[G]人魚の怪
──眠った先の「無かった」話。
漫画を読んでいた。
単行本の表紙には極彩色の化け物と対峙する主人公が描かれている。主人公は素直で心優しい中学生の男子だった。仲間は主人公を含めて五人。ビビリの男子、口数は少ないが強い美人女子、民俗学に詳しい綺麗な副担任と、頭が良くて凛々しいイケメン担任。
基本は学園モノのコミカルなゴーストバスター系で、学校の怪事件を解決したり修学旅行での怪異襲撃を見事返り討ちにしたりと活躍する五人の物語だ。
少しグロい絵もあるが面白かったのでどんどんと読みすすめ、最新巻に手を伸ばした。
彼等は夜の学校に集まって対策を立てていた。玄関ホールに結界を仕込んだ茣蓙が敷かれ、各々胡座をかいて武器を手入れしている。
唐突な悲鳴。
ビビリの声だった。安全な茣蓙から出て、頭を抱え取り乱している。今度の敵は今までのようにはいかない、今度こそ負けるかも知れない、そんな事を言いながら泣き叫んでいた。
主人公が立ち上がり、グイ、とビビリを引き寄せる。
夜にも拘らず白背景でふわふわと点描の円が飛ぶ中、引きで二人のキスシーンが描かれた。ほとんど1ページ、フルで使われている。ビビリの目が驚きに見開かれるコマが後に続く。
これまでも何回か、少女漫画のようなキスシーンが挟まれることがあった。主人公の家庭ではフレンチキスが挨拶、という設定があり、怪異に怯えたキャラを宥めたり慰めたりするシーンでほぼ毎回のようにキスしていた。
しかし意外だった。一番近しい割に、ビビリとのキスシーンはこれまで一度もなかったのだ。
呆気に取られるビビリを抱きしめ、慈母の如くヨシヨシとあやす主人公。無口女子と副担任は苦笑いしつつ(またか……)という丸吹き出しを出していたが、担任だけが青褪めた顔で冷や汗をかき始めた。
「ちょっと待て」
不意に近くで声がした。読んでいる漫画の中では、担任が同じ台詞で仲間に呼び掛けている。
周囲の様子がおかしい。自室にしては明らかに暗く、床にはカーペットではなく茣蓙が敷かれていた。周囲を確認しようにも、漫画から目が離せない。ページを捲る。玄関ホール全体を俯瞰したコマの端には、茣蓙に体育座りをして漫画を読む人影があった。
読み進めるのをやめられない。
「俺は初めて見るが、こいつ、これまでにもこんな風にやたらちゅっちゅしてたり……するか……?」
担任の問いかけに無口女子が首肯し、副担任は「彼、ナチュラルボーンキス魔なんですよ」とクスクス笑う。漫画に描かれたままの言葉が聞こえた。恐らく顔を上げれば、そこには彼等が居るのだろう。
「……副担任」
担任が副担任を見る。
「人魚の増え方、知ってるか」
その一言で副担任の表情が凍りついた。不穏な空気を察した無口女子は顔を顰め、ビビリは主人公の腕の中から顔だけを担任に向けて「……え?」と間抜けな声で呟いた。
「……こいつらに分かるように説明してやってくれ」
担任に促され、副担任が簡単に説明する。
人魚とは、元来水中の怪異である。不死や長命とされる伝説が多く、美しい歌声で人をおびき寄せ喰らうとも言われる。
人間社会にも、その亜種が潜んでいる。
悪さをする怪異ではない。人間より少し長命で、人間より少し水場を好み、人間より少しタフなだけの存在である。
人魚は『増える』。
人魚の唇の一部は鋭くなっており、キスされると呪いを流し込まれる。
人魚に成ってしまう呪いだ。
適応力がある人間はすぐに人魚になるが、無い場合は人型から徐々に変化していく。頭が上下半分ずつに裂けたり、胴から真っ二つになったりと個体差はあるが、確実に異形へと変容する。いくつかにバラけた体は血塗れの骨や筋、赤黒い鱗の生えた緒(お)で繋がっている。最終的には血と鱗に塗れたおぞましい生き物になり果てる。
人魚は「その人が人魚であると知っている、或いは人魚かもしれないと疑う」人以外には人間に見える。
一度気付いてしまうと、『それ』は人間よりも多い、かも知れない。
説明が終わり、その場はしんと静まり返る。気付かなければ良かった、と誰もが思っていた。玄関ホールには大きな鏡があったが、夜の鏡は怪異退治に不都合なので暗幕で被ってある。誰も暗幕を捲る気にはなれなかったし、仲間の変わり果てた姿を凝視する気にもなれなかった。
ビビリだけは慌てて主人公から離れ、中庭へ飛び出した。玄関ホールの大鏡では他の仲間の目にも入ってしまうと気を遣ったのだ。彼は池を水鏡にして自分を確認したが、適応力が低かったらしくまだ人型だった。
そこからの主役は担任である。
これまでの冒険で主人公とのキスの機会があったキャラを次々と挙げていった。モブのような立ち位置の学生キャラから始まり、怪異退治に立ち会ったキャラクターほぼ全滅している。
担任は、修学旅行の襲撃で主人公が偶々隣になった部屋へ避難していた事に触れる。そこでも人魚が増えたのでは、どこの誰とも知らない人を巻き込んだのでは、とゾッとしていると、その時同行していたビビリが小さく悲鳴を上げて口を抑えた。目には絶望の色を浮かべている。
どうした、と担任に問われたビビリは、ぽつりぽつりと小声で応えた。
避難先の部屋で幼い子どもが眠れず愚図っていたので、主人公がおやすみのキスをしていたらしい。
冷静に考えれば見ず知らずの方の部屋に忍び込んでお子さんにチューしちゃう男子のほうがホラーなのでは、と私は思ったが、漫画の中では人魚の姿でシーンの描き直しがされるので恐ろしくて仕方なかった。その子は適正があった模様で、血の涙を流す頭と体がヌメった緒一本で繋がる化物にズルンと早変わりした。
そうやって時間をかけつつ、これまでの事件をざっくり回想し終えた。仲間のうちで唯一人間だったのは、背の高い担任だけだった。
担任は意を決して全員の姿を直視する。漫画のページには本来の姿──人魚としてのグロテスクな姿──が一人ずつ詳細に描かれた。女性陣は二人とも美しい外見なのも相俟って、覇気のない瞳が余計におぞましく見えた。
担任が話す最中、主人公は何もせずにずっとニコニコと佇んでいた。異形の身体をうねらせ、ただこちらに微笑みかけている。只々不気味だった。
人魚になっても自我はそのままである。今後についての話し合いには、女性陣二人も真剣な顔で参加した。ビビリはずっと目を伏せて震えているが、話自体はきちんと聞いているようでコクリコクリと相槌を打っていた。
先述の通り、人魚はグロいだけで害はない。気付かなければ一生気付かない。
陸にいる中途半端な形の人魚は全てが呪いの産物である。人魚を喰らえば命が存える、という伝承はこの呪いが元になっている。大元の人魚の血から血清を作れば解呪できるという。
担任は蚊帳の外の主人公に声を掛けた。何故人魚を増やしているのか、血清の在り処や人魚の所在を知らないか、問い掛けても主人公からは見当違いの返事しか返ってこなかった。会話が噛み合わない。主人公は学校に潜む大型の怪異の対策を練っているのだと終始勘違いしていた。
副担任が気付いて溜息をつく。
「……主人公君は、恐らく健忘症です。きっと全てに気付いているけれど、あまりにおぞましくて事実を捻じ曲げている。自分の正体も、覚えていられないのでしょう」
『漫画を読む私』はこの辺りで恐怖がピークに達する。肩で息をしながらもページを捲ろうとする。自分の手が何だか人でないような気がするけど、続きを読まないといけない。
──続きを。続きを。
がくがく震える手は、「そんなに辛いなら今読まなくてもいいんじゃない?」という気楽な声で一旦止まる。しかし私は知っている。
振り向くとそこには『居る』のだ。
それと目を合わせてはいけない。
先を読むか振り向くか迷っていると、急に漫画から放たれていた圧が消えた。固定されていた首が自由になったはずみで、ふと顔を上げる。上げてしまった。
予想通りそこは漫画に描かれた玄関ホールで、漫画の世界の彼らが──。
全員、じっとこちらを見つめていた。
──起床。
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