壊れた僕とリゾートバイト、そしてなにより北海道
ババロアババリエ
第1話
2014年。5月1日。15時38分。
春の陽射しがレースカーテン越しに差し込む、理路整然とした白いリビング。
フィンランド製のコップが、ダイニングテーブルのすぐ下で割れていた。
それに目をつぶれば、このリビングはテーマパークに併設されたホテルのように、豊かで清潔な家具の配置、色合い。裏庭の菜園が見える窓は大きく開かれ、レースカーテンが寂しげに揺れていた。
動かなくなったゴキブリが、フローリングの上にいた。庭では見知らぬ大男が、僕を見ていた。
2019年。5月1日。14時24分。
「米田くん、お客さんの迎えに行って来てくれ。もう、あと15分で駅に着くらしい」
オーナーが僕に鍵を渡した。
「了解です」
僕はラズベリーの実った畑をぬけて、駐車場にある水色の軽自動車に乗った。早々にエンジンをかけ、アクセルを踏み、林道を走らせ、好みである80年代の洋楽を車内に流した。
10分ほどすると、駅前のロータリーに着いた。観光地らしく、駅には多くの観光客がいた。時刻は14時40分。大学生や家族はスーツケースやリュックを携え、土産店やバス乗り場周辺で会話に花を咲かせていた。
僕は意味もなく右手でハンドルを握ったまま、左手でスマートフォンのBluetoothをオフにした。その後、車のナビに内蔵されたラジオをつけて、聞きたくもない地元番組を耳に流し入れた。
これはオーナーからの指示だった。
「好きな音楽なんかもあるだろうけどさ、お客さんをここまで案内するときは、ラジオにしてくれ。できればうちの県でしか流れてないものを流してくれよ。あの、そうするとさ、嬉しがるんだよ。異郷に来たんだって。そんな気分になれるんだよ、きっと」
勤務初日、オーナーは僕の皿洗いを見ながらそう言った。
ペンションには一度に来る客の量が少ないため、皿洗いはそれほど苦ではなかった。僕は当時、今回の仕事はアタリだと確信した。アルバイトで初日から嫌な思いをしなかったのは、初めてのことだった。
駅前にある桜の木がいくつか揺れた。駅から中心街へと続く道には、花びらがまばらに落ちていた。落ちた桃色の花や葉は一か所に固めてあった。早朝に商店街の人々が掃除したのだろう。もう満開とはいえない時期だ。
僕は炭酸水のように退屈な味のラジオを聞き流し、まばらな桜を見つめた。すると、考えなくてもいいことが桜と共にフロントガラスへ散ってきた。火花のようだった。
2014年。5月1日。13時37分
僕はまだ高校三年だった。受験期にさしかかり、古典文法のややこしさに対して、思考停止を決め込んだ春のことだった。
部活を2年のうちに辞めた僕は、特にすることもなく。休日は図書館か予備校か、もしくは家で数少ない友人と共にTVゲームをしていた。
ゴールデンウィークとなると学校は休みとなり、逆に予備校はフル稼働となっていた。そのため、僕は一日中その予備校の大教室に一人で座っていた。朝から晩まで校内に居るため、弁当も教室内で食べる。母の作る弁当には厚焼き玉子が入っていて、ウインナーもナゲットも存分に入っていた。海苔が米の上に敷かれてもいた。
毎日、塾で過ごす12時半に、波風のない平凡を僕は感じた。当時は、自分の人生におかしな事件など何一つ起きないと思っていた。だからこそ、ロシア文学を学べる大学を志望していた。ロシアの文学作品ではおかしな事件が多発する。非日常について研究する大学生に、僕はなりたかった。
ところがその日、5月1日、大教室での講義中に講師が最前列の学生を殴った。原因はその学生が携帯ゲームを操作していたからだ。講師は怒りが拳一つではおさまらず、ゲーム機をその生徒から奪い、そして踏みつけた。大学院を出たばかりの、哲学と倫理に詳しい講師だった。まるで自分を自分で縛り上げるような、しわのないスーツに古風な髪型の人間。
しかしその殴るという行為、それは非日常であり、僕にはうれしい出来事だった。講師は学生の顔面を5回も殴り飛ばした。さらに髪を掴んで生徒の頬を机に叩きつけ、数回繰り返し、そうして彼を座ったまま失神させた。
誰も悲鳴は上げず、教室は静まり返っていた。講師は失神した生徒の前で崩れ落ち、泣き喚いていた。小さい、僕はそう思った。
数分後、後列に座っていた一人の男子生徒が、戸惑いつつも立ち上がった。彼は眉目秀麗で、雄々しくもあり、学校生活において苦労をしないような見た目をしていた。
講師は代償として、その男子学生に皆の前で暴行を受けた。講師は黒板にキリストのように磔にされ、こっぴどくボコボコにされた。抵抗をしていたものの、体格などの遺伝子レベルでの力量の差は明らかだった。大勢によるリンチではなく一人に負けていることが、ひどく惨めだった。僕は会ったこともない講師の両親に対して少し、申し訳なさを感じた。
一方で生徒の表情は清々しく、彼は復讐という名の下で、普段は経験できない「暴力」という蜜を舌で転がしているようにも見えた。自信に満ち溢れていた。
黒板には黒ずんだ血液が7回ほど飛び、彼の鼻は目に見えて右方向に傾いた。スーツを脱がされていないことがむしろ残酷だった。ボロボロになった内臓が僕の目には見えた。僕は前から3列目に座っていたため、その私刑がよく見えた。誰も止めなかった。
この事件のおかげで予備校は突如臨時休校となり、午後の授業が全てなくなった。翌日のニュース番組ではその事件が取り上げられていて、講師は内臓破裂と出血性ショックで死んでしまったと報道されていた。大学時代にはその事件が、犯罪心理学の授業で取り上げられもした。
2019年。5月1日。
5分ほどすると、客から電話がかかってきた。駅に着き、東口のコンビニの前で待っている、とのことだ。僕はラジオも車のエンジンもかけたまま、コンビニへ向かった。
幸い、すぐに二人組を見つけることができた。彼らは目立っていた。
「あ、こちらです。どうも。ペンション、フォレストピロウズの者です」僕はそう言った。
客は30代前半のカップルだった。いや、落ち着き具合を見るに、恐らくは夫婦。子供は連れておらず、二人で旅行に来ているようだ。夫は髭を生やし、タイの民族衣装のような服を着ていた。
「どうもー!こんにちはー!」
妻と思しき人物が元気にそう言った。田舎の少女のような出で立ちだった。二人は普段から自由な暮らしをしているのだろう。顔の皺が少なく、眉間が穏やかだ。僕は二人を車へと促した。
「清里にいらっしゃるのは初めてですか?」
僕が言うと、後部座席にいる二人は顔を見合わせた。
「実は先週、仕事で訪れたんです」
と夫が言った。僕を値踏みするような目だった。オーナーの奥さんと似ている。
「そうなんですか。でもなかなか、清里に来る仕事というのは、」
僕が口にすると、妻がミラー越しに僕の目を見て、はっきりと言った。
「編集者なんです、私たち」
自信に満ち溢れていた。夫の方は編集者と言うよりは、作家に見えた。
街道を抜け林道に入ると、夫婦は「おお!」と声を上げた。自然の豊かさに感動しているようだった。取材で清里などを訪れるとはいえ、プライベートだからこそ楽しめるものがあるのだろう。彼らは観光に連れ出された子供のように喜んでいた。
夫婦は林道に入ってからずっと無口だった。僕は運転に集中することができ、数分の間、落ち着くことができた。僕にとって休憩時間とは、誰の会話も視線も僕に向けられていない時間のことだ。
勤務二日目、オーナーの奥さんが持つコミュニケーション能力に難があると気づいた。客には丁寧に接するが、僕やオーナーには文章を作らない。彼女は単語で会話するように努めていた。
僕を指差し、「休憩、3時間」
彼女から教わったことは少ない。あるとすれば、結婚と仕事、そして慣れきった生活からは逃げられないということだ。彼女は聡明な客とのみ会話し、そして休憩時間には読書をしていた。彼女にとっての休憩時間とは、自分が新しい価値観を得るための時間なのだろうか。僕にはそう見えた。
駐車場に車を停めると、オーナーと奥さんが玄関から出てきた。二人ともエプロン姿だった。駐車場付近では、モンシロチョウが数匹舞っていた。
「うわぁー、素敵ー!」
後部座席にいた妻が、おそらくペンションの外観を見たことにより、盛大に拍手をした。たしかにここは落ち着いていて、なおかつ手入れされた美しい自然。また、それらに囲まれ、ペンションを経営している老夫婦は邪のない穏やかな雰囲気。
仕事に精を出す30代の女性にとっては、ここが幸せを体現した場所として、映っているのだろうか。僕は女性の理想というものに思いを馳せた。
ふと、母の顔が頭をよぎる。母はかつて何を望み、そして今何を望んでいるのだろう。母にとってもまた、自然豊かな森の中で愛する者と二人、もしくは子供と共に平和に暮らしていくことが幸せなのだろうか。そのような、一般的でおしとやかな、可愛らしい欲望を胸に秘めた中年女性となったのだろうか、本来は。僕には、分からない。
宿泊客の夫婦は口達者だった。館内に案内する際も、雑誌の編集業務とペンション経営の共通点という話を、僕とオーナー夫婦、とりわけオーナーの奥さんに向けて展開していた。
「僕が思うに、見栄えを良くするということは、中身まで真実である必要があるんです。小綺麗な何かで包んだ嘘はバレますよね。読者にも宿泊客にも、目の肥えた人はいます。特に今はネットがあるので、嘘や手抜きが広まるスピードはえげつない。編集でも手を抜くと作者や読者に必ず、何かしら言われます。
そう、アルバニアに行った時、悪いレビューが1つだけ載っているホテルに泊まったんです。そのレビューには真実がありましたよ。ベッドの下に蜘蛛がうじゃうじゃいるとか、他にもいろんな苦情があって、確かめてみると正解でした。まあ、ビジネスモデルとしては、手抜きを隠して楽に客をもてなすのも、やり手だと思いますけどね。客層にもよりますが。
その分、こちらのペンションは、本当に隅から隅まで完成されていて、レビューも悪いものが一つもないんですよ。ほんと、尊敬します」
楽しかった。値踏みされている感覚は少し鼻についたが、それは故意だったのだろう。彼は自分の纏う雰囲気を理解していた。
それでいて、比較的寡黙な僕とオーナーしかロビーにいない時では、あえて言葉数を減らしていた。客であるのに、まるで運営側の気遣いだ。オーナーの奥さん、彼女がインテリジェントな人や本との会話を人生の目的としている人物だということにも、この宿泊客は気づいていたのかもしれない。
「米田君、だっけ」
16時ごろ、髭を生やした宿泊客の夫が僕に話しかけてきた。ロビーにあるフランス製のソファーに座っていた。彼は窓の向こうにある、いや、窓の輪郭を眺めていた。
窓の付近には陽射しと観葉植物が混在していて、特にアレカヤシが作る影は流動的な絵画のように美しかった。ヨーロッパ製のソファーやラックが、自然を取り入れた部屋にマッチしていた。自然が主人公であり、それに合わせるようにして家具や用具が配置されていた。
「はい、ヨネダと言います」しまった。間違えた。チェックアウトした客の部屋を、ちょうど掃除したところだった。ベッドが乱れていたため、苛立っていた。はい、ヨネダと言います。僕はおそらく、呆れたような声と表情でその言葉を口にしていた。
「君は笑わないね」
これはオーナーからの言葉であり、級友からの言葉でもあり、この夫婦の夫からの言葉でもあり、それゆえに現代社会からの自分への言葉でもあった。
夫は大きな手のひらで僕をソファーの隣に座るよう促した。隣に座ると、夫は辺りを見回した。
「じゃじゃーん。これなんだけど、知ってる?」
「え?」
夫はなんの脈絡もなく、手のひらサイズの黒い球体をジーンズのポケットから取り出した。
「知ってる?」
「いえ、知らないです」
夫はキッチンの方を見た。そこには誰もいない。オーナーと奥さんはその時、窓の向こうで庭の手入れをしていた。
「これ、南極で発見された、ちょっと特殊な鉱物。5年前に地下のオークションで、買ったんだ。300万くらいで」
「はあ」
「やっぱ驚かない。いいねえ」
「はあ」
「で。あのさ、これ使えば、実は宇宙まで行けるんだけど。…って言うと、意味わかんないだろ。でも本当に、新しい世界を見せてくれる。熱いパレードみたいな感じ」
この時、彼の目は充血して濁っていて、恐ろしかった。
「だから、もしよかったら、今からこれ使って部屋で遊ばない?…あの、これはさ、一人でやってもつまんないんだけど。面白い人とやると、けっこうイイんだよね。…どうかな」
気持ちが悪い。素直にそう感じた。彼からは、違う世界の匂いを感じた。
「いえ、僕はいいです。そういうのは」
夫は僕に向き直り、ゆっくりと、舐めるような速度で僕の手をさすった。
「分かった。じゃあ、お金、欲しくない?」
「金、ですか」
「うん。これ使って遊べて、お金ももらえる。最高じゃない?」
夫からは枯れ木と煙草の匂いがした。幼少期に通っていた英会話教室の講師、ユスフ・ガードナーの服の匂いを思い出した。僕は3歳程度の幼少期から、教育環境にだけは恵まれていた。母も父も苦労をして、僕の前に頑丈なレールを敷いてくれた。
2010年。7月15日。20時。
見慣れた安っぽいシャンデリアの下、グラスに注がれたウイスキーの輝き、それは家族団らんの象徴として、僕の記憶に何年もへばりついている。その日も、父は草食動物のように虚ろな目で書類を眺めていた。
「浩介、金のことは一切、気にしなくていいんだぞ。留学も、したかったら言えよ。あれだけど、留学は俺の昔からの夢だったんだ。もちろん、お前が興味ないなら、無理にしろとは言わないけど。とにかく自由にやれよ。やりたい勉強を思いっきりやれ。まだ若いんだから。色々やっといた方がいい」
学校から配られた<姉妹都市留学プログラム>という資料は、両親の目にさぞ魅力的に映ったことだろう。僕は当時、自分が過剰に愛された一人息子だということを、実感していなかった。
「僕は行かないよ」
2019年。5月1日。
夫は僕にその怪しげな黒い球を見せつけて、様々な角度に傾けた。それは鈍く輝いていて、内部にはマグマのような流動体が見えた。たしかに地球で生成されたものとは思えなかった。次第に、魅力的なものに思えてきた。
「今から僕の部屋に来てくれれば、5万、米田君にあげるよ」
彼の言動はあまりにもスムーズだった。
「…分かりました。じゃあ、行きます」
自分の返答に、さほど迷いはなかった。アルコールが脳を乱してはいない。判断力も低下していなければ、自暴自棄にもなっていない。金には多少困っていたが、ペンションからの収入と貯金、それらでなんとか暮らしていけた。
「よし。じゃあ、いこうか」
僕は奇しくも、ミシマとこの男を重ねていた。彼らには底が見えないという共通点があるように思えた。
2017年 6月24日 10時
彼は、ミシマは夢に生きる男だった。穏やかな気性で容姿にも恵まれていた。男女問わず人気があり、それでいてLGBTQに関する活動家でもあった。彼自身ゲイであり、カミングアウトも堂々としていた。彼はインターネットでも現実でも、一般人以上有名人以下程度の知名度を持っていた。
僕と同じ経営学部に属しながらも、彼は哲学科と社会学科のゼミに所属していた。そのことはもちろん大学事務には非公認ではあったが、教授たちは彼の熱意を高く買っていたという。おそらく、哲学科や社会学科に所属する一般の学生よりも数倍優秀であったのだろう。
ディスカッションで僕は彼と同じ班になった。ジェンダー論の授業だった。噂に疎い僕は当時、彼が学内でも相当有名であることを知らず、単なる一学生同士として彼と対峙した。
「君は男らしさと女らしさの強要について、どう思う?さっきからあんまり、発言していないみたいだけど」
そう、ミシマは言った。
「僕は、男でも女でも、自由に生きればいいんじゃないかと思う」
「そうだね。でもさっきタナベさんが言ってくれたように、現状、社会はそれを許してくれないんだ。誰もが善人というわけでもないし、意外とみんな無意識に性の自由を制限してる」
ミシマは僕の目を親しげに見つめて、赤子を諭すようにそう言った。
「ならもう、女性専用車両みたいに、世界を分けちゃえばいいんじゃないのか。男の島を作ったり、女の島を作ったり。そもそも共生なんか考えるから、面倒なんじゃないか?たぶん」
ミシマを除くグループ全員が、嘲笑とも単純な笑いともとれる薄ら笑いを浮かべた。一人の女が言う。
「それじゃ人類絶滅しちゃうじゃん」
ミシマは純粋で神妙な面持ちのまま、ピタリとも動かず、考え込んでいた。
数秒後、彼は鼻から大きく空気を吸い込み、口を開いた。
「一理あるけど、それはあまりに非現実的だね。前提を崩すには、もう人も制度も増えすぎた。もちろん、面白いけど。というのも、らしさの強要は反対の何かがいて、その反対の何かから遠ざかる存在でありたくて、初めて起こるからね。極論、一種しかない世界なら、そこに強調やいさかいはなく、ただのんびりとしていられるんだろうね」
僕はそれ以降、ジェンダー論には出席しなかった。しかし、ミシマとは時々大学近くのインドカレー屋で飯を食った。彼は、僕に性対象としての好意は抱いていない。そう本人が断言していた。薄暗い店内ではいつも、彼が中欧生まれの高貴な女性に見えた。
2019年。5月1日。
鍵盤のような、美しいモノトーンの螺旋階段を僕らは上っていった。2階、廊下右手にあるドアの先、12畳ほどの客室の中では、彼の妻が読書をしていた。
「連れてきたよ」
夫は部屋に入ると、ドアを確実に閉め、僕をダブルベッドへ横になるよう促した。彼の指示は緩やかで、それでいて絶対のように思えた。
「君、いいの?本当に」
本にしおりを挟んで、妻が言った。僕に向けて、死にかけたストリートチルドレンを見るような目で言った。最初に見た女とは別人に思えた。部屋での妻は幾らか老けて見え、アンダーグラウンドな雰囲気もあった。
ペンションの正面玄関が開く音がした。
「米田君、あれ?」
オーナーの声が微かに聞こえた。客室は荒野のように静まり返っていたため、オーナーの小さな声もはっきりと聞こえた。夫は舌打ちをして、それから足早に一階へ下りた。
「バイトの子ですか?」
「ええ、はい」
「なにやらすごい形相でさっき、森の方へリュックを背負って出ていきましたけど。何か、あったんですかね」
「えっ」オーナーの声が大きくなるのを僕は感じ取った。
「探しに行きましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ゆっくりしていてください」
そう言ってまた、オーナーの声は聞こえなくなった。
「今のうちに、ほんとに逃げればいいのに」
妻が言った。窓の向こうにある針葉樹林を彼女は見ていた。外からの陽によって影が強調された彼女の首筋は、健康的で無駄のないものだと感じた。
「あの人ね、うちの新入社員とも、たまーにあの黒い球使って遊んでてさ。まあ、私は慣れてるから楽しめるけど、はじめての子は、きついと思うよ」
妻は僕に向き直り、純粋でしわのない顔の皮を用いて笑った。彼女の内側には、膿の匂いがする物の怪が住みついている、ように思えた。
「はあ」
僕はそれから視線を天井に移し、ベッドに寝そべったまま、人工的な木目を見ていた。吐き気がした。
April 21 2019
「米田、久しぶり。僕は今、トロントでsushi職人をしています。(まあただのバイトなんだけどね笑)けっこう真剣に経営を学んだのに、特に独立する将来設計も予定もなく、場当たり的にこの道を選んじゃったよ。
正直言って、地元の北海道や東京での大学生活も含めて、僕はどこでもうまくやってたんだけど、ここではダメ。けっこうきつい。初めての経験だよ。なんか、人生っていうのがちょっと分かってきたような気がする。上手く、言葉では説明できないけど。まあ僕はそんな感じ。
米田は、最近、何してる?3年生の時頑張ってたプログラミング、今でも続けてる?
まあ、あれだよな。新卒で就職しなかった者同士、頑張って行こう。人生は一本道じゃないと思う!」
僕は、ミシマを秀才という言葉で表現したい。聡明で洒落ていて、多様性を瞬時に受け入れる。正義を貫いていて、純粋な一面が一日一度は垣間見える。何をするにも決断が早く、そのくせに食事や雑談はよく噛んでゆっくりと味わう。彼の隣を歩くだけで、自分にも自信が溢れ出た。大学卒業後すぐにカナダへと渡った彼は、最近僕にメールをよこしていた。
彼はきっと、自分に寄せられる過剰な期待や、実際の生活や性格との乖離に疲れたのだろう。彼が有名な総合商社からの内定を辞退し、ワーキングホリデービザを取得したのは、突然のことだった。どんなに笑顔が眩しく崇高な人間にでも、公にできない感情はある。そしてそれは本人すらも管理できない。彼からそれを学んだ。
「あ」
夢から醒めた。視界は狭く、触覚は不確かで、インフルエンザに罹ったように頭が重い。
「米田君、どう?」
僕には何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。ただ世界が緑と赤になっていて、10秒に1回程度、僕以外の空間全てが早送りになった。
「ちょっとやりすぎじゃない?」妻は笑っていた。
心臓が不規則に打ち、僕の息は時々切れた。再び意識を失くして夢を見ようと努力したが、今度は強い衝撃がのしかかって、肺や心臓、脳が押しつぶされた。
時間の感覚はなくなっていたが、しばらくすると身体中の筋肉や臓物が溶けてベッドに流れ込む、そういった錯覚に襲われた。
僕のIQが三段階程度落ちる音がした。
いくつかの物語が幕を閉じるような喪失感があった。
しかしその中で、僕にへばりついていた贅肉が削ぎ落された。スリムになった僕は蒸し暑い空間の中で、これからの進路について真剣に考えた。
それはまるで、これまで嫌っていた人間や仕事が、事故や詐欺に遭ったその時から、かけがえのない大切なものに移り変わるような、引き算の幸せを感じる時に似ていた。
「これ、後で死んだりしないですか?」
依然として、僕の身体は脳へと危険信号を送っていた。汗が異様に吹き出ていた。僕はベッドの真ん中で大の字になって、二人の手を弱く握る。僕らは震えていた。
酩酊状態であるものの、本質的な事柄に関する思考力だけは活発だった。これまでの数年で、深く豊かな思考を邪魔してきた不純物が無くなっていた。家族や自治体、国、人類、地球という様々な規模で、自分がどうコミットできるか。自己実現とは僕にとって何を意味するのか。それらを熱心に考えていた。その余力で僕は話しかけた。よって、質問は僕にとって隅で起こるエトセトラだった。
「そうだな、死にはしないよ。ただ、君はこのくらいのこと、もっとした方がいい。発散方法を知って、少しずつ世の中を肯定的に見れるようになると、いいな」
彼の渇いた目は、それは少しだけ、あの人に似ていた。
2014年。5月1日。15時39分。
彼はリビングの窓を金属バットで叩き割って、部屋に入ってきた。窓ガラスの小さな破片が彼の腕に刺さっていた。
「おい。お前…可哀そうにな。お前も、ここで死ぬんだ」
僕の心臓はこの時も、不規則に鼓動を刻んでいた。彼は破片をそのまま抜かなかったため、腕からの出血はそれほどなかった。
「言っちゃあ悪いが、正直誰でもいい。ただ、この家は、イラつくから」
彼の発言に対して、僕は全く理解ができなかった。今は理解できるが、同意はしたくない。彼が数メートル先から僕に向けて吐く息は、生ごみにマヨネーズをかけたようなものだった。窓の外を見ると、母が打ち上げられた魚のように倒れていた。しかし普段通り、幸せそうな鳥のさえずりや木の葉が風にさざめく音が聴こえた。
男は一歩一歩僕に近づく中で、床で死んでいたゴキブリを踏んだ。プツ、という音が男の履くサンダルの下から聞こえた。
「あ?んだこれ」
僕はフローリングを強く蹴って、玄関に全速力で走りこみ、家から飛び出た。
生きるということの本質は、ここにあった。
陽に当たる現代社会では、知能や理性が全てだと思っていた。しかし、中にはバグやイレギュラーがあるということを知らされた。ただの生物たちが、社会という幻想を作っているだけだった。ロシア文学のような、フィクションとは比にならない、冷や汗と吐き気がそこにはあった。
2019年。5月1日。16時49分。
妻は僕を見て、邪のない顔で笑った。頭を撫でて、僕を抱きしめた。
「優しいね、ほんとに君は」
柑橘類と鉄の匂いがした。
夫は僕に黒い球体を投げた。
「これ、君にあげるよ。なんというか、必要だろ」
「はあ」
「僕はさ、どうしようもない青年期を乗り越えて、なんとか踏ん張って仕事してきた。分かるかな。自分にある問題とは、一生の付き合いなんだよ。それでも生きてる。妻はもちろんだけど、何人かの良い人と出会って、僕らなりに妥協点を見つけて、なんとか折り合いをつけて、上手くやってるんだ。君も、そうなれれば、少し楽なんじゃない?」
僕の目から自然と涙が伝い、それは密着している妻の皮膚に吸収された。
「君の時間は止まっている気がする。何があったのかは知らないけど、動かした方がいい。まだ若いんだ。未来は明るいだろ?」
僕は瞬間的で短期的な希望が見えた時、必ず遠い未来には目を向けないようにしていた。しかし今回に限っては、死ぬまでの何十年かや、死んでから無になった後のことにも思いを馳せ、僕は健やかに眠った。
2015年。3月10日。19時40分。
父は僕の頬を殴った。
「いい加減話せ。こんなめでたい日くらい」
遥さんは急いで席を立ち、父を止めた。
「やめてよ。浩介くん、まだ18なんだから」
僕は庭にあるブラックホールのようなくぼみを眺めていた。実際にくぼんでは見えないが、明らかに空気を引き寄せ、削り取っていた。
「気持ちは分かるけど、もうそろそろ勘弁してくれ。俺がもたない」
父は明言しなかった。過去に蓋をして、父も遥さんも、自分を保つために努力していた。
「俺だって、許せないのは同じだよ、そりゃ。犯人は死刑じゃないんだから。正直、いつかね、殺してやりたいですよ。父親がそんなこと、言うもんじゃないかもしれない。でも。」
僕は、数週間に一回のペースで、庭で倒れていた母と、隣町まで息を切らして走った映像が、ぐちゃぐちゃになってフラッシュバックする。そんな中で前に進もうと言われても、難しい話だった。
「とにかく、浩介くん。4月から新生活が始まるわけね。いろいろあるだろうけど、頑張ってね。合格おめでとう」
僕はピンとこなかった。父と遥さんの態度も、受験なんてくだらないものも、色んなものが、ピンときていなかった。受験戦争と呼ぶような、たいした努力はしていない。それに無駄なトラウマを可能な限り考えないため、僕は勉強に集中するしかなかった。
僕は2階の自室で、早々と新生活の準備を始めた。一階からは怒鳴り声が聞こえた。
2019年。5月1日。18時59分。
「あれ、なんだよ。米田君、帰ってるんじゃないか」
「え」目を開けると、僕の視界は銀縁メガネが似合う老年男性の顔でほぼ満たされていた。
「もう、心配したんだよ。ほんとに。荷物持って森なんか、安易に行かないでくれ。頼むよ。家に帰ったんじゃないかとか、自殺未遂なんじゃないか、とかでさ、皆心配してたんだよ」
オーナーは普段の何倍か眉間にしわが寄っていた。それは頑固な大学教授のようにも見えた。
「奥まで行くと帰れなくなるし、イノシシも出るんだ。お客さんにも毎回注意してるのに。君はスタッフだろ。夕食準備もサボるし。まあ、とにかく今日は、申し訳ないけど減給だね」
「はあ」
ベッドの横では、スーツケースが乱暴に開かれていた。その近くにある勉強机には、スリープモードのまま開かれた15インチのノートパソコンが見えた。ここは4月14日、勤務初日から使っている一階奥のスタッフルームだ。
「じゃあ、夕食の皿洗いから、仕事再開ね。準備もあるだろうから、だいたい20分後に、また洗い場に来て」
目眩がして、頭が重く、身体が自分のものではないような違和感があった。着替えようとしたところ、シャツの胸ポケットから一万円札が一枚落ちた。ポケットの内側には報酬である残りの4枚もしっかりと入っていた。
こんなことで、お金をもらっていいのだろうか。親戚の農作業、とりわけ水やりといった単純作業を一時間手伝い、その後二時間程度の雑談、それだけで一万を超えるバイト代を受け取った感覚に似ていた。黒い球は、ボトムスのポケットに入っていたが、僕はそれを部屋の隅に投げた。
2024年。1月20日。7時17分。
真冬の富良野は、綺麗という言葉だけでは終われない。たしかに、丘一面に積もる雪は滑らかで美しいのだが、代償として、氷点下の日常と終わらぬ雪かきが、僕らを苦しめる。関東育ちの僕には、ここが海外のようにさえ思える。日本にこれほど寒く積雪量も多く、屋内に籠らざるを得ない地域があるとは、全く知らなかった。北海道在住者におけるTVゲームのプレイ時間が多いというのは、本当のようだ。
「そろそろ材料、きれるんじゃない?」
僕は言った。今日は左手の感覚が薄い。
「あ、買ってきてくれる?」
起きてから3時間が経過しているが、改善の兆しが見えない。また薬を飲む日になるかもしれない。
「うん。まあ僕は、今日締め切りの案件はないし」
今思えば、健康な時はさらに楽しんでおく必要があった。一度体にガタが来れば、静かな良さしか味わえない。
「ありがとー」
メイコは店の掃除を続けている。彼女は僕のようなチャランポランとは異なり、埃一つ逃さない。
「じゃあ行ってくるよ。いつものセットでいいんでしょ?」
「うん」
扉を開け、針のような外気が店に入る。焙煎されたコーヒー豆の香りが、雪の無機質な水分と混ざり合った。僕は今日も、おぼつかない左手でハンドルを握る。
昼になると、日差しが強いせいか雪が溶け始めた。農道からも畑の茶色がちらほらと覗ける。
「おっちゃん、久しぶり」
農家の御影さんは、ビニールハウスの前でキャンプ用の椅子に座り、いつもガムを噛んでいる。右だけで噛んでいるためか、会話をする時も右の筋肉だけ使っているようだ。
「おう、浩介くん。電話ありがとねい。今日もメイコちゃんの手伝いかい?」
「まあ、そうだよ」
「尻に敷かれてるんねえ」
「別に、今日は僕が休みだから、買いに来てるだけだよ。尻には敷かれてない」
「そうかい」
御影さんは僕が言うより早く、ホウレンソウと水菜、じゃがいもとアスパラを箱ごとビニールハウスから運んできた。
「ときに、こっちの生活には慣れたんかい?」
「まあ、もう一年も富良野にいるからね。さすがに」
自分でも、今の生活には驚いている。僕は真っ当な道からは逸れつつも、東京で正社員になったらそこで定年まで勤め上げるものかと思っていた。
「そんでも、そろそろキツイ部分がちゃんと見えてくる頃だろうに。帰りたいとか、思わないんかい」
僕が関東で経験してきた25年間と比べると、たしかに慣れないことが多かった。旅行ではなく、生活をして根を下ろすということが、一筋縄ではいかないと知った。
「まあ天気のことも、仕事のことも、メイコとの生活でも、あと、今後のことも考えてくと、たしかに心配とか、トラブルはあるよね」
御影さんは僕の軽トラに野菜を積みながら、笑って頷いた。
「ほんとにさ。俺も群馬から来たから、そういうのはうんと分かる。仲間だいね」
2022年。11月18日。9時48分。
「お前さん、わけありかい?」
僕がメイコの使いで初めて御影ビガーファームに来た時、御影さんはストレートな口調で僕に訊いた。邪のない人だ、とは思わなかった。かつてペンションで出会った宿泊客の妻と、ひどく似た顔の皮だった。
「いえ、別に。むしろ僕は特徴ない、地味な奴です」
僕は薄く笑ったが、御影さんは一笑もしなかった。
「笑顔を後から身に着けたタイプだいね。苦労しとる人だわ」
背筋の凍る思いだった。物事の本質を見抜いて、そしてそれをズケズケと言う人にはめったに会うことがない。数年ぶりの曲者に僕は一瞬で疲弊した。正直、野菜をもらわずに帰ろうかと思った。
「でも、だからこそメイコちゃんに気に入ってもらえたんだなあ。あの子は多分、助けたくなっちゃうタイプだからねい」
ああ、そうか。僕はまだ大学を卒業した時と同じ。与えられる側の立場にいたのか。悲しくも、そう実感した。
「一緒に暮らしてんだろう?」
「はい」
「そりゃ幸せもんだいね。あの子には言い寄る奴は多いんけど、誰とも付き合わんで有名だったかいね」
「おお、そうなんですか」
御影さんはガムをバケツに吐いて、鼻をすすった。
「まあ頑張るこったね。慣れないうちは色々大変だろうに。そんでもなんか見えてくるべさ。これからよろしくねい」
「はい、こちらこそ」
「まあ、せっかくこんな北海道のとこまで来たんだからねえ、昔のことはすっぱり忘れて、楽しむがいいさね」
宗教や占いと同じかもしれない。あたりさわりのない言葉を並べて、何が来ても自分に当てはまっているように錯覚させる。それでも御影さんの言葉は、僕の過去も現在も未来も、現実世界とはまた別の部屋から見通しているかのようだった。
2024年。1月20日。9時24分。
駐車して裏口から家に入るとき、1グループのお客さんだけが窓から見えた。真冬の平日は、だいたい地元の方だ。
「あ、浩介、おかえり」
メイコはキッチンでサラダを盛り合わせていた。キッチンカウンターに置かれた骨董品の隙間から、テーブル席に座る若い男女4人組が見えた。洒落た大学生のようだった。カメラを全員持っていることから、観光客であることがうかがえた。
「まだ手伝うこととかはない?」
「うん。大丈夫」
メイコの右手の指は生まれつき4本しかない。それでも僕より数倍は器用で、出来上がったサラダもまるで食品サンプルのようだ。
「あ、ごめん。やっぱりこれだけ持ってってもらえる?」
「お待たせいたしました。こちら、グリーンサラダになります」
僕が一枚板のテーブルに4皿置くと、一人の男が僕に質問した。
「あっちにある本って、読んでいいんすか?」
彼は窓際にある小さな本棚を指さしていた。
「ああ、もちろんです。どうぞ。是非」
質問した男が口を丸くした。
「あー、まじすか。けっこう好きな海外の作家のとかちらっと見えて、読みてえなって思ってたんすよ」
「さすがドイツ文学科だね」と、向いに座る女性が言った。
あくまで表情や目線の交わり、雰囲気からの推測だが、彼らは自己顕示欲や競争と離れたところで生きている。僕の大学時代は、それほど輝いてはいなかった。友人や恋人と出歩きつつも常に暗雲が立ち込めていて、まあ、それでもたいした苦労はしなかったのだが。ただ、僕も含め友人や恋人は必要以上に訳アリぶっていたから、深い部分の会話ができなかった。そういった意味では、あまり頻繁には会わないが腹を割って話せたミシマの存在は、貴重だったのかもしれない。
2022年。5月1日。11時11分。
26歳にして、はじめて北海道へ来た。もともと旅行には興味がなかったが、タイミングが心地よかったため、ミシマからの誘いに乗ることにした。格安航空会社を利用したため、ゴールデンウィークの時期でも金銭的な負担を軽くすることができた。宿はミシマの実家があったし、僕にとって時間は腐るほどあった。
「米田にも、いろいろあったんだな」
カフェのカウンター席で骨董品を見つめながら、ミシマはブレンドコーヒーを口にした。数年ぶりに会う彼には髭が生えていて、フェミニンな印象は消えていた。
「いろいろっていうか。簡単に言えば、会社を辞めたってだけだよ」
僕は26歳になるちょうど一か月前に会社を辞めた。辞めた日が七夕だったのでよく覚えている。一年と3カ月ほど勤めていた。東京の外れにある小規模なWEBメディア運営企業だ。会社にいる間は過去の自分が別人となって、笑える人間になっていた。忙しいということは、成長と共に、時に幸福をもたらすと学んだ。もちろん、辛いことのほうが多いからこそ、辞めたわけだが。
「まあそうか。でも、結局俺もお前も就職したな」
彼の一人称は会わないうちに「俺」へと変わっていた。
「そうだねえ。まさかミシマが電力会社に行くなんてね。てっきりNPOとかいくんかと思ってたよ」
「まあな」
彼は大学時代と変わらず、希望と夢に溢れた表情をしていた。もともと、そういう顔なのだろう。なにがあっても。
2024年。1月20日。9時37分。
「ここってお二人で経営されてるんですか?」
ポニーテールのスポーティーな女性が僕に話しかけてきた。彼女はグリーンサラダを率先して取り分けようとしていた。
「おっしゃる通りでして、僕と妻で経営しております」と笑顔で僕は言った。
「素敵ですね!ご夫婦でこんな素敵なカフェを経営だなんて!」
そうポニーテールの女性は溌剌とした表情で言った。太陽のようだった。僕が昔、苦手だったタイプだ。
その子の向かいに座っていたショートヘアの女性はあたりを見回して、
「昔からあるカフェなんですか?けっこう…」
(年季が入った建物ですけど)というニュアンスのことを言った。
「はい、妻の祖父母の店なんですよ。それを妻が5年前に引き継いで、一年前からは、僕も共同経営者になりました」
ポニーテールの女性が自分の口を綺麗な手で押さえ、「えー、いいなあー」と口にした。ドイツ文学科の男性は本棚の前でじっとしていた。
2022年。5月1日。11時22分。
「俺はさ、HIVの陽性者なんだよ」
仕事の話がひと段落した頃に、ミシマが言った。
「え?」
「エイチアイブイなの、俺」
「嘘だろ?」
「ほんとにさ。トロントでちょっと遊んじゃった時期があって。仕事が辛くて、でも日本に帰りたくもないし。それで自暴自棄になって、結構しちゃったんだよね」
ミシマとは、性欲が存在していない生命体だと思っていた。大学時代の女性的な顔立ちと、小盛りのインドカレーを思い出した。
「コンドーム、ほんと着けるべきだったよ。馬鹿だよ。ほんとに。世間の陳腐な啓蒙活動っていうのはさ、まあそれを俺はやってた時期があるんだけど、それは、本当に苦しんだ人がいるからやるわけで。耳を傾ける、べきなんだよな」
「そうか」
なんと言っていいか、分からなかった。
また、当時はHIVやエイズに関する知識も自分になく、正直に言ってミシマはもう余命が近づいているものかと思っていた。
「まあでも、そのおかげで実家に帰ろうと思った。もちろんHIVだからって、エイズは発症してないし初期だったから、ウイルス量はコントロールできる。痛みも特にない。まあだから、カナダやアメリカでそのまま生活することもできたんだけど。
でも、多分俺は、自分をスリムにしたんだよな。自分にとっての太陽や地球に位置することだけ、大切にしようと思ったんだ。俺はその時、土星とか火星とか、自分の見てみたいものだけ見てたと思う。でもそれは核となるものじゃなかったんだよ、多分」
比喩表現や多分という言葉は、彼にとって珍しいものだった。彼はコーヒーを飲み干した。喉仏が突き出ていた。
「まあ俺のここ数年の報告はこんなもんかな。カナダのワーホリでスシ作って、英語話せるようになって、HIVになって、それから帰ってきて、すぐに家から近い小規模な電力会社に就職して、そこで今も働いてる。まあ暦通りの休みだから、ここ10日はゆっくりできるけどな」
彼は髭を掻いていて、テーブルに置かれたコーヒーカップを見つめ、そしてどこか晴れた表情だった。悟りの一歩先を行ったような、なんとも形容し難い顔だった。
「でもなんか、米田がWEB系の会社行くのも、卒業後に転々と住み込みバイトやってたのも、プログラミングの勉強続けたのも。それに親御さんと色々あって仲直りしたんもさ。あと今の、フリーランスのプログラマだっけ、それやってんのも、そうだ。俺からすりゃけっこう予想通りだよ」
ミシマはコーヒーカップの縁のあたりを見つめて、動かなかった。
「お前ってほんとに育ちがいいんだよな、多分。まあ要所要所ダメな部分はあるかもしれないけど。でも、結構ヤバイとこまで行っても、結局は自分の糧にできる力があるよ。まあほんとに、最終的にはって話だけどな」
彼はどこか恥じているようにも見えた。ミシマは僕に、どこか嫉妬していたのかもしれない。
「お二人の会話、なんだかドラマみたいですね」
カウンターの向こうから、20代前半程度の若い女性が話しかけてきた。彼女は僕たちのテーブルにトマトのマリネを置いた。
「盗み聞きのお詫びです」
僕が人生ではじめて"恋"という不確かなものを確認した瞬間だ。月並みな言葉だが、この瞬間のために、宇宙は138億年もの歴史を刻んできたのだと思った。そういうものだった。
2034年。5月1日。12時00分。
本当に、流れに任せてここまできたように思う。特別何か努力をしたわけでもないし、それ故に褒められた生き方をしているわけでもない。運に恵まれず、間違いを幾つも犯し、その度に積み重ねてきたストレスや外傷から、後遺症も残った。でも、それでも生きてる。僕は23歳あたりで早死にするものかと思っていた。不思議なものだ。
2024年。5月1日。9時42分。
「では、僕はこれで」
そう言うと、若者たちは会釈した。メイコは食器を洗っていた。
キッチン付近に置かれたモンステラの苗底を見ると、全く水気がなかった。そこには、北海道では滅多にいない、ゴキブリが横たわっていた。
「水あげとくね」僕は言った。
「あっ。ありがとう」
壊れた僕とリゾートバイト、そしてなにより北海道 ババロアババリエ @Bavaroisbavarier
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