ゴーブの守る谷 12
フィオールの眷属たちの中でゴーブの谷のことを知るものはごく僅かだ。
ヘレテは低く唸った。
「フィルガス。あんた、トーリー島にいるドルイドのこと、知ってたの?」
ぎらりと光る目がフィルガスを射抜く。
「ドルイドがいることは知っているよ。ドルイドはエリンのあちこちに目を光らせて、我々の邪魔をする」
腕を組み、フィルガスは興味深そうな顔をした。
「ふうん…。オグマの騎士が、ねぇ…」
「何を企んでいるの、フィルガス」
ヘレテが目をすがめる。フィルガスは笑った。
「別に? ただ、面白そうだなと思っただけさ」
長い髪を後ろに払い、ヘレテは吐き捨てるように言った。
「小娘は取り逃がすし、もう散々よ。絶対にしとめてやるわ。………?」
何かを思い出したように、ヘレテはフィルガスをまじまじと見やった。
視線に気づいたフィルガスは、瞬きをして彼女を見返す。
「何か?」
訝るフィルガスの顎を掴んだヘレテの瞳が糸のように細くなる。
「そういえば、あの小娘。面差しがあんたに似ていたわ」
ヘレテの瞳が怪しくきらめく。
「チェンジリングのフィルガス。――心当たりはあって?」
青年は眉ひとつ動かさない。
「さぁ」
「私がもらっていいかしら」
答えないフィルガスに、ヘレテは凄絶に微笑んだ。
◆ ◆ ◆
洞窟の奥に進むと、二股に分かれていた。
一方はさらに奥深くにつづき、もう一方は別の場所に出るのだという。
ディーラたちはゆっくりと歩を進め、陽の傾きかけた岩場に出た。
涼しい風が吹いている。
セイは瞬きをした。これは、自然の風ではない。精霊の、風霊の風だ。
ロッドを支えにして、ディーラはふうと息をついた。こんなに動き回ったのは随分久しぶりだ。
胸の奥に痛みが走るようになってから、心配したレイミアや島民たちに安静にさせられていた。
闇の眷属は、昔から幾度となくこの島を襲ってきた。ディーラはそのたびに彼らを迎え撃ち、退けてきた。
しわだらけの手が、ロッドを握り締める。
ともに島を守ってきた夫はとうに神々の膝元に召され、息子夫婦もいない。
彼女の家族はいま、孫娘のレイミアただ一人だ。
それまで沈黙していたダンが、漸う口を開いた。
「ディーラ。ブリギット様からの手紙を、預かってきました」
懐から取り出したそれを差し出す。ディーラは振り返り、静かに首を振った。
「読まなくてもわかるよ。……タラの神殿か空の砦に戻って治療を受けろ、だろう?」
「それがわかっているなら」
「ダン――」
片手をあげただけでダンを制し、老女は北方の空を眺めやった。
遥か彼方にあるというティル・ナ・ノーグ。神々と精霊と、死した者たちが住まう常若の国。そこには大切な家族たちがいる。
だが、ディーラはそこに行けない。
最愛の夫の許にゆくことはできない。自分にはその資格がない。
「私はね、ダン。この島に骨をうずめる覚悟ができている。クリフの眠るここで、命を終えるつもりだよ」
「ですがディーラ」
「決めたことだ。ずっと、決めていたことなんだよ」
そう、あの日から。
ディーラは目を閉じた。
いまでも鮮やかに、悲鳴を上げる若い女の姿が浮かぶ。
エリン本土の海辺の村に駆けつけたディーラは見た。
金切り声を上げて、消えてしまった我が子の名を半狂乱で叫びつづける義理の娘。それを、息子と、三歳になったばかりだった孫が必死で取り押さえている様を。
どれほど捜しても見つからなかった赤ん坊。
あの子は死んだのだと半ば無理やり自分たちに言い聞かせ、何年もの時間をかけて諦めて。
そうして、ようやく、次の子が生まれた。女の子だった。
その子を産んで程なくして、嫁は消え入るように息を引き取った。息子もまた漁に出たまま海に沈んだ。
すべてはあの日に狂ってしまった。そうして自分は、それを防ぐことができなかった。
大ドルイドなどと呼ばれていたくせに。
家族たちを守ることもできなかった役立たずが、いまさらどうしてあの誇り高い騎士たちの元に戻れよう。
「ディーラ…」
老女の背は、ダンに何も言わせなかった。
どれほど年老いたとしても、間違いなく彼女は歴戦のドルイドだ。彼女の意思を覆すことなど、自分には無理だったのかもしれない。
ダンをここに派遣したブリギットは、ディーラの事情を知っている。
クリフが亡くなったときから、騎士団も神殿も幾度となく彼女に戻ってくるよう促し、その度に突っぱねられた。
だが、今回ばかりは聞き入れてもらわなければならない。
ディーラは心臓が弱っているのだ。もしここで邪神の襲撃があり、彼女がそれに立ち向かわなければならなくなったら、体が持たないだろう。
ダンはかぶりを振った。
「……せめて一晩、考えてみていただけませんか。完全にここを離れるのでなくてもいいんです。タラで養生して、心臓が治ったらまた戻ってくれば……」
必死に説得を試みるダンに、ディーラは小さく笑った。
まったくこの子は諦めが悪いねと、その緑の瞳が語っていた。長い髪はいまはすっかり色が抜けて白くなってしまったが、昔はそれは見事な燃えるような赤毛であったと聞いている。
「……仕方がないね。考えるだけは、してみるよ」
それは、こんなところまでやってきた青年祭司に対する彼女の思いやりだった。少しは検討するそぶりを見せてやらないと、神殿に戻ったときにダンが叱責されてしまうかもしれない。
「ありがとうございます、ディーラ」
ダンは頭を下げた。
「あんたたちは先にお行き。私はもう少しここで、風霊と話をしていくから」
「わかりました。セイ、行こう」
ダンが身を翻す。それまで黙ってやり取りを見ていたセイは、少しだけもの言いたげな顔をしたが、おとなしく従う。
青年祭司と年若いドルイドを、ディーラは静かに見送った。
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