ハエ

黒澤伊織

ハエ

 そろそろ良い頃合いだと、生まれ持った本能が教えていた。わたしは弧を描くように転回し、その場所を目指した。風が運ぶ、あの素晴らしく濃密な香り。その根源でわたしは生まれ育った。わたしの母も、その母も、その母の母の母の母も、もちろん無数の兄弟たちも、無数の姉妹たちも、遡ることのできる限り、皆そこで生まれ育った。生命の源、あの場所はそう呼ばれるべきだろう。わたしたちだけではない、たくさんの命を生み出し、放ち、いまなお、その役目を担い続けているのだから。


 雨を降らし続けていた雨雲は去り、強い日差しが体を焼いた。あちらこちらで実った果実がどろどろに溶け、なかなか魅惑的な香りを放っている。けれど、そんな香りに惹かれるわたしではないし、そもそもそこには先客がいる。わたしをミニチュアにしたような背格好の、陽気な彼ら。彼らが忙しそうにあちらを舐め、こちらを舐め、としているのを横目に、わたしはぐんぐんスピードを上げた。


 やがて、それはこの複眼にも見て取れるようになった。うぉん、羽音の鳴り響く黒い渦。豊かな地、あらゆる命の湧き出る場所。くらくらするような香りを体中で感じながら、わたしは同じ目的を持って集まった母や姉妹たちの間をくぐり抜け、その地に降り立った。早く出してと言うように、腹のあたりがむずむずする。分かっているわよ、子供たち——わたしはお腹の中で孵りかけたようやく子供たちを腹から出してやるために、舞い降りたその地にちょんちょんと尻をつけた。それに疲れると、空中に舞い上がり、そこで尻を振って子供たちを振るい落とした。ぺちゃっ、ぺちょっ。柔らかい卵から顔を出した子供たちは、楽しそうに、そしてとても上手に着地すると、すぐに卵から這い出て、懸命に肉を啜りだした。それはかつて鶏だったのだが、その片鱗すら窺わせないとでもいうように、子供たちはそれを白く覆い尽くしている。またくお産というものは、何度目でも大変なものだ。わたしはそれを上空からぼんやりと眺めた。


 今回、生まれた子供たちは八十数匹。皆、元気な良い子たちばかりで、かなり大きくなった兄弟姉妹を押しのける勢いで、この地の恵みを啜り込んでいる。これなら心配ないだろう——自分に言い聞かせるようにして、わたしはその場を離れた。言い聞かせなければならなかったのは、目の前の現実が受け入れがたいほど変化していたせいだった。いや、それとも単に年のせいかもしれない。度重なる出産で、私の体はぼろぼろだった。いまなら、のろまな牛が振り回す尻尾や、同じようにのろまな人間のハエたたき﹅﹅﹅﹅﹅とかいう道具にぶち当たってしまいそうなほど。お腹に卵を持ったまま、そんなことになっては目も当てられない。こちらを見ながら通り過ぎた夫たちを横目に、わたしは葉の陰にとまり、息をついた。


 もし、わたしの懸念が正しければ、こんなことをしている暇などないはずだった。わたしは先ほど、子供たちを産み落とした肉のことを思った。あの素晴らしい場所、わたしたちを育ててくれた肉塊は、どういうわけかその力を失いつつあるようだった。もちろん、いまでもあの濃密な香りは健在で、子供たちが羽化するために必要な恵みは、まだ十分にあるはずだった。しかし、それでも——わたしはせわしなく手足を擦った。肉塊に以前ほどの香りはないし、以前ほどの恵みも残っていない。否、正直に認めれば、それはもう残り僅かだった。狭くなってしまった場所で、子供たちは押し合いへし合いし、押しのけられた小さな子供たちが団子屋﹅﹅﹅にさらわれるという、痛ましい事態すら多発している。そう、彼らがやってきてから事態は著しく悪化したのだ。空を飛ぶ団子屋﹅﹅﹅と、土に潜り、地を這う団子屋﹅﹅﹅。どちらの団子屋がましかなど、わたしには分からない。どちらも同じくらい凶悪で、同じくらい残酷なのだ。空を飛ぶ団子屋は空から、地を這う団子屋は土の中からやってきて、肉塊を根こそぎ奪う。わたしたちのように恵みに蠢き、啜るだけでは飽き足らず、その強靱な顎でそれ自体を噛み切ってしまう。そしてくちゃくちゃと音を立てながら、それを丸い団子﹅﹅にする。団子屋と呼ばれるのはそのためだ。噛み切るだけならまだ分からないでもないが、なぜ彼らはあんな気味の悪いものをわざわざ作るのか。そんなことは誰も知らないし、わたしのように子供たちを案じる母親は、考えたくもないだろう。なぜなら、他ならぬ彼らの行いによって肉塊が痩せ細ってしまうと、団子屋はあっさりと標的を変えた——わたしたちの可愛い子供たちに。


 彼らによって奪われた子供たちのことを思い、わたしは一瞬、手足を擦ることをやめた。小さな小さな子供たち。それはさぞかし白い団子になったに違いない。団子屋とすれ違うとき、わたしは嫌でも彼らが運ぶものに複眼を止めずにはいられなかった。大抵、それは別の色をした団子ではあったが——それでも白い色がちらとも見えれば、わたしの羽根はぴたりと止まり、落下してしまいそうになった。彼らさえいなければ、子供たちは無事に肥り、地に潜り、羽化することができたというのに。団子屋など、皆死んでしまえばいい。


 けれど、わたしたちは団子屋を追い払う術を持たなかった。だからできることはただ一つ、子供たちを産み続けることだった。しかし、そのやり方すら、もう——。わたしは一つ、羽根を震わせた。認めたくはない。考えたくもない。わたしは——それに母たちや姉妹たちも——わたしたちはずっとその可能性を無視し続けてきた。けれどもう認めざるを得ないだろう。恵みの地はもう、限界だった。団子屋の環境破壊によって、わたしたちの未来はいま、危機にさらされているのだ。一体どうしたらいいのか——しかし、わたしはやはり本能からその答えを知っていた。新しい恵みの地。この広い世界のどこにあるかも分からない、新しい土地を探すため、わたしは旅に出なければならない。この生まれ育った肉を捨て、新しい肉塊にわたしの子供たちを産み落としてやらねばならない。遠い遠い、それよりももっとずっと遠い過去、わたしたちの母たちがそうしたように、だからこそわたしはここに生きているのだから、だからわたしもまた同じことを、わたしたちの子供のためにしなければならない。


 子を産み続け、老いた肉体に、それは酷な使命かもしれなかった。しかし老いているからこそ、それはわたしの役目でもあった。なぜなら、まだ子供を持ったことのない若い妹たちや、わたしたちに産ませるだけの父、兄弟たちは持ち合わせていないものを、わたしは持っている。子供たちのため、未来を思う力。この旅はきっと過酷なものになる。ほんの僅かな力の差が、未来を分ける瞬間もあるだろう。その差こそ、子供のいるわたしが持つ、意志の力だ。他の彼女、彼らにはない、ゼロを一にする僅かな力。それこそがこの旅で必要とされるものだと、それもまたわたしは本能から理解していたのだった。


 産後の休息は十分ではなかった。しかし、わたしは羽根に力を入れ、飛び立った。あの濃密な香りとは正反対の方向へ、まだ見ぬ未来の子供たちのために——。


 休みながら、しかし繰り返し飛ぶうちに、とうとうわたしは見たことのない景色が見える場所までやってきた。途中、わたしは再び孕み、腹は再び膨らんだ。この子たちが孵る前に、未来を見つけなくては——そうは思うが、果実の溶けた香りはしても、わたしの好きなあの濃密な香りは、どこからも香ってこなかった。それどころか、飲まず食わずで飛び続けるわたしの体はもう限界に近く、だというのに、そうしてたどり着いたこの場所はわたしの希望を打ち砕いた。ここから先は、いままでの世界とはまるで違う。わたしはその境界線で辺りを見回し、ひくりと羽根を震わせた。風が止まり、空気が不自然なほど乾いている。そのせいかどうか分からないが、足の毛がちりちりと灼けてしまいそうだ。


 この先へ行って、わたしたちの未来はあるのだろうか——足先で腹をそっとなでる。卵はもうはち切れんばかりに膨らんでいて、いまにもあの可愛らしい顔がぷくりと覗きそうだった。この子たちのためにも、こんなところで立ち止まってる場合じゃない。そう思ったときだった。ブン、やけに軽い羽音が通り過ぎた。


「待って」

 わたしは思わず彼女を呼び止めた。

「あなた、向こうからやってきたの?」

「ええ、そうよ」

 若々しい肉体をふわりと軽く転回させ、彼女は答えた。「あら、重そうなお腹」

「そうなんです、わたしはあっちのほうから旅をしていて」

 わたしは恥を捨て、必死に事情を説明した。

「もう生まれそうなんです。このあたりでどこか、良い場所を知りませんか?」

「そうねえ……」


 わたしの隣に止まり、彼女は小首をかしげた。まだ孵化したてで、子供を産んだこともなく、良い場所など知らないのだろうか。それともそんな場所を知っていても教える義理はない、ということだろうか。わたしはめまいを感じ、ふらりと地面に落ちかけた。


「ちょっと、危ないわよ!」


 慌てた様子で彼女はわたしを抱き留めた。と、その足のかさつきに、わたしは驚いて彼女を見た。若々しい様子とは裏腹に、彼女の体はわたしと同じように老いていた。間近で見れば、それは一目瞭然だった。そうか﹅﹅﹅そういうことか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。わたしの顔に浮かんだものを読み取ったのだろう、彼女は小さく身を引いた。


「あなた、不妊なのね? だから、産む場所も知らないんでしょう? 子供を産んだことがないから」


 わたしの問いに、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。そういう個体があることは、風の噂で知っていた。母になれず、だからこそわたしたちのようにぼろぼろにならず、いつまでも若々しくある彼女たち。未来に貢献することなく、ただ一匹で生き、ただ一匹で朽ちるだけの、意味のない存在。こんなときにこんなものに出会うなんて、わたしもよくよく運がない。


「あたし……」

「ごめんなさい、あなたに関わってる暇はないの。わたしのお腹には未来が宿ってるんだから」


 何か言いかけた彼女を遮り、最後の力を振り絞ってわたしは飛んだ。早くこの子たちに育つ場所を見つけてあげなくてはならない。未来を思う意志の力、それを発揮するのはいまだった。わたしは懸命に羽根を動かし、風の香りに集中した。わたしたちの未来を探して、いずれ育ち、羽化し、母になるこの子たちのことを思って——。


 しかし、その力もむなしく、風は香らず、お腹の中でははち切れそうな卵がもがいていた。ここで産み落としてしまったらどうなるだろう、わたしは地面を見てぞっとした。恵みどころか一滴の水もない、乾ききったその場所。こうして宙を飛んでいても、地面から熱が吹き上げてくるようだ。こんな場所はいままで体験したことがなく、頼りの本能も何も教えてくれなかった。これならあの場所に止まった方が良かったのかもしれない——熱風に翻弄され、後悔した瞬間だった。


「こっちよ!」

 声がして——見ると、さっきの彼女がわたしの周りを飛んでいた。

「あなた……でも……」

「いいから、こっち!」


 今度はわたしが彼女に遮られる番だった。朦朧とする意識に活を入れ、わたしは彼女について飛んだ。どこへ連れて行かれるのかは分からない。けれど、彼女について飛べ——再び本能が教えていた。彼女はとても巧みに飛んだ。向こう側が見えるのに先へ行けない不思議な板に止まり、そこから歩いて銀色の隙間をくぐり抜け、すると暑さが嘘のように消え、わたしは少し元気を取り戻した。けれど、事態はまだ急を要する。


「あっ」

 お腹に力を入れた瞬間、ぱたぱたっと数匹の子供たちが地面に落ちた。

「どうしよう、わたしの、わたしの子供たちが……」

 思わずわたしが立ち止まると、

「仕方がないわ、こっちに急いで!」


 彼女は再び飛び上がった。暑さで嗅覚が鈍っていたのだろうか、そのときようやくわたしは生まれ育った場所の香りを嗅いだ。いや、それはもっと浅く、濃密と言えるようなものではなかったが、もう少し時間が経てば、あの場所と同じ香りが充満するだろう、その肉塊はそう期待させるに十分な香りを放っている。


「着いたわ、ここよ」

 つるつるとした地面に降りた彼女が、こちらを振り向き、笑う。

「これでお子さんたちも安心ね」

「でも、どうして……」

 わたしは戸惑い、彼女の隣に止まった。

「あなたには関係ないはずでしょう、わたしの子供のことなんて、わたしたちの未来のことなんて——」

「そんなことないわ」

 彼女はさみしそうに言った。

「あたしには子供は産めない。あたしが決めたことじゃない、最初からそうだったの。でも、だからってあたしは一匹で生きたいわけじゃない。一匹で死にたいわけじゃない。あなたや、あなたの子供たちの未来を考えられないわけじゃない」


 彼女の複眼がかすかに揺れた。わたしの胸は罪悪感に包まれた。産めなくても、彼女はわたしを助けてくれた。ここまで導いてくれた。それなのにわたしったらなんてことを考えたのだろう。意味のない存在? いらない存在? 助けてもらったからそう思うわけじゃない。けれど、きっとそういう存在はどこにでもいて、本当は必要とされてるのだ。一見、役に立たないように見えたって、必要がないように見えたって——実際のところ一生役に立たなくったって、意味のない存在なんて本当はいない。彼女もわたしと同じ、あなたたちの母なんだよと、わたしは子供たちに伝えよう。この早くお腹から出たがっている、可愛い可愛い子供たちに。


「はいはい、いま出してあげますからね——」


 わたしは良い香りの上に止まると、尻をぴとりとそこにつけた。お腹の中でもう殻を食い破っていた子供たちは、生まれると同時にそこでうねうねと蠢き出す。新しい恵みを啜り出す。


「元気なお子さんね」

 それを見た彼女は笑った。「こんにちは、みなさん」

 と、そのときだった。

「あぶない!」


 卵が一気に出るのも構わず、わたしは叫んだ。バチン、強風と共に、バチン、衝撃音が響き渡り——彼女が消えた。ハエたたき﹅﹅﹅﹅﹅だ。その恐ろしい道具がゆらりと掲げられる。その下からは、無残に潰れた彼女の姿。悲鳴を上げることもできず、わたしはそれを宙から見下ろした。さっきまでそこで微笑んでいた彼女。それがいまや動かぬ、潰れた団子﹅﹅のようになっている。わたしがたじろいでいると、再びハエたたきが振り下ろされた。ブオン、わたしはそれをうまく躱し——バチン、第二波が足をかすった。若いときはこんなもの、何度でも躱せたのに。羽根を精一杯震わせ、わたしは懸命にそれをよけた。衝撃で子供たちが再びぽとぽとと落ちた。だめ——わたしは出ない声で叫んだ。あれは彼女が救ってくれた命。わたしの、いいえ、わたしたちの未来。わたしはわたしたちの場所をちらりと見た。彼女の死も、わたしの必死の攻防も知らず、蠢いている数匹の子供たち。お腹にはまだ数十匹の子供たちが産まれるときを待っている。ブオン、わたしをしつこく狙うハエたたきを避けながら、わたしは上空で最後のチャンスを待った。あの子たちのために、わたしたちの未来のために、わたしは子供たちをあの場所へ産み落とす。


 ブオン、そのとき、ハエたたきが大きく逸れた。いまだ——最後の力を振り絞り、わたしは肉塊に向かって突っ込んだ。その動きに気づいたハエたたきも、すぐ後ろを追ってくる。速度は同じ、いや、わたしのほうが少し速い。その証拠にほら、もうすぐ——。


 バチン。そのとき体を引き裂く衝撃が走り——わたしの体はバラバラになって、地面の上に落ちていった。同様に、お腹の卵も飛び散って——いくつかはあの場所へ上手に降りただろうか。ぺちゃっ、ぺちょっ——いつか見た子供たちの、楽しそうな、そしてとても上手な着地を思い出しながら、わたしの意識は彼方へ消えていったのだった。

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