第3話 異世界転移?
子どもが一人、山吹色の髪を振り乱しながら走っている。不揃いに伸びた髪が汗で頬に張り付くのを気にする余裕もなくひた走る。裸足の足は怪我でもしたのか所々血が滲んでいる。ボロボロであちこち穴の開いた靴は走るのに邪魔だがやむを得ない。裸足よりはましだ。
子どもは竹林をかき分け、壁一面に蔦が絡まった無人のビルを通り抜け、草木が生い茂る狭い裏路地に踊り出た。軽く左右を見て誰もいないことを確認すると、また走り出す。息が乱れ、足がもつれそうになり、逞しく生えた木の根に躓きそうになるが止まることはない。
辛いだろうに何故走り続けるのか。その答えは子どもが三股に分かれた道を右に曲がった時に訪れた。
「このクソガキが! チョロチョロと逃げ回りやがって!」
中肉中背の男がそこには待ち構えていた。子どもはこの男から逃げていた。怒りを隠すことなく怒鳴りちらす目の前の男に捕まってはならないと、踵を返し再び逃走を図る。
しかし、子どもの考えることなどお見通しとばかりに、振り返った先には、二人の男が下卑た笑みを浮かべながら新たにこちらに向かって歩いてくる。背後にいる男が二人にねぎらう言葉をかけた。二人共この男の仲間なのだろう。
「ッチ、しつこいな」
子どもは忌々しく吐き捨てる。絶体絶命のピンチだ。
「追いかけっこは終わりだクソガキ。さあ、大人しく観念して盗んだものを返しなぁ。そうしたら半殺しぐらいで勘弁しといてやらぁ」
一番背の高い男がそう言うと、他の男たちも同調するかのようにゲラゲラと品のない笑い方で笑う。見かけも言動もどう見ても、堅気ではない。彼らの持つ金もきっとまともに働いて稼いだ金ではないだろう。とはいっても、この街で清廉潔白な仕事などないに等しいのだが。
無残に崩れたビルを突き破るかのように育った大きな樹、長い間碌に整備されずアスファルトを突き破って生えた竹のせいで、車がまともには走れない道路。大人の背丈ほどもある葦の原。今やジャングルと化したこの街に、真っ当に生きている人間はほぼいないと言ってもいいだろう。
子どもは悔しそうに顔を歪めるとズボンのポケットに入っているものを握りしめる。それは目の前の男から盗んだ財布だ。触ったかぎり大した厚みもなく、どうせはした金しか入っていないだろうにしつこい奴らだと心中呟く。
お世辞でも治安がいいとは言えないこの町で、保護者のいない子どもが一人生き抜くにはまともではいられない。
体を売るか、この子供のように盗みを働くかだ。そうしなければ飢えて死ぬか、大人たちに文字通り骨までしゃぶりつくされて死ぬかのどっちかしかない。だから子どものしたことは正しいこととまでは言えないが、仕方ないことだった。
子どもは財布をポケットから引っ張り出す。二つ折りの茶色の皮の財布。所々傷や汚れが目立ち、たいそう年季が入っているのが見て取れた。
「そうやって素直に差し出せばいいんだよ」
背の高い男が子どもから財布を受け取るために手を伸ばす。しかし、男の手が財布に触れることはなかった。触れる前に子どもが手を引いたからだ。
「これでも喰らいやがれ!」
財布の代わりとばかりに、子どもは財布を持っている手とは逆の手にナイフを握りしめ男の手に深々と突き刺した。
「うわああああぁぁぁ――――!!」
男の叫び声が大きく響き渡る。とっさに引き抜こうと逆の手でナイフの柄を掴むが、少しでも動かすと引きつるような痛みを感じ、呻きながら男はその場に蹲った。ぽつりぽつりと血がしたたり落ち、赤い点が地面に出来ていく。
「テメー! 何しやがる!」
刺された男の右隣にいた顔に刺青を入れた男が、子どもの顔を殴りつけた。殴られた勢いで地面へと叩きつけられて、盛大に転がり太い木の幹に身体を打ち付ける。
「……う、ぐぅ……」
懸命に立ち上がろうとするも、打ち付けた背中が痛むのか再び地面へと座り込んだ。しかし、目の前の子どもはまだ屈してなどいなかった。殺気を孕んだ目で男たちを睨みつける。
「このガキ。こっちが下手に出ていれば付け上がりやがって! もう勘弁ならねぇ、ぶっ殺してやる!」
右手に刺さったナイフを何とか引き抜き、そのナイフを振りかざしながら背の高い男が子どもの前に仁王立ちする。左右も囲まれ、背中には壁のような大樹。もう反撃するすべはない。子どもは襲い来る痛みを想像しながらキツク瞳を閉じる。そして、祈る。「誰でもいいから助けてくれ」と。神なんて信じてないし、ヒーローなんていないとわかっている。それでも、死にたくないと必死に祈った。
ここまではこの街ではよく繰り広げられる光景だ。珍しくもない。打ち捨てられた死体が道端に転がっていて、それが野生動物に食い荒らされるなんてこの街の住人には見慣れた光景だった。
だが、これからの先は誰も予想しえない展開が待ち受けていた。相対する男たちは勿論、願った子ども自身も。
突如男たちの頭上が眩く輝いた。何が光ったのかと男たちは子どもをそっちのけにし、頭上を見上げる。いくら待っても訪れない痛みに子どもが目を開けると、眩い光に気をとられて同じように上を見た。光が収まった直後に、地面に影が差し、何かが降ってくる。それは人の姿をしていた。
「……なんだ? うっわ!」
子どもの祈りが通じたのか、はたまたただの偶然なのかはわからない。しかし、確かに奇跡は起きた。男たちの上に振ってきたのは人間だった。
「あー、腰打ったー……。って、どこだここ? あの世?」
場にそぐわぬあっけらかんとした声を上げたのは今しがた空から降ってきた青年――渡会朝光。短く切りそろえられスタイリングした真っ黒な髪は、落ちた衝撃でぐちゃぐちゃに乱れている。
打ち付けた腰をさすりながら朝光は辺りを見回す。ついさっきまで朝光は橋の脚にいた。孤立している子猫を助けて、橋の上に戻ろうとしたところ手を滑らせて川へと真っ逆さまに落ちたのだ。しかし今、彼がいるのは川の中でも川辺でもない。
見渡す限り壊れたビルとそれらを蹂躙するかのように覆いつくす木々。青年には見覚えのない景色。地獄と思うのも仕方がないことだろう。
「……だ、誰?」
か細い声が朝光の耳へ届く。声がした方へと視線をやれば、そこには子どもが一人座り込んでいた。そこでようやく朝光はその存在を認識した。
「……地獄の小鬼?」
にしては造形は人間にしか見えないか、と朝光は呟く。子どもは聞き取れなかったのか小首を傾げた。
「……んん」
地面から呻くような声が聞こえ、朝光は足元を見た。そこには折り重なるように倒れた男が三人。突然降ってきた朝光にぶつかり、下敷きにされて伸びていた。
「なんだこいつら?」
「今のうちに逃げるぞ!」
子どもは立ち上がると、素早く朝光に駆け寄る。打ち付けた背中がまだ少し痛むが構ってなどいられない。
突然現れたこの男、倒れ込む男どもを不思議そうに見つめる姿に、子どもは彼が男たちとは無関係であると結論付けた。それならば、朝光の下で目を回しているうちに一秒でも早く逃げるべきだと判断する。折角のチャンスだ、この機を逃すわけにはいかなかった。
「あ、オイ! ちょっと待てって! ここはどこで、お前は誰なんだよ!」
ぼんやりと辺りを見回している朝光の手を取ると、子どもは無理矢理にその手を引く。待てと言うもののその手を振りほどく様子はない。
「そんなことは後だ! ひとまず走れ!」
朝光は訳がわからないながらも、とりあえず目の前の子どもについていくことにした。というより、何も知らない地でただ一人という状況ではそうせざるを得なかったというだけだ。頭をたくさんの疑問符で埋めながら、朝光は樹海のような地を走った。
◆
子どもは朝光の手を握ったまま緑生い茂る街を駆け抜ける。壊れた建物からあふれ出る植物、車が走っていた面影すら今はない雑草だらけの道路、打ち捨てられ野生生物の寝床となった廃車。
自分の住む街とは全く違う見知らぬ地。道中子どもに手を引かれながらも、せわしなく周りを見渡しながら走る。まるで観光客のように物珍し気に。緑に覆われたかつて街と呼ばれた場所など観光地のように楽しいものではないが。
そこでふと、朝光はある可能性に思い至る。ここは異世界ではないのかと。自分はそのままか、一度死んだのかはわからないが、何らかの原因を経て異世界に来てしまった。とかそんな非現実的な考えが頭をよぎる。そしてほのかな期待が膨らむ。未知な世界にたいして、不安よりも好奇心の方が勝る。
そんな道中ふいに引いていた朝光の腕が子どもの手から離れた。子どもが何事かと思い朝光を振り返ると、彼は呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうした?」
すぐに子どもが駆け寄るが、朝光は子どものことなど忘れてただただ一点を見つめていた。口を半開きのまま、眉を下げた表情は戸惑っているようにも悩んでいるようにも見えた。
朝光の視線の先を見やるとそこには何の変哲もない、塔の残骸がそこにあった。中腹からへし折れ、ピサの斜塔のように傾いている塔。それはこの辺りは一番大きく、以前はとても立派なものだったのだろうと推測できる。だが今は見る影もなく、中腹ほどからへし折れて錆びて色も変わり、苔が蒸して蔦植物で覆われてただの緑色の巨大な残骸にしか見えない。
「……スカイツリー?」
ぼそりと朝光が呟く。その言葉は誰に向けたものではなかったが、子どもはその言葉を拾った。
「ああ、なんかそんなたいそうな名前がついていたけど、今は誰もそんな名前で呼ばねーよ。よく知ってたなアンタ」
子どもはそれはただ淡々と世間話の要領で話したつもりだったのだが、朝光は大きく目を見開き驚愕の表情で相手を見つめる。何かマズいことでも言ったのだろうか考えていると戦慄き震える口から、ようやく絞り出した声はとても小さく微かで耳を澄ませていないと聞こえなかっただろう。
「ここは異世界じゃ、ない……?」
朝光も見知った建造物が同じ名前で、随分と落ちぶれた姿で今、全く見知らぬ地にある。それは一体どういうことなのか、朝光は考える。
偶然似たような形のものが同じ名前で異世界にもあるーーなんてことはありえないだろう。ならば、あと考えられる可能性は二つ。一つは朝光たちが生きていた時代よりもはるか未来の世界。もう一つは朝光たちの生きていた世界とは別の世界線。そのどちらかだ。
そのどちらかを解き明かすために朝光は震える声で目の前の子どもに質問した。
「……なあ、今西暦何年だ?」
思っていたより低い声が出てしまった。
子どもは思い出すように、首傾げなら唸った後口を開く。
「あー、えっと確か20xx年だ」
「そうか……」
それは朝光がついさっきまでいたところと同じ年だった。そうなると先ほど考えた考察では後者、『別の世界線』である可能性が高くなった。何が原因かはわからないが、きっかけは間違いなく橋から落下したことだろう。
誰かの魔法、とも考えたが世界線を渡る魔法など朝光は聞いたこともなかった。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
西暦を聞いたっきり黙り込んでしまった朝光を心配して覗き込んでくる子ども。そんな相手に朝光はぽつりと呟く。
「俺は、別の世界線から来たのかもしれない……」
「はあ?」
朝光の続いた言葉に、次は相手が困惑することとなった。いきなり深刻そうな声で話しかけてきたと思ったら、別の世界線だなんてどう考えても人を馬鹿にしているとかしか思えない。
「……なにいきなり真顔で冗談いってんだよ」
「冗談だと良かったのだけどな……。まだ確信は持てないけど、俺は同じ時代の別の世界線からこの世界線に飛ばされたと考えている。理由も原因も今のところは不明だ」
堂々と宣言するかのように、朝光はきっぱりとそう言い切った。その表情はいたって真剣で嘘をついているようには見えない。が、突然そんなことを言われて手放しで信じられる人間は中々いない。目の前の子どももその一人だった。
「馬鹿にするな!」
突如怒鳴られ、朝光はびくりと肩を揺らす。少年は眉をつり上げ、激しく怒りに満ちた表情をしていた。まさかそこまで怒るとは思っていなかった朝光はとっさに謝罪の言葉を述べる。
「わるい、馬鹿にするつもりはなかった。でもこれは本当のことで……」
「もういい! 成り行きであれ、助けてもらったのは事実だから連れてきたけど僕のことを馬鹿にするならお前のことなどもう知らない。勝手にどこへでも行け!」
一方的に連れまわしただけだというのに横暴な話ではある。
一気に自分の言いたい事だけまくし立てると、子どもは朝光を置き去りにして走り出した。
「ちょっと待ってくれ!」
「来るな!」
思わず引き留めようと追いかけようとした朝光だったが、子どもの険しい言葉で彼は足を止める。少年は振り返りもせずに走っていった。植物だらけの変わり果てた地で去り行く姿を呆然と見つめる。
「さて、……どうするかな」
暫く子どもの走り去っていった方角を見つめていた朝光だったが、子どもの姿が完全に見えなくなった頃ぽつりと呟いた。その声は絶望に打ちひしがれるでもなく、途方にくれてもいない。見知らぬ場所に一人取り残されたというこの状況下において、似つかわしくない程にあっけらかんとしていた。
「まあ、なるようにしかならないか」
聞きようによっては楽天的としか取れないようなことを口にすると、朝光は少年が走り去った方角とは別の方向へと歩き出す。
一人歩く朝光を冷たい風が吹きつける。寒さに身を震わせ、首をすくめる。まずは寒さをしのげる場所を探さなければならない。
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