第32話 彼氏彼女の約束
「
ありすがにこやかな声で語りかけてくる。
いつも通りの三つ編みと大きな黒縁めがね。リボンのついた麦わら帽子。
そして夏の定番の白いワンピース。
僕とありすは二人遊びに出かけていた。
かつて交わした約束を守るために。
「とはいってもこの村でいく場所なんて限られているんですけどね」
ありすは言いながら振り返る。
にこやかな笑顔が太陽の日差しと共に降り注いでくる。
「どこでもいいよ、ありすと一緒なら」
思わず素直な想いを口にしていた。
「わ、わわわっ。謙人さん。恥ずかしいですよぅ」
ありすは顔を真っ赤に染めていた。
それから少しだけ俯いて、またすぐに振り返る。顔を見られたくないのかもしれない。
「……でも嬉しいです。こんな日がきてくれる事をずっと待っていたんです」
ありすは言いながら、前に向かって歩き出す。
「やっぱりいくならあそこですよね」
ありすは告げる。
そしてそれがどこであるかは、もう僕にはわかっていた。
少し遠いけれど、歩いて向かった先で土手を上を上がっていく。
一面のひまわり。太陽に向かって花を咲かせていた。
あの時は本当に広いと思ったひまわり畑。
もちろん今みてもかなりの広さがあるとは思う。
でもかつて感じたほどの遠さではなかった。
「そうだ。謙人さん。あの時の場所に行ってみませんか」
ありすの告げたあの時の場所とは、おそらくは迷子になってありすと二人で約束を交わした祠のある場所だろう。
「あれから一度も行ってなかったんです。でも今は謙人さんがいるから」
ありすは僕との思い出を大切にしていてくれたのだろう。
もういちど訪れるのは僕と一緒に。そう考えていたのかもしれない。
「そうだね。行ってみようか」
僕は頷く。
それと共に足下から声が響く。
「やれやれ。君達はまた迷子になろうというのかい」
ミーシャがいつの間にか足下にやってきていた。ひまわりの間から顔を覗かせている。
「やだなぁ。ミーシャ。もう私も大きくなったから、迷子になんてならないよ」
「そうかい。君は今でもよく迷っていると思うけどね。今も道に迷っているだろう」
ミーシャは言いながらゆっくりとしっぽを振るっていた。
「そ、そんなことないよっ。もう道に迷ったりしないもん」
「僕が言っているのはそういう事ではないんだけどね。ま、いいや。とにかく僕としてはお勧めしない。ま、でも最後に決めるのは
ミーシャは言うが早いか、そのまままたひまわりの間に消えていく。
沢山のひまわりの草に隠れて、すぐに姿が見えなくなる。
「わわわっ。有子って言わないで。ありす。ありすって呼んでよぅ」
「はいはい。ありすね」
ありすとのいつもの問答。声が聞こえるのだから、そんなに遠くには行っていないのだろう。しかしミーシャの姿はもうひまわりに隠れて見えない。
「全くミーシャったら。何を言っているのかな。もう迷子になる歳じゃないよ。私」
ありすは一人ぷんぷんと怒っているようだった。
もっとも本気で怒り心頭と言う訳でもないだろう。すぐに表情を戻して、ありすは僕の方へと向き直る。
「じゃあ謙人さん、行きましょう」
「いいの? ミーシャはお勧めしないっていってたけど」
なんとなく不安を感じて、僕はありすへと聞き直す。
しかしありすはそんな不安なんて感じてはいないようで、再び前を向いて歩き出していた。
「いいんですいいんです。ミーシャはいつも私にいじわる言うんですから」
いつもの会話の一環だと思っているのだろう。
確かに少し皮肉屋なミーシャは意地の悪いことを言う事もある。でも今のはそんな感じには思えなかった。
けれどありすはすでに先に歩き始めていたので、僕はその後ろをついて歩き始めた。
ひまわり畑はとても広かった。子どもの足で歩くのはかなりしんどいだろう。だけど今はもう僕もありすも大きくなっている。大人ではないかもしれないけれど、かつてのような子どもでもない。
僕達はもう十分に大きくなっていて、思っていたよりもすぐにたどり着きそうだった。
「もう少しですね」
ありすは言いながら振り返ろうとする。
その瞬間、何かにつまづいたようで途端にバランスを崩して倒れかける。
「わ、わわっ」
慌てた声を漏らすが、しかしどこにも捕まるようなところはない。
僕はすぐに手を差しのばして、ありすを支えようと手を伸ばす。
ありすは僕のその手をつかんで、なんとかバランスをとっていた。
「えへへ。ありがとうございます。転んじゃうところでした」
「どういたしまして」
僕は礼を返すと、それから手を離そうとしてしかし離せなかった。
ありすがしっかりと僕の手を握っていたままだったから。
「……また転んじゃうと危ないから、このまま握っていてもいいですか?」
「わかった」
ありすの言葉に僕はすぐに頷いていた。
転んでしまうと危ないから。
そんな言葉で言い訳に過ぎない事は僕にもわかっていた。
そして僕自身も離したくないと思っていた。
触れてしまった手は温もりが伝う。僕とありすの体温が一つに混ざり合うかのような気がしていた。
このまま手をつないでいたい。そう願っていた。
手をつないだまま歩いていた。しばらく進んでいった時、不意にありすが僕の事を呼ぶ。
「謙人さん」
「なに、ありす」
「これって、デートでしょうか?」
突然の問いに僕は一瞬面食らうものの、すぐにまっすぐに答える。
「そうだね。デートだよ」
「だったら。私と謙人さんは……その。彼氏彼女になったと思っていいんでしょうか」
ありすの問いに少しだけ答えに詰まる。
一般的な定義でいえばどうなのだろうか。恋人同士になったと思っていいのだろうか。
特に告白もしていない。はっきりした形を作ってはいない。
それではいけない気がした。
僕は握った手をいちど離してありすへと正面に向き直す。
「ありす」
「は、はいっ」
ありすは僕から何を言われるのかと、少しおびえているようだった。
もしかしたら違うと答えられるのを恐れているのだろうか。
もちろんそんなことは言わない。僕はまっすぐにありすを見つめ、そしてもういちど手を差し出す。
「僕はたぶん初めてあったあの時から君に恋をしていたんだと思う。僕は君が好きです。だから僕と付き合って下さい」
「は、はいっ。私でよかったら……」
ありすが答える。
「僕はありすじゃなきゃ嫌なんだ。ありすだからそうしたい」
「はい……」
ありすは涙目になりながらも僕の手を取る。
手のさきのぬくもりが僕の心も温かく変えていく。
曖昧だった二人の関係をはっきりと形づけた瞬間だった。
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