お母さんが弾いていたピアノのメロディー

野口マッハ剛(ごう)

優しい音の調べ

 天国とはこちらからでは絶対に見ることが出来ない。今日も心の中でお母さんをそっと思う。図書館のCDコーナーでクラシックの題名を眺めている。果たしてあのメロディーはどの音楽だったのか。それを今探している。

 今日もそれらしいCDをいくつか借りる。もう記憶の奥底に沈んでいるあの優しい音の調べを期待して。

 家に帰り休日を過ごす。片手にコーヒーを、窓から庭を眺め、空が少し曇っているなと感じる。CDをパソコンで再生して、いつそのメロディーが流れるかとワクワクしている。

 部屋にはお母さんが弾いていたピアノが一台。今は誰も使わないピアノ。たまにホコリが溜まるので掃除してあげる。

 いつからだろう。この胸が張り裂けそうなくらいにお母さんを恋しく思うようになったのは。天国へ旅立たれてから、この家の人間は、しいんと静まり返っていた。

 お父さんは仕事に忙しく、俺に兄弟はいない。

 そしてクラシック音楽を聞いては涙をこらえきれずにいる。

 お母さんが死んだのは俺が幼い小学生低学年の頃。その当時をこう覚えている。ある日にお母さんが居なくなって、父親からは旅に出たのだと教えられた。いつお母さんが帰ってくるのかと聞いたらそれはわからないと答えられた。

 俺は十九、もう現実の区別ぐらいはついているだろうと思うのだが、それでもなおお母さんに会いたかった。

 CDの再生が止まり、部屋では俺一人だけが泣いている。

 日は進んでお母さんのお墓へ父親と参りに行く。

 お墓をキレイに磨き上げて、話しかけてみる。

「お母さん、俺は元気にしているよ? そっちはどうなの?」

 お父さんは何も言わずに手を合わせている。

「またお母さんのピアノが聞きたいな。いつでもおいでよ」

 けれどもお墓からは何も返事がない。

「天国はそんなに居心地がいいかな?」

「もう行こうか」お父さんがそう言った。

 俺は心にぽっかりと空いた穴の痛みをハッキリ感じる。

 お母さんに会いたい。

 その日の晩に部屋のピアノの前で立ち尽くす。ポーンと鳴らしてみる。しかし、何も返事がなかった。お母さんはもうどこにも居ないのだろうか。さびしさが全身を包む。それは俺にとっては何にも耐えがたい母への愛情なのだ。そうして今夜もひとりで泣く。

 お母さんとの思い出は色あせている。

 もうあのメロディーを聞く時はないのだ。

 俺はピアノの前でお母さんに会いたいと願う。

 部屋を出ようとした時のこと。

 ひとりでにピアノが鳴るのである。

 俺は振り返った。ああ、お母さんのあの音の調べなのだ。ピアノの鍵盤が目に見えない何かによって弾いている。きっとお母さんだ。メロディーがなんの名前なのかはわからない。けれども、涙があふれて止まらない。

「お母さん、ありがとう。来てくれて」

 ふっとメロディーは止まった。

 でも、もうさびしくはない。

 お母さんに見守られていることがわかったのだから。

 俺はいつまでもお母さんの子なのだ。

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