ゴーブの守る谷 4
最高祭司の姿を、月に一度の例祭日以外で目にすることはほとんどない。
彼女は執務室と、その奥にある私邸から滅多に出ることがないからだ。
そんな最高祭司が年に一度だけ、騎士団の叙任式に参加するためにオグマ城を訪れる。
騎士とドルイドは、戦いの神オグマの代理人である最高祭司の前で誓約を宣言する。最高祭司の口を借りたオグマがそれを認めれば、騎士団員として正式に迎えられる。
もちろん現実に神が降臨するわけではない。神の名のもとに最高祭司が新たな騎士とドルイドを叙し、オグマ騎士団への入団を認めるのだ。
クールとセイも、今年の叙任式で最高祭司の前に立った。
といっても、ふたりが誓約を宣言した最高祭司はブリギットではない。先代のクレアだ。
クレアは齢九十を越えて、叙任式のすぐあとにこのブリギットに職を譲った。最高祭司は世襲制なのである。
ブリギットは祭司のひとりとして叙任式に列席していた。クレアの横で、整列する騎士とドルイドたちを緊張の面持ちで見つめていた。
執務室に入ってきた老ドルイドを認め、ブリギットは立ち上がった。
「よく来てくれました。ミルディン」
老人が一礼する。ブリギットの視線が、老人の背後に控えるふたりにも注がれた。
「マクルーフ、セイダーン。叙任式以来ですね」
ふたりは黙って頭を下げた。
エリンの民は、子供が誕生すると神殿に届け出る。神殿が管理する人名簿に正式な名を記し、普段は呼びやすい通称や愛称を用いるのが常だ。
クールは眉間にしわを寄せる。正式な名で呼ばれることがほとんどないので、どうにも耳慣れない。
マクルーフ。拾われた赤ん坊にそう命名したのはフォード村の神殿祭司だ。村を出るときまで、クールは自分がマクルーフという名であることを知らなかった。
正式な場では必要なのだとわかっているが、どうしても自分ではないような気がして、呼ばれると居心地が悪い。
老ドルイドは好々爺然と口を開いた。
「ブリギット。我々を呼んだ理由を聞かせてもらえるかな」
促すミルディンの眼差しは優しい。彼にとってブリギットは孫娘のようなものだ。
ブリギットは頷いた。
「先日のチェンジリングについて、詳細を直接伺いたくて。それと、あなたにお願いがあるのです」
「ふむ。直接というなら、クール、お前から話すのがいいだろう」
「え!?」
名指しされてうろたえるクールをブリギットはじっと見つめる。
「実際に、チェンジリングを企てた者と剣を交えたのはあなたでしたね」
「あ、はい。でも、俺…や、わ、わた、私、よりも…ジェインの、ほうが…」
たおやかな風貌の最高祭司は頷いた。
「ええ、知っています。ジェインとロイドのふたりからも話を聞きました」
じゃあなぜ自分たちまで、と、クールの目が告げている。上官であるジェインのほうが、的確な報告をあげられるだろうに。
ブリギットは端整な相貌に険しさをにじませた。
「邪神の手に落ち闇に染められた、今回の首謀者の素性が、問題なのです」
クールとセイははっとした。
「十二年前の大戦で死亡したドルイド、エルクの実の弟で、十年前に騎士ファリースをその手にかけたという魔道士フィルガスについて。あなたがたが見聞きしたことを、正確に聞かせてください」
クールとセイの話を聞き終えると、ブリギットはふたりを先に退出させた。
残されたミルディンが少女に声をかける。
「ブリギット、何やら悩みごとかね?」
ブリギットは目をしばたたかせて、困ったように笑った。
「ミルディンには隠しごとができませんね」
目を細めて、ブリギットは机上の羊皮紙をミルディンに差し出した。
それを受け取りざっと目を走らせたミルディンは、かすかに息をのんだ。
「……なんと…」
ブリギットの目にミルディンを案じる色がある。気遣いと親しみのにじむその表情は、侍従や女官たちには決して見せない顔だ。
ミルディンは彼女にとって、祖父のように近しい存在だった。
先代の最高祭司であるクレアはここのところ体調を崩して臥せっている。ブリギットの両親は十二年前の大戦の折に亡くなっており、彼女に祖母以外の肉親はいない。
最高祭司というほかに代わりのいない役職にある彼女にとって、ミルディンは唯一頼れる存在であるといっていい。
ミルディンは重く呟いた。
「ディーラの容態が、思わしくないとは……」
羊皮紙は、先ごろトーリー島に神殿から派遣された医師の手による診断書だった。医師によれば、彼女の心臓はかなり弱っており、できるだけ早くしかるべき医療機関で治療することが望ましいと記されていた。
ディーラは往年の大ドルイドだ。彼女が引退してトーリー島に隠棲したのは四十年以上前だった。
ブリギットは壁にかけられたタペストリーを見やった。それはエリン全土の地図だ。
「ベッドに横になったままの日がつづいているとは聞いていましたが、これほどとは思っていませんでした。早急に、新たな『谷』の番人を選定しなければなりません」
エリン最北の島トーリーには、重要な場所がある。
ゴーブの谷だ。
ディーラとその夫である騎士クリフは、魔物との戦いで負傷し戦列を離れた。表向きの理由は力尽きての退団だった。
しかし実際は、ゴーブの谷を邪神から守るため、秘密裏にトーリー島へ派遣されたのだ。
「それと、もうひとつ。こちらを読んでください」
もう一通の書状が差し出される。
「先日、ロセスが携えてきたディーラからの手紙です。私とあなたに宛てられたものでした」
ミルディンは目を細めた。よく見知った戦友の筆跡だ。
「フィルガスのことを知らせるかどうか、迷ったのですが…。やはり、知らせないわけにはいかないと判断しました。それで」
この手紙が、返ってきたのだ。
ミルディンは疲れたように嘆息した。
「……ディーラの頼みとあらば、聞かないわけにはいかんな」
彼女は、命をかけてこのエリンを守った同志なのだ。
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