第3話 ザ・フール

 人間は、堕ち抜くには弱すぎる生き物である。そしてまた、堕ち切る手段を持つ唯一の生き物でもある。

猫に堕落はない。犬に堕落もない。人間だけが堕落するのだ。

世界が終末に近づいた時、人間の堕落は限界に達する。だが、今世を見渡してみても、堕落の全容は依然として見えない。

その高すぎる山脈を前にして、雲は張り、雨が視界を遮り、その全体像を隠すのである。とすると、人類はまだまだ堕落し切っていないのではという疑念が起こる。背徳の町、ソドムとゴモラを焼き尽くしたメギドの火が、今にも天翔ける火矢となって私達の眼前に降り注がんとする緊迫感を匂わせながら、それでもまだ神々の審判は下されず、故に人類の堕落も極まっていないという事になる。

とうに分水嶺を超え、破滅の振り子は過多として揺れ動いているにも関わらず、人間はまだ堕落し切る事が出来ないのだろうか。

よく昔は良かったとか、昨今の事情を鑑みて人間性が乏しくなったとか、とかく現代に対して悪口を浴びせる習慣は、元来人間の本質であり、また頼まれた訳でもないのに代々受け継ぐ因果な業でもある。陰口悪口は心の快癒である。だが言霊を信ずるならば、自らを窮状に導く諸刃の剣足り得る。まさに痛み分けの様相だ。

快楽に耽る様を見て、一概に堕落したと断ずるのは早計であろう。快楽の追求が堕落であれば、苦難の追求が向上という事になるが、こんな与太話に耳を傾ける者などいないと信じたい。

人は求めて楽をする生き物なのだ。目的地まで急ぐのに、電車を遠慮し、車を使わず、自転車に乗るのも億劫と感じ、歩いて向かう者がいたら馬鹿である。

素直に電車なり車なり、自転車なり使うのが普通である。

馬鹿を非難する一方で、社会に蔓延る馬鹿らしい悪習に際して唯々諾々と従っているのなら、馬鹿だ馬鹿だと囃して騒ぎつつ現状から目を背ける私のような連中も、同じく馬鹿であろう。

人間は自らの馬鹿らしさというものに気付けないだけなのだ。利と楽は近しい関係にあるのだから、楽を求めて堕落とするのは破綻している。

ではどうして堕落を堕落と定義せしめるか。

私にとっての人間の堕落とは、考える事を止めた時に始まる。考える事を止めるにつれ、徐々に人間味は薄れ希薄になり、終には存在自体を世界の中に、ただ魂の抜けた残骸として肉体だけが残るのである。

だが魂の抜けた残骸は、ただただ時世の移ろいに見惚れるだけで良いのであって、実に楽である。

私は一人の馬鹿であった。いいや、今も尚馬鹿である事に変わりはないが、それだけに馬鹿の境地に幾度となく肉薄しているのである。故に堕落の深淵を知る馬鹿の一人でもあると自負している。

馬鹿から見る世界は、ただひたすらに美しかった。

子供の頃に思い描いていた、世界は夢の国であるかのような稚拙な妄想が、そのまま延長線上に現れたようである。馬鹿にしてみれば悪口も、失態も、失恋も、戦争でさえも、ただただ美しい喜劇なのである。

何故なら人間は考える事を止めた時、美しいものだけが残るからだ。だが同時に、そこに人間がいなくなる。人間の居ない世界、それこそが完璧な調和の保たれた、堕落しきった世界であろう。

それ故に、一億総堕落社会に突入したばかりの現代でも、まだまだ至境の入口に足を踏み入れたに過ぎず、人類の堕落の完成はまだまだ難航し、先行き不安な状態と言える。

さて、私達は堕落し過ぎるには弱すぎる存在で、いつか浮上する時を窺っていようにも、現状を鑑みるにその時期を期待するには余りに長久の時間を要し、かつ私の思考が止まない内に訪れる保証もないので、湖底にて天機を睨み続ける臥竜の、従順なまでの枷は一旦外す必要がある。

私はただただ世界の真理を追い求める求道者であり、また堕落の道に希望を見出した馬鹿でもある。

迷い無き決断の日々であったかと問われれば、無論違う。寧ろ迷い悪戦苦闘する日々であった。だが堕落に縋る尽力虚しく、私の模索はどこまでも蟷螂の斧でしかない。

ことに無力を痛感すると、心に萌していた探求の精神も摘み取られそうになる。

結局のところ私が求める白銀の世界に於ける、夢の真理などは依然として誰の興味や歓心を買う訳でもなく、あくまで自己完結にしかならないのだから、世界が私に突き付ける無常と、他者が面白半分に横やりを挿む隙を与えるばかりで、神々の領域に踏み込んだ先の話などは、途方もない逃避行であろう。

私にとっての真理は私という観測者を媒介にして変質し、上手い事適合するよう模った張子の虎に過ぎない。真実はいつも無常なりと言うが、それぞれがそれぞれの真理に自然と帰依して行くのであれば、私の努力等は押し寄せるさざ波の泡沫に過ぎず、水滴で以て岩を穿つような、在るか無しかも解らない微細な努力という事になる。

この一事は私の心胆を寒からしめるに充分であった。馬鹿は思考を停止する。私は馬鹿を嘲りながら、それでいて自身が馬鹿である事を否定する悲しき演者である。

気付けば私のパフォーマンスはある種の宗教性を帯び始め、何やら解らぬ熱狂と、それでいて得体の知れない不気味さだけが内在する案山子となっていた。

魂はいつしか私の傍を離れ、幽体離脱を起こしているかのような幻覚を起こす。

自分でありながら他人事に感じるというのは、まるで『個』の垣根を取り払った、堕落しきった世界そのものを構成する一要素に成り下がったという事になる。私は努めて堕落を推した。だが堕落の道程は余りに遠く、その頂きたるや遠望が過ぎて何も見えない盲の道であった。

故に別の方法を模索し、そして絶望した。だが堕落の悪夢は私を見限ってはいなかったのだ。絶望に瀕し、思考そのものを停止しかけた刹那の間隙を突いて、その毒牙を狡猾にも仕込んだのである。

堕落の抱擁は、私に一時の夢を魅せた。そしてその夢は、私も、そして他者をも認めずに、ただその中心軸に居座り続けるだけの疫病神であった。

この狭量な世界の神に、私は似非の烙印を押してやる。私の到達すべき世界の真理は、私や他者を排斥する不寛容なものではない。

いいや、そんな真理も良いんじゃないか等と宣う詭弁に貸してやる耳を、私は生憎持ち合わせていない。価値観なんてものは人それぞれとする相対主義の主張は、余りに身も蓋もない暴論であろう。

二千年以上も昔の哲学者プロタゴラスが唱えた『人間は万物の尺度である』とは言い得て妙だが、言葉巧みな者の戯言である。こんなものは議論の技巧の術であって、真理探究を阻害する悪手であろう。

故に私は常に撥ね退ける。さながら暴れ馬のように、躍動する情動に従いながら、頭ごなしに圧し付けようとする権威に対して、孤軍奮闘の生き様を見せる。

私は弱い。だが、弱いからこそ堕落し切る権利があり、同時に価値がある。強くては堕落し切れないのだ。とはいえ元来人間の本質は弱性であるから、私は強者であると嘯く暇があるなら、堕落の底へと身を投げ出してみても良いのかもしれない。

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