第6話 ザ・グレイトフル・デッド

 『神は死んだ』という有名な一説がある。ドイツの哲人フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の一説であるが、私はニーチェの主張に対して強烈な同意を得た。

世界は私が生み出していた経験の集合体から発する複合概念の知覚に過ぎず、完璧な回答を求め続けた私の終末は神の死んだ世界であった。

いいや、正確には殺された世界と言った方が語弊は少ないであろう。

確かにある一時迄は神が実在していた。弱者の純粋な信奉の中に、確かな安寧と、心僅かの平穏を供していた時代に於いては、神は実在していたのだ。

だが、どこか昔――時代の転換点とも呼ぶべき瞬間から、神と人間の立場は逆転し、神は祭り上げられた偶像へと、偉大なる権威を失墜させてしまう。

失墜の原因たる、諸悪の根源は誰あろう人間なのだから、人間が持つ凶悪な意思――すくなくとも転換点以降の人類に萌した妬みの精神は、神を、そして自らをも冥府へと誘う先導者として機能してしまう。

 夢から覚め、現実世界に目を向けたまえ。神はいったい何処にいる。信心深いと言われるような聖職者の頭上にさえ、神はその慈愛なる運命の糸を垂らしてもいないではないか。

だからと言って、居ない者に縋る哀れなる者を冷笑する権利を、私は有するのだろうか。神の不在の在り方に四苦八苦する様というのは、神を殺した者たちが自らを新たなる知見が開かれた等と大言壮語する宗主と何ら変わりあるまい。

神が概念と化した世界の中で、私達は神を新たに創造しようとする。これではあべこべ、まるで逆転現象であろう。

神が実在した古代では――いつからであろう『自己』を獲得するまでは、神は確かに実在したのにユダの裏切りという人類の悪意が、神そのものへの妬みとなって現世に表出し、イエスキリストの心臓を貫いてしまった。

その瞬間に神は死に絶え、続く西暦がそのまま『神の存在しない世界』へと変容してしまった。神の居ない世界――それは神を創造しようと苦心する世界であり、また神を利用しようとする悪徳の世界でもある。人類は自らの業を償おうとする一方で、同時に神をも軽侮の対象としているのだ。

善悪の彼岸と言うものがまだ存し得なかった時代、そこには神のみがいて人間は居なかった。故に世界は美しかった。

だが神が死んだ瞬間から、世界は善悪渦巻く魔境となった。性善説と性悪説、どちらが正しいか等は私には解らないが――少なくとも、歴史を振り返ると、人間はそのどちらの感覚も等しく有する、自己矛盾を孕んだ存在と見るのが妥当であろう。

そしてまた堕落の道を突き進む人類にして、善悪の天秤は日々揺れ続けている。今尚止む事無く、悪の重しを増し続ける。

私にとっての善とは、自らの満足を正当化し得る為の偽善であった。誰かの為に、なんて烏滸がましくも口幅ったい事由を述べながら、自らの善行に心酔する有様なのである。これが果たして善等と誰が思うであろうか。

では自らの満足に依らない善とはいったい何であろうかと考えるに、凡人故の悲しさ哉、安易に思い付くのは滅私奉公のキチガイ染みた献身であった。

親であれば子に対して滅私の献身もするであろう。だが隣人に対して同様の愛情を注ぐべきとは、いったいどんな狂気の押し付けか。

俗に見る善意とは『個』を殺して無償の愛を誰かに認めて貰う事だとでも言うのだろうか。こんなものが善であったら、世界はとっくに偽善に包まれた私欲の世界で、混乱の極みに達しているであろう。

マタイの福音書で有名な『右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ』の真意をここで改めて議論するのは別の機会に譲るとしても、額面通りに受け取るとしたら、なんと弱者の優越感をくすぐるだけの、怨恨蛆虫の如く蠢動する気味悪い思想ではないか。

こんなものは、強者に反抗する気概を失った弱者の精神勝利そのもので、自らの心を偽り勝手に勝ち名乗りを挙げながら、陳腐な自尊心をギリギリ保とうと画策する小細工に過ぎない。

では本当の善とは何なのか?いいや、本当の善とは何だったのか?

神が死ぬ以前の、まだ存在し得た世界に於ける善とは、つまり『力』である。

強き事は良い事だ。全てを欲するというと、現代のひ弱な感性からすると業突張りの、身の程知らずに映るであろう。

金が欲しい。権力が欲しい。美しい男・女が欲しい。

これ等を望む事は、果たして悪い事であろうか。いいや、全く悪くない。

よくよく考えずとも、誰だって金は欲しい。権力があって周りが平身低頭ペコペコするなら面白い。美しき異性を従えるというのも甚だ愉快である。

これ等を欲するのは、本来は誰もが持つ願望で有り、そして『力』を望む求心力である。

だが実際には多くの人間が前述の力を獲得するには至らない。弱者だからだ。

力の渇望は癒される事無く夢へと変わり、粗悪な代替品で自らの欲求を疑似的に満たしているところに、強者が現れ私の夢を謳歌しているとしたら――理不尽な不愉快に、私を含む多くの弱者は耐えられない。

そうすると、弱者の中で欺瞞が起きる。『力』ばかりを追い求めて浅ましい奴だ、快楽に耽るのは人間性が貧しい故だ、等々。

この際全ての唾棄すべき弱者の言い分に、強者の鉄槌を振り下ろそう。余計なお世話である、と。

妬み、嫉みで他人の足を引っ張るばかりに執着し、自らのカスみたいな人生に目を背け続けるのは、成程楽であろう。そしてまた、欺瞞の余生は程々に刺激的で、いつでも自分は傍観者で、いざとなれば精神勝利で偽りの善の立場に逃げ帰る事が出来て、これほど気楽な人生の選択はない。

自由の刑に処せられた、人類の選択の連続の中で、弱者の卑屈な精神勝利は、いつでも退路を確保する逃げの一手であり、ただただ人生に立ち向かう勇気を失った死に体の老犬である。

であれば慈愛に満ちた体を成す『偽りの死』へと向かう弱者は、今生では無く来世に期待するしかないではないか。

だが弱者よ、死ぬ前に考えてもみるがよい。期待している来世などが必ず訪れるという保証は、一体全体何処に在ると言うのか。数々の思索に悩んだ私には、こんなご都合主義に『理』を与える事は残念ながら出来そうもない。

そうすると我々は、ある一つの選択を迫られる。『神の死んだ世界』に於いて、加速度的に堕落の道を堕ち行く人類にして、その終末をどのように生きていくのかである。

強者として孤独の道を選び死ぬのか、はたまた弱者の余生を謙遜の美と偽りながら、生に対してただただ執着するのか、である。

さぁ、世界の挑戦を続けた私の旅にも、愈々終わりが見えてきた。

白銀に輝く世界は、実は現実と夢の垣根を超えた終末であり、そして私は――いいや、私に於いての真理の探究は、終末との決着にのみ見出す事が出来るのである。

善悪の彼岸を乗り越えて、私は生死の選択を声高に歌いながら、ただただ神の死について嘆き、そしてまた賛美する。何故ならこの世界に於いては、私が死ぬのではなく、私の膝元で神が死ぬのだから。

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