒー色をした無地のワンピースで、それほど派手ではないが、上質と見た。
彼女はしばらく黙って、それから口を切った。
『実は私・・・・脅されてるんです』
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