第7話 ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム

 終末の自由が、いよいよ最後の息吹と共に選択を我々に架するであろう。『偉大なる死』とも呼ぶべき、神の死んだ世界では、善と悪がせめぎ合う悪魔の胎動を賑わせながら、私個人による不可侵の審判を迫るのである。

さながら世界はまるで私一人の舞台であったかのような孤独の静けさを醸しながら、静かにその時を待つ。私の回答は決まっているのか。

正解と思しき当たりは付けていても、どこかで『偉大なる死』へと足早に駆ける身勝手な足を𠮟りつけて、焦るでもなくゆっくり行こうじゃないかと、まるで予期する終わりを先送りにするような、最後の最後の悪足掻きとも呼ぶべき自堕落を、私は内心期待している。

だが決別を誓ったのだ。『偉大なる死』へと逸る肉体を、止める権利を心は持たない。長年連れ添った相方の、最後の我儘を聞き届けよう。そして薄汚れた世界を一掃し、かつての美しかった人間の居ない――神だけが存し得た原初の世界へと再び戻ろうではないか。

しかしながら皮肉なものである。神に挑戦状を叩き付けた私が神の死を知り、そして終末の混沌の中で神の復活を願うのだから。

私の歩む道程は、決して順風満帆と呼べるものでは無かった。現実も、夢の世界も、どちらにおいても苦難の道であった。

だが何れの世界に於いても、私は向上の歩みを止めた事は無い。誰よりも弱者であったが故に、強者足らんと振舞った。強き者の仮面を被り、ここまでひた走った。

言うなれば、この結末は私の人生に対する集大成である。『偉大なる死』への門扉は開かれたのだ。後はただ、スタープラチナに輝く世界の終点で、私の選択を待ち続ける世界の前に、傲岸不遜の態度で以て臨むだけである。

時は来た。眩いばかりの後光を放ち、天の門番は重厚な門扉の前に立ち塞がり、全てを射貫く双眸で此方を見遣る。だが物怖じしてはいけない。この瞬間の為に、私の全てがあったのだ。勇気に奮える肉体は、ただ還る場所を追い求め此処へ来た。そして私もそれは同じ筈――だった。

全ての理解が脳裏の中で走馬灯のように駆け巡り、そして気紛れに去ってしまう。何かを見つける度に何かを失ってしまう様は、人間一人の容量で抱えられる理解などは、所詮はその程度だと嘲笑う、世界の呪いのようである。

だがしかし、これらの呪いに怯む必要はない。全ての事物は然(さ)に非ず。であれば、この呪いも幻聴のようなもので真実ではない。

 そこでまた、ふと立ち止まる。この躊躇いに似た逡巡の違和感は何であろう。

私は私そのものを疑う事が出来ないという悟りに似た天啓から、世界を委縮させる神の呪縛を解き放った。然に非ずという考えも、認識やモノを断ち切る強固な理の剣であれど、私そのものを分断する威力は無い。

だが果たして、私は本当に、私自体の観測を非ずで否定し得るのだろうか。そもそもが知識として知っている人間と、体験として知っている人間は本質からして違うにも関わらず、私の智慧は非ずを繰り返すばかりで、果たしてそれがどんな境地へと私自身を連れ出してくれるというのか。

天の門番は言葉に窮する私を咎めるでも無く、ただその立ち居振る舞いを注視しているだけである。

無言の、長い時間が過ぎた。されども、私も、天の門番も、世界も、そして神でさえも、この時を急かさない。

もし仮に、真理に到達し得た人間が過去にいたとして、私のように自己欲求の為だけでなく、人類の為に悟りの境地を伝えようとしたとして――一体、どうやってその悟りを言葉に乗せて人に伝えるのだろうか。人はそもそも理解していると誤認し易い生き物である。

例えるなら密林の奥地、とある部族の儀式でバンジージャンプをしなければならないとする。使用する紐は、見るからに不安な蔓を編んだような代物だ。だが私と友人は絶対に飛ばなければならない。

そこで全てを確認し、私大の重さの木でテストして安全性も確認する。事前にチェックを繰り返し、実際に私も飛んで見て確信する。これなら大丈夫だ、と。だが一方の友人が怖がっていて、とても飛べないという。失敗して死ぬのが怖いと泣き叫ぶ。

私はそんな心配はいらない、友人の体重に合わせた木でテストしても安全で、自然の蔓も私達が思っている以上に丈夫であり、万分の一も事故は起きない――この際だから百安全と仮定して、実際に私自身が飛んで見せて、ほら大丈夫だったろうとアピールし、相手も安全性を理解したとする。それじゃあ飛んでごらんよという私に対して、相手は四の五の理由をつけて飛ぼうとしない。そこで私はこう言わざるを得ない。

「お前、ホントウは解っていないだろ」

 知識としての理解と体験としての理解の本質の違いとは、結果としてこれぐらいの差異が生まれて然るべきである。実際にバンジージャンプに尻込む友人に飛んで貰う為に、私が懇切丁寧な説明を口頭で伝えたところで、友人は安全なのが解ったところで、だから何?という話で終わってしまう。

困ったのは、体験で理解し得た私であろうが知識として理解し得た友人であろうが、続く第三者に飛ぶ為の説明を促すとしたら、同じ説明を取らざるを得ないのである。

 物理的な説明でさえこうなのだ。世界の真理を探究するというような抽象的な、ともすると直ぐにぼやけては消えてしまう概念ともなれば尚更である。

人の認識は理解しているよりも遥かに希薄である。全ての物理現象は相互作用の結果でしかなく、それぞれを個別に取り出し区別する事で、存在として認識し得るだけの話で、決して実在しているから存在している訳ではないという事になる。

これを端的に表したものが般若心経の色即是空 空即是色であり、その秀逸な表現に世人は脱帽するのである。

さて、知覚とは経験の集合体に過ぎないが、つまるところ私のような観測者がいて初めて経験は起こる。経験だけでは存在そのものを認識し得ないので、区別をしてきた訳だが――既に述べたように疑う私は例え然に非ずの剣であっても打ち破る事は出来ない鉄壁の盾である。

この砕けぬ真理に対して投げ掛ける言葉は、本当に適切であり、かつ私が理解していると信ずる真理A(しかも錯覚である可能性を否定出来ない)を、伝える相手は誤った真理Bとして受け取ってしまわないか。そしてまた、その真理Bが真理Bであると、どうやって私は理解し得るというのだろうか。

真理Aが真理Bに変わり、そしてまた真理Cに……二転三転と転がり続ける解釈の和。この円環を断ち切る術を、私は神から与えられていない。

依って『偉大なる死』の終末に於いて、私は再び袋小路となる。仮に私自身が真理に到達し得たとしても、それを表現する言葉の理解を、かつて神々を殺した瞬間から我々の口調からは奪い去られ、ただただ言葉遊びに興じる区分の選別者にしか成り得なかったのだ。

我々は、この区分の自由をも放棄するべきなのであろうか。区分を止める事で、世界は確かに全ての存在が消え去り、ただただ追い求めていた原初の実在だけが残るであろう。

だがその実在を、私は区分を止めているばかりに観測する事は不可能なのである!

『偉大なる死』への入口は、確かに終末の世の果てに、依然として虎口を開きながら待っている。だがその牙は、全ての観測者を屠り去る零への回帰でもある。

私は真実と共に、生も死も超越し零へと戻るべきなのであろうか。もう、私に逡巡するだけの区分は無い。天の門番は、実在だけとなった私を天の門扉へと招き入れ、そして神もいない『偉大なる死』への世界に誘ってくれるだろう。

そう、全ては零へ……訪れる全ての融合。私も他者も世界も、全てが混じり合った調和の世界。

そこにはただ死の体験だけがあり、それを観測する事も出来ず、また経験する事も出来ない。

依然として実在し続けるだけの終末の世界で、無常なる孤独の足音だけが響き渡り、そして去り行く昔日に思いを馳せながら、いつしか足音も消えていた。

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