婚約破棄は流行りの小説のように
金色の麦畑
第1話 メンティス伯爵家の兄妹
さて、胸一杯に深く大きくに息を吸って…
「お兄様!部屋に籠もるのもいい加減にして出てきてください!お兄様が大切にしている侍従のマイケルの顔色がいつも以上に悪くなってますよ!」
お兄様の部屋のドアを淑女らしからぬ叩き続けるという行動を取りながら、これまた淑女らしからぬ大きな声で呼び続けているとガチャリと鍵がはずされる音が聞こえた。
その瞬間を逃すことなく私の横で待ち構えていたマイケルが勢い良くドアを引いたのだけれど、ドアが開かれる風圧に私がよろけて後ずさらなかったら、おそらくそのドアに引きずられて振り回されたお兄様と衝突していたと思う。
よろけた体を立て直してマイケルを睨みつけたのに、そのマイケルは振り回された末に廊下にゴロンと転がされてしまったお兄様が立ち上がれるように膝を着いて補助をしている。
「アントニウス様、出てきて下さり安心いたしました。よもやヘレンニーナ様の淑女らしからぬ力強い大声でも、聞き取ることが出来ないほど衰弱されているのではないかと心配しておりました」
さりげなく私を
お兄様が研究に没頭して食事を取らないとマイケルも同じように食べなくなるし、お兄様は寝るのも忘れて研究に没頭することを知っているマイケルも同じように寝なくなる。
つまり二人とも同じようにやつれていくものだからお兄様に声をかけるタイミングはマイケルを見ればだいたいわかるし、マイケルも自分の体調から判断して私を呼びに来る。
マイケルより体力がないお兄様の方が衰弱しているのはいつものことだから仕方ない。それは想定の範囲内。
「マイケル……、うん、ごめん」
ボサボサになった短い金髪、私と同じ青い目の下に隈を作った顔で眉を下げ、掠れた声で自分の侍従に謝ったお兄様は今回も限界ギリギリだったらしく、マイケルがニコリと笑って頷くのを確認すると安心したのか支えていた彼にもたれるようにして崩れ落ちた。
スヤスヤと寝息を立て始めたお兄様を両腕で抱え上げたマイケルは額に落ちた黒髪を首を振ってはね上げると、先程開いたドアの隣にある部屋の前で私に赤い目を向け細める。
そしてそのままじっと待ち、言葉を発することなくマイケルはその視線だけで「開けてくださいますよね」と伝えてくる。
主人命の侍従の鬼気迫る様子にため息を我慢した私が隣室のドアを開けると、マイケルは部屋に入りスタスタと抱えているお兄様を奥の寝室へと運んで行く。
おそらくまたいつものようにそのまま二人で睡眠不足を解消するまで寝てしまうのだろう。
細身な割に力持ちなマイケルの背中を廊下から見送り、私が開いたドアを閉めるとお兄様の救出完了を執事に連絡することにした。
「ありがとうございました。料理長にはいつも通り胃に優しい食事の準備をさせておきましょう。
しかし本当に不思議です。あの極限集中状態のアントニウス様でもヘレンニーナ様の呼び掛けだけは聞こえるのですから。毎回お手数をお掛けして申し訳ありません」
「いいのよ。私にも不思議だけどお兄様を助ける手立てがあるだけマシだもの。あの様子だと二人とも起きても明日になると思うから料理長にはそのように伝えたほうがいいわね」
先程マイケルが呼びに来た時、私はテラスで読書をしていた。
しかしその時は晴れていた空には今は雲がかかって来ている。読書の続きは自室に戻ってからすることににした。
「ヘレンニーナ様の読みかけの本はお部屋に運ばせました」
出来る執事が教えてくれる。
うん、さすがです。
我が家に仕えてくれているのはこの執事を筆頭に有能な者が多くて有り難い。
それにしてもお兄様、今回は何の研究をされていたのかしら?
ふと手にした三編みにしたおさげの片方の緩みが気になり、両方のリボンを外して頭を振ればお兄様と同じ金髪が波うって背中に広がった。
あれは確かお父様が仕事が忙しすぎて領地で領主代理をしているお母様に会えないと言って号泣した夕食の後、お兄様にお酒を飲もうと誘った翌日からだったように思うのだけれど。
−−−−−
お父様が夕食の席で仕事のお話をすることはほとんどないのだけれど、あの日は領地から送られてきた食材を使った料理だと説明を受けてホームシックにかかってしまわれたのか、お母様の名前を繰り返し呼びながら料理を口に運ぶお父様の姿にドン引きしてしまっていた。
一口食べてはお母様の名前を呼び、また食べてはお母様の名前を…。
そして空になったお皿に向かって話し始めてしまったのよね。
「私がジャニスに会えないほど忙しいのは腑抜けた若造達の我儘のせいだ。奴らの言葉に間違いは無いとかぬかして肩を持つ親がいるのも信じられん。
こちらがいくら調べて回っても奴らが言うような事実などはありはしないのに!」
ダンッ!とテーブルに拳を振り下ろすお父様。私達より濃い青い目が見開かれて怖いです。
「捨て置かれた令嬢達からの話を聞き、恨めしそうな顔を向けられる私達の身になってみろ!何が『真実の愛』だ!貴族たるもの一度婚約を結んだのであればその義務を全うするべきではないか!
夫婦の愛は共に寄り添い育むことで生まれるものだ。私とジャニスもそうだった。
……うぅっ。…ジャニス…。ジャニスが足りない、ジャニス〜!」
執事がさりげなくお皿を下げたところに顔をお伏せになって号泣し始めたお父様の言いたいことはそれとなく伝わりました。
近頃の風潮とでも言うのでしょうか。
そういった内容の小説が流行っていることは確かだし、実際そういった話をあちらこちらから良く聞くようになっている。
『婚約破棄』
『真実の愛』
『略奪愛』
庶民の女性達が好む内容の小説は売れる。とてもよく売れている。
対象読者は主に女性のはずなのに何故か高位貴族の子息達が次々とその小説のお話のように婚約者を蔑ろにする行動を取るようになってしまった。
高位貴族の子息令嬢は幼少の頃から婚約者を決められる。それはそれぞれの家が他家との繋がりを重視しているからこそ結ばれる家同士の約束。
子供の身勝手な我儘に賛同する親の中には時間の経過とともに情勢が変化したため、家同士の約束を破棄する理由付けとして利用している者もいるのかもしれない。
お父様は法務局の局長を務めている。
増え続ける婚約破棄の理由として提出されたものが正しいものであるかを調査させなくてはならない立場だそうです。
提出された婚約破棄の理由は正当性のあるものから確認のしようもないほど滅茶苦茶なものまであるらしい。
それでもそれら全ての案件確認の為に調査が必要になる。
お忙しくなるのも仕方がないこと。
そんなことを考えていたのだけれど、いつの間にかデザートまで食べ終えていたお父様が同じく食べ終えたお兄様に声をかけたことでそちらに意識を向けた。
「アントニウス、この後酒に付き合え」
お父様はそう言うと壁際に控えていたマイケルにお兄様を担がせ…ええ、本当に肩に担がせて三人一緒に食堂を後にされた。そういえば、ここしばらくお兄様がご自身で歩く姿を見ていないような気がします。
−−−−−
そしてその翌日からお兄様が研究室から出て来なくなってしまった。
きっとお酒の席での会話にお兄様の研究意欲を掻き立てるきっかけとなったものが何かあったのだと思うのだけれど…それが何なのか気になる。
開いた本のページを捲ることなく回想しているとお父様はお帰りが遅くなると執事から連絡が入った。
それならと夕食は簡単に摘んで食べられるものを自室に運んで貰う事にする。
今日中にこの本を読み終えないと明日のお茶会テーマを違えてしまうことになるから、ここはお行儀悪くても食べながら読むことにしよう。
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