ゴーブの守る谷 10
クールは拳を握り締めた。
腰に佩いた剣の重さ。精霊王ジンの炎で鍛えられたファリースの剣。最期のときに彼から託された形見だ。
オグマ騎士団の騎士が持つ剣は、遥か昔に神から与えられたものとされる。
闇の眷属は邪神の力で暗黒に染め上げられていて、その命は常闇に縛られている。
それを解き放てるのが、女神ダーナの命を受けた鍛冶の神ゲヴネによって鍛えられた剣なのだ。
「……」
肩に乗ったロセスが何かを言ったのか、レイミアが横を向いて唇を動かした。
クールは複雑な心境になった。腹部の傷がうずく。
よく見れば違うのに、ふとした瞬間、重なる。
ファリースを殺し、自分に怪我を負わせたあのフィルガスに。
努めて静かに呼吸をして、波立った感情が静まるのを待つ。
ファリースをその手にかけたフィルガスが、エルクと血を分けた兄弟であることを、クールとセイは、五日前に初めて知ったのだ。
ファリースの命を奪ったのがエルクの弟だと、そのときまで誰も知らなかった。
憎い仇がエルクの弟。赤ん坊の頃に闇の妖精にさらわれたチェンジリング。
クールはその事実を認めたくなかった。
ミルディンやジェイン、ロイドたちも、事実を受け入れ難いようだった。
あまりにもひどい、残酷すぎると、あのジェインが呪いの言葉を吐いたほどだ。
ジェインとロイドは、ファリースとエルクが最前線で戦っていた頃を知っている。
もちろんエルクとも何度も言葉を交わしたという。
「……」
剣の鞘を押さえるようにして、クールは思う。
もしも、自分もエルクをじかに知っていたなら、ここまで動揺しなかったのではないだろうか。
レイミアは若い頃のディーラと、少年だった頃のエルクによく似ていると、ロセスが言っていた。
エルクはディーラの孫だ。ディーラの契約鳥だったロセスが言うのだから間違いはないだろう。
けれども、とクールは考えてしまう。
ロセスは闇に染まったフィルガスを見ていない。
クールは、若い頃のディーラも、少年だった頃のエルクも知らない。
知っているのは、あの暁にファリースの命を奪った男の顔だけなのだ。
レイミアは、彼女は何も悪くない。わかっている。
だが、彼女の横顔にフイルガスの面差しが重なる。同じ色の髪、同じ色の瞳。鼻の筋、耳の形。ふとした瞬間見紛うほどに。
クールの胸の奥が不穏にざわめく。
そのときだった。
「レイミア!」
岩陰から数名の男たちが飛び出してきた。村人たちのようだ。
「レイミア、無事だったか」
「村は、どうだった?」
「あの魔物は…?」
口々に問うてくる村人たちに、彼女は笑顔で答えた。
「村は無事よ。魔物たちは一旦引き上げたみたい。……怪我をした人たちは大丈夫?」
彼女が眉を曇らせると、村人たちは力強く頷いた。
「ああ、大したことはない」
「ディーラが手当てをしてくれたよ」
「それより…」
クールたちを一瞥して、彼らは警戒心をあらわにした。
「こいつらは…?」
「タラからきた、ダーナ神殿の祭司とオグマ騎士団の方たちよ」
レイミアの言葉に村人たちの様子が一変する。
剣を携えた騎士と、ロッドを持ったドルイド。ダーナの加護を受けた『一対の剣と楯』だ。
「もしかして、あの魔物たちを倒しにきてくれたのか!?」
期待のこもった眼差しに、クールとセイは言葉を失う。
「え…あ、いや…その…」
「……ええ、と…」
及び腰のふたりをかばってさりげなく前に出たダンが口を開いた。
「私はタラのダーナ神殿の者です。ディーラを訪ねてきました。闇の眷属の襲撃があったことは、つい先ほど知りました。一体いつから?」
肉付きのいい壮年の男性が一同を代表して答える。
「昼ごろに、たくさんのヘルハウンドを連れた奴が村を襲ってきたらしい」
男たちは漁に出ており、村には女子どもと年寄りしかいなかった。
魔物たちの気配にいち早く気づいたディーラが障壁を築いて時間を稼ぎ、村にいた人々を谷に避難させた。
帰港した男たちはレイミアから魔物の襲撃を知らされ、港からそのまま谷に向かった。
途中でヘルハウンドに襲われた者もいたが、なんとか逃げ切った。怪我人は多少出たものの死者はひとりもいない。
ダンが眉根を寄せる。
「それで、皆さんは、か弱い女の子を偵察にいかせて、ご自分たちは安全なところに隠れていたんですか?」
非難めいた語気になるのも無理はない。
漁を生業にしている男たちは見るからに屈強で、膂力も相当のものであるはずだ。
対するレイミアは痩せ気味の少女である。
「それは…」
二十歳になるかならないかといった青年が、顔を真っ赤にして口を開きかけた。
そのとき、威厳のある声が割って入った。
「言い争いはおよし」
全員がそちらを振り向く。レイミアが目を瞠った。
「おばあちゃん!」
ひとりの老女が杖を片手に立っていた。着古した
ローブをまといこそしていなかったが、その手にある杖はドルイドのロッドだ。先端に透きとおった水晶がはめられている。
ダンが一歩前に出て笑った。
「お久しぶりです、ディーラ」
手を差し出すダンを一瞥し、老女は口端をかすかにあげる。
「あんたは確か、ダンといったか。見習いの青二才が、随分立派になったものだねぇ」
喉の奥で小さく笑うディーラに、ダンは苦笑いだ。
ディーラは大儀そうに身を翻した。その傍らにレイミアが駆け寄る。
「おばあちゃん、歩いて大丈夫なの?」
不安げな孫娘に、老女は目を細める。
「たまに歩かないと足がなまるからね」
それまでレイミアの肩にとまっていたロセスが、ディーラの肩に飛び移った。
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