008
部屋に居ては廊下の血の匂いに刺激される。
すっきりしない気持ちのまま、彼はふらりと外へ出た。門番を誑かすのは容易い。
さて、折角外へ出たのだ。城の中ではないのだし、どこかで腹を満たしてしまおう。
どうせなら美人がいい。勿論女限定だ。限界的食糧難でもないのだから男なんて好んで喰わない。
しかし流石に煌天宮の夜中に一人歩きをしている女などいない。
ふらふらと街中を歩き回っていると、目の前に陰が湧いて出た。
またか。
それは先刻と同様に、ゆらゆらと揺れながら後を付けて来る。
無視して歩き続けた。
触れればまた女の容になるのだろうか。そうなると喋ったり触れてきたりするので好ましくない。
しかもこの陰は彼の事を『主人』と呼んだ。触れてしまった事で何らかの契約が交わされてしまったのだろうか。
その辺りも訊いてみない事には解らない。
「―――はぁ」
歩を止め、指先で陰に触れる。先刻のように一瞬では変化しなかった。それでもすぐに陰はぼやけて、赤い瞳の少女が現れた。
「マス…ター…」
今度は離さないとばかりに、ぎゅうっと足にしがみ付かれる。
「ぁー…、ちょい待ち。離れぇ」
少女は力なく首を振る。泣きそうな顔で彼を見上げている。
「何やねんなもー…。えぇから、解った、逃げへんから」
疑り深い顔で彼を見詰め、少女は恐る恐るその手を離した。
「…マスター」
「おまえ、それしか言わんな。けど、俺はおまえの主人と違う。人違いや。残念やったな」
少女はきょとんとし、彼の手をとった。そして、まるで秘密を告げるように囁いた。
「あたし、シェレスキア」
「………知らんわ」
駄目だ、会話にならない。
恐らくそもそもこの陰は、ヒトの容を取っただけのものだ。会話を望んだ自分が愚かだったのだろう。
「シェレスキア」
「知らんて」
「シェレスキア!」
「あぁもう解った!んでなんやねん!なんで後付いて来るん」
何故そんな事を訊かれるのか解らない、という様子でシェレスキアは彼を指した。
「マスター」
「だから違うって…」
「マスター、探してた。あたし、見つけた。もう大丈夫」
これは、もう駄目だ。完全に会話にならない。
彼はいよいよ、どうやってこの厄介な女を撒こうかと考え始めた。
どうにも、美味しそうではない。そもそもこれはただの陰だ。喰らったところで身にはなるまい。
「…きた…」
突然、少女の様子が変わった。
儚げな…朧な空気が一変、鋭く尖った物になる。
その変化に少しだけ眉を潜め、気配を探る。
成程。
確かに何かが近付いている。
不吉と形容して差し支えない、悪意。害意は無い様に思えるが、それは間違いなく悪意だった。
「……なんやねん、今日は…」
さっさとこの場を去るに限る。
素早く判断して、少女を置き去る勢いでその場を離れる事にした。
ところが。
「―――!?」
何が起こったか、彼にはさっぱり解らなかった。
駆け出そうとした足から力が抜けて、意識が霞む。
後ろの方で、女のけたたましい叫び声が聞こえる。
堅い足音。
男の陰。
「なん…、や……おまえ………」
崩れ往く意識を留める術無く、彼は闇に落ちた。
次に目が覚めた時には、まるで世界が変わってしまった様だった。
感覚が遠く、微かに靄が掛かった様にはっきりしない。
「………っ、」
頭を振って辺りを見回す。
「なんや、此処…」
見知らぬ空間。オレンジ色に照らされた薄暗い部屋。
「マスタァ!」
けたたましい声に振り向くと、檻にしがみ付く女がいた。
檻…。
少女が囚われている訳ではない。入っているのは彼の方だ。
自分が捕らえられる理由が思い付かず、思い切り舌打ちして再び床に倒れた。
両手は縛られ、首にも鎖が付けられている。せめて両手を縛るこの鎖が縄だったら抜けられたのだが。
「っ、」
細く見える銀のチェーンは法力の沁み込んだ特殊な金属で出来ているらしい。いくら力を込めても壊れはしない。
「目が覚めたか、人喰」
「誰や、おまえ…」
若干呂律が回らない。妙な薬でも使われたか…。
目の前には濃紺のスーツの男が一人。面白そうに彼を見下していた。
「成程、その瞳の色。カラも面白い事をしたものだ。いくら人型とは言え、人喰と契るとはね」
「…ぁ?」
「カラとは云え、ヒトだったという事かな。キレイなものに騙された」
男は酔ったような上機嫌で、意味の解らない言葉を紡いでいる。
「何言うとるか解らんけど、その人喰捕まえて、どうするつもりや」
ぞくぞくと嫌な予感が這い上がる。
「安心し給え、殺すつもりなど毛頭ないよ。私も、キレイなものと珍しいものは好きだから」
「…珍獣扱いかい。別に珍しくもないやろ」
「君は自分の価値が解っていないようだ。その瞳の色。昔カラと契ったとされる一族は、とうの昔に滅びたと言われているのに。その生き残り…しかも、シェレスキアがマスターに選ぶ程の力を持ってる」
グールの眉根が激しく寄る。
ただ必死に檻へと手を伸ばしているこの少女が何者なのかとか、この男が何をしたいのかとか、働きの弱い今の脳では処理が追いつかない。
男がグールの首に絡みつく鎖を引っ張りあげる。
「ぐ…ッ」
「私が、これから君のマスターだ。イイコにしていれば、可愛がってあげるよ」
鎖が首に食い込んで気管を圧迫する。一気に頭に血が昇って、意識が一層遠ざかる。
「マスタァ!!」
「シェレスキアも。主人が大事なら、君は大人しく私の言う事を聞いていろ」
唐突に掴んでいた鎖を放す。
「っぐ…」
上手く受身も取れずに顔から地に落ちた。
顔の痛みを感じる余裕もなく、解放された気道が酸素を欲して咳き込む。
男はその様を見下し嗤ってから、何処かへと消えて行った。
「マスター、マスターだいじょうぶ、しっかり」
「…ぅるさい。俺は、おまえのマスター違うて…言うとるやろ…。ぁー、もう…ワケ解らん」
低く呟いて、グールは再び意識を手放した。
「…ビンゴだし。なんかエロいし」
ガシガシと頭を掻きながら起床する。
男の顔がはっきり見れた。間違いなくセルバネラ候だ。という事は、あの儚げな少女…シェレスキアがケセドの国家守護獣という事だ。
今にも消えそうな玄獣は、唯一のエサを質にとられて操られている。
「しかし…」
最も重要な部分が記録にないという大問題。
まさか眠らされての誘拐とは…。今日には解決と意気込んでいた分落胆が大きい。
展開からいって、グールに危害が及ぶ事は…いや、殺されるなどの生命的な危機が訪れる可能性は低そうだ。精神的な苦痛は大きそうだが、そこは迷惑料としてもう暫し我慢して貰おう。
朝食へ向かうとaがばっちりスタンバっていた。
「グールの場所、何処だった?」
わくわくしている。わかりませんでしたとか言い出し難い。とはいえ解らない物は解らない。
仕方なくKは見た内容をありのまま話した。
aは目に見えて落胆したが、シールは至って冷静だ。心強い。
「ヴァイスが今日闇市に踏み込むらしいぞ。恐らくシェレスキアとセルバネラ候もそこに居る。セルバネラ候が捕えているのが確実なら、捕まえて吐かせれば解る事だ」
「ああ、そりゃそうね。じゃあそのガサ入れご一緒しようかしら」
「じゃああたしも…!」
テンションを上げたaをKが制止する。
「a子にはやって欲しい事があります」
「えー…何?」
セルバネラ候が闇市に居合わせなかった場合、ガサ入れの情報を受けて手を打たれては困るのだ。
「多分オーサマも某か手を打ってるとは思うけど、a子もゾランアルド公邸宅を見張って欲しい」
場所が場所だけにKよりaが適任だ。
「ううう…絶対Kの方が楽しそうじゃん…」
泣く泣くながらも、aは了承してくれた。
「って事でオーサマ、ご一緒させて」
朝食後、Kはヴァイスの下へ同行許可を貰いに来た。
「は。いいぜ。十三師団長が居ると何かと楽だからな」
初めに昨日叩いた大口を散々バカにされたが、同行は快諾された。
「まあ出来れば協力を仰ごうと思ってたんだ」
玄獣に関わる事だし、カルキストが居ると心強い…というか便利、という事らしい。
「じゃ、十三師団長はダークと行動してくれ。詳細はダークに任せる」
色々準備があるとかでヴァイスは退室してしまった。
「では、作戦概要を」
残されたダークは机の上に地図を広げて説明を始める。
「場所はこの店。ヴァイス様が正面から客として入ってるので、合図を待って突入です。結構乱暴に突入する事になっているので、捕えられている玄獣達が暴れ出すと思います。十三師団長はそれを抑えて下さい」
Kに求められる仕事はそれだけだ。単純で解り易くて実にいい。
「了解。でもそれ、ウチ居なかったらどうするつもりだったんだろう」
「一応色々考えてたみたいですよ。ブラクザイアも来てましたし」
そういえば来ていた。あれはこういう事だったのか。
「それはちょっと、ウチなしのバージョンも見てみたかったかも」
「いえ、俺達も力尽くの方が楽ですから。十三師団長が確保できて良かったです」
「光栄です」
作戦は夕刻以降だそうなので、それまで暫し時間がある。
そういえば一つ、やっておかねばならない事があった。
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