006
その陰は彼の目の前で進行を止めた。
此方を窺うように揺らめいている。
酷く不気味なのだが、彼にはそれが彼に害を為す者には見えなかった。
陰。
動けば着いて来るが、決して触れては来ない。
ただ後を追ってくるだけで、何かをしてくる気配は無い。
「………」
妙な獣に懐かれた気分だ。
その内、彼は陰に手を伸ばした。
どうせ陰なのだから触れられまい。
しかし指先が陰に触れた途端―
陰は変化した。
くるくると内側に渦を巻き、ぐるぐると黒く凝り固まって、
それは…――少女の姿になった。
驚きで言葉もない。
陰から出来た少女は、苦しそうに蹲りながら彼の裾をしっかりと握った。
「見つけた…マス、ター…」
「マスター…?」
呆然と繰り返す彼に、少女は力ない笑みを向けた。
「マスター、あたしの、主…」
そしてそのまま、縋る様に崩れ伏した。
「…な…、おい?」
なんだか知らないが、こんな怪しいものに関わりたくはない。
その場に少女を残して、彼はその場を後にした。
ノックの音で目が覚めた。
「―…はぃ?」
寝惚けた声で招き入れてみれば、満天だった。
「やぁ、居た居た。報告があるんだ」
ぼんやりと居住まいを正して、満天に反対側のベッドへ腰掛けるよう勧める。
「ん、ありがとう。何か判った?」
「うん。ちょっと頑張ったよ?」
「解った、後で何か用意する。で?」
胸を張る満天に苦笑して先を促す。
「まず…そうだね。結論から言うと、シルエッタに声をかけた人物は特定されました」
「えええええ! 多分無理って言ってたのに!? スゴイ!」
驚きで一気に目が覚めた。その偉業に掛け値なしの賞賛を送る。絶対無理だと思っていたのに。
「うん。だから言ったじゃない、頑張ったって」
「うわぁありがとう。誰?」
「セルバネラの侯爵さん」
訊いた瞬間から自分でも気付いていたのだが、名を聞いた処でKには大体解らない。
「…うん、だれ?」
「地方の侯爵とはいえ、ティアラの末席。一応遠い親戚だからね。城に来てるらしい」
聞いているのかいないのか、満天の説明は微妙に的を外している。
「………うん、さっぱりだけど」
「まあとにかく、何の用だか知らないけどゾランアルド公の所に居るみたいだね。血筋的には一番近いから、まあ妥当かな?」
「いや、解んないけど。とにかくゾラ…ぶふぅ!!」
「うわあ!? Kさん!?」
冷静に対処を心掛けたが、一台詞すら言えずに轟沈。Kは鼻血の海に沈んだ。
「ごめ…、ダイジョーブ。ナンデモナイ。気にしないで」
「あ、そ、そう?」
動揺する満天を余所にKは早くも立ち直す。
「とにかくゾランアルド公の所へ行けば会えるんでしょうか」
ゾランアルド公爵はゼクトゥズにも居城を構えている。出張所の様なものだが、城に来る事も多い彼は大体はその城に滞在している。
「そ、そうだね。でも彼の事だから、約束がないと難しいかな」
「アポ無しお断りか。紹介状を以ってしても?」
オーサマかシールに頼めば事は簡単に進められるだろう。
「それは…いけるかも知れないけど…。大丈夫?」
何を指してかは言うまでもない。
「そうね。内々に、って書いて欲しい所だけど。正式なアポとか居た堪れないし。てゆーか………」
続きを待って首を傾げる満天。
「そのなんちゃら侯爵だけに会う事は可能でしょうか」
「…ぁあ、それが出来たらいいけど」
「うん、無理。ゾランアルド公とか、会ったらウチ失血死しちゃう…」
「え、そこ!?」
「以外の何処!!」
名を聞いただけでこの血の海をつくり出すのだ。
直に面会などしたら保つワケがない。
「まあいいや。いつも通り行こう」
うだうだ考えるのが面倒になり、Kは開き直った。
「というと?」
「え、突撃する。何も正面からお邪魔する必要はないよ」
「あるよ?」
満天の突込みをスルーしてKはやる気満々に胸を張った。
「巧い事そのなんちゃら候にだけ遇える様に忍び込んできます」
「いや、ばれたら大惨事だから。こっちにもとばっちりが…」
セルバネラ候に逢えた時点で侵入がバレる事になるのだが。
「とにかくそのなんちゃら候の顔が見たい。まだ犯人って確証はないんだし、とりあえず顔を見て、出来れば話を聞きに行くだけだからね」
「あああ、聞いてないし。Kさんを止められる人って誰? aさん?」
自分の無力感を噛み締める満天を放って、Kは意気揚々と部屋を出た。
「りゅーちゃーんっ」
中庭に居たリュオウスを捕まえた。
「げっ。オレンジ!」
「相変わらず愛いね。よし、じゃあオネーサンと出掛けようか」
「嫌よ!?」
抵抗をものともせず肩に手を回す。
「まあまあ。そら、れっつ」
そのまま自然な流れで転移に入る。
「いやあぁぁあ、人攫いーっ!!」
悲痛な叫び声だけが中庭に残った。
空を行く緋翼の上で、Kはリュオウスに話しかける。
「ねぇねぇリューちゃん、ティアラの…ティアラの人知ってる?」
「 ? 質問の意図が全く解らないわ」
上空では抵抗のしようもなく、諦めたのかリュオウスはおとなしい。
「えーとね、今、黒紫城に来てる…」
何と言ったか、名前が思い出せなくて困る。人の名前を覚えるのは昔から苦手だ。
「さあ。ティアラから来てる人はそこそこ居るんじゃないかしら? なにせターミナルのお膝元だもの。えらく態度デカイわよ、あそこの人達は」
「そうなの?」
リュオウスは不機嫌気味に吐き捨てる。
「ええ。隅っこの田舎貴族だって、デカイ顔して黒紫城闊歩してるわ」
どうやら彼女にとって彼らはあまり心証が宜しくないらしい。
「へえぇ」
感心するKに、自分の言い方が少し粗かった事を気付かされたらしい。
「それが?」
リュオウスは視線を逸らして先を促した。
「いや、今回の犯人、ティアラの御仁だって噂がね?」
「ふ~ん。出てもおかしくない噂だけど、彼らだって城を脅かすような馬鹿やらないと思うわ」
「まあ、噂ですからね」
出所はKだし。
「それで? これは何処へ向かってるわけ?」
「ん? その御仁の処」
「はああ!?」
直前から発せられた大音響に少し体を逸らせて耐えるK。
「いや、犯人かどうかはっきりして貰おうと思って」
「正面切って聞いて馬鹿正直に答えてくれる訳ないでしょう!? 万一犯人だったらどうするのよ!」
それはKにとってラッキー以外の何物でもない。
「大丈夫大丈夫。リューちゃんに危険は及ばないから。むしろ、ウチが失血死しそうになったら助けてね」
「…なにそれ」
「いや、ゾランアルド公の下に居るらしくて」
「…それで、なんで失血死?」
本気で意味が解らないという表情だ。
Kはテレテレと頭を掻きながら答えた。
「ゾランアルド公…カッコイイよね…」
「鼻血!? あのクソジジイで、鼻血!!?」
ありえない、と大仰に否定するリュオウス。
Kはリュオウスの想い人を思い出して納得する。
「おや…そっか。リューちゃんは童顔好きだものね」
「そういう問題でもないと思うわ」
一旦呼吸を整えて、リュオウスは溜息を吐いた。
「…というか、あのジジイ、よくこんな中途半端な時間に面会を許したわね」
「ん、許されてないよ」
「はあ?」
「だから、許可どころか、行くって言ってないもん」
「ばかじゃないの、会って貰えるわけないじゃない」
呆れた。アポがなければ門前払いだ。
だがそれは彼女には歓迎すべき状況である。早くこの意味不明な状況から解放されたい。
安心しかけた処に、Kが無情な計画を露わにする。
「…だって直接とか喋れないし。だからそっとお邪魔して、そのティアラの田舎貴族にだけ遇えればいいなーって」
「ふ、不法侵入じゃない! 私そんな罪背負うの嫌よ!」
無理やり連れて来られた挙句犯罪の片棒を担がされては堪らない。
「だーかーらー、バレないように協力してね」
「い、や、あ、ああああ! 帰してー!」
渾身の悲鳴も哀しいかな、空の上。
「やだなリューちゃん、人を人攫いの様に…」
「それ以外の何だって言うのよ…!」
抵抗の術もなく、リュオウスは死地へと降り立った。
「此処?」
「…違うんじゃないかしら」
Kが手持ちの地図と辺りをきょろきょろと見比べる。
「いや、確か此処だよ。そんな事言っても騙されないよ?」
「………ち」
位の高いご令嬢にあるまじき舌打ちである。
どういうわけかKは難なく庭に入り込み、堂々と闊歩している。
「さてお目当ての……っと」
ぶふぅ。
「ちょ…ッ!」
庭に面する通路にゾランアルド公を視認して、Kが盛大に噴いた。
――ぶんッ
リュオウスがKの襟を掴んで素早く茂みの陰にぶん投げる。意外と力持ちだ。
「いきなりバレかけてどーすんのよ馬鹿!」
「いちちち…。ぐぅ、一応サンキュ…」
それはそれで盛大な音がした筈だが、不思議な事に誰も此方に気付かない。
「ほら、ジジイと一緒に居る男。貴方が言ってたの彼の事でしょ。拙いんじゃないの」
「………あれが? ふーん。…相変わらずカッケーな…クソ」
最早突っ込む気は起きないらしいリュオウスが、冷静に場を観察する。
「拙いわね…このまま夕食なんじゃないかしら?」
「あ。そういやそんな時間帯ですな。…どうしよう、腹減った」
「そこ!? …もう、帰ったらいいじゃない」
「此処まで来て? …もうちょっと待ってみよう」
暫くすると、廊下での会話を終えて男はゾランアルドと離れた。
「今だね」
歩き出したKに、溜息を一つ吐いてリュオウスも続いた。
「こんばんわ、おにーさん」
「!?、貴方は…?」
突然現れたKに驚くが、邸内に居る者が不法侵入者であるとは思い至らないようだ。警戒しつつも兵を呼ばれる事はなかった。
「ちょっと聞きたい事がありまして。…あ。えーと…城で…黒紫城でお世話になってます、Kと申します」
「ケイ…? あ、…ご高名は兼々。カルキスト殿ですね」
「あ、ええ。…照れるな。…った」
ごん、と後ろからド突かれる。
「どうしました、大丈夫ですか? …それで、話というのは?」
セルバネラ候の反応にリュオウスが首を傾げる。まるで彼女の事が見えていないようだ。
「あ、いや。大した事じゃないんですけど」
構わずKは話を続ける。
「…おにーさん、玄獣…飼ってます?」
キン、と。
一瞬、空気が冷えた気がした。
「まさか。貴方達が最後のカルキストですよ? どうしてそんな事を?」
「いえ、ちょっと気になって。――そんな匂いがしたものですから」
目を眇めて哂う。
「………。玄獣を扱う者として、彼らの気配を感じられるのですか?」
Kはにっこり笑って口を閉ざした。
「あともう一つ。強い煌力を持つお友達が?」
「…なんですって?」
「覚えがないなら私の気の所為でしょう。何処かで貴方に付いちゃったんですね、その――薄黄緑色の羽根」
双方の沈黙。
Kはニヤリと隠し切れない笑みを浮かべて、頭を下げた。
「夜分に失礼。ではこれで」
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