ゴーブの守る谷 2

 クールは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 砦の中庭で、オグマ騎士団の騎士たちが剣の稽古を行っている。クールは石造りの塔にもたれてそれを眺めているのだ。

 不満そうなクールのもとに、セイがやってきた。


「不機嫌だね、クール」

「当たり前だ」


 間髪いれずに返し、クールは拳を握りしめた。


「俺は大丈夫だって言ってるのに。傷だってもうふさがってるのに」


 傷が癒えるまでは激しい運動は厳禁、剣の稽古などは論外と、医師に言い渡されてしまったのだ。


「これくらいの傷で、大げさな…!」


 苛立つクールを横目で眺めるセイは呆れ顔だ。


「これくらいって…。腹に穴が開いたんだよ?」

「…………」


 クールは目をすがめた。

 自分に剣を突き刺した男の横顔と、嘲るような声が甦る。

 腹から腰を貫通した刃は冷たく、傷は異様に熱かった。幸いなことに太い血管や神経、内臓は無事だったので大事に到らずに済んだが、一歩間違えば命はなかっただろう。

 運が良かったのか。あるいは、憎い仇に手心を加えられたのか。

 あの日城に戻ってから、クールはジェインにこっぴどく叱られた。

 衣服の下には包帯が巻かれていて、傷はいまでもうずいている。

 クールはふさがったと言い張っているが、四日でふさがるわけがない。

 医師は外科治療とともに、医学の神の力で治癒を促進させている。しかしそれでも即座に完治というわけにはいかない。そんなことをすれば、自然の道理から外れてしまう。

 神は人々に加護を与えてくれるが、決して過保護ではないのだ。

 クールは息をついた。服の上から傷を押さえる。強がっていても、少し動いただけで傷の周辺が痛む。

 クール本人は無意識なのだろうが、ずっと眉をしかめている。痛みを堪えている証拠だ。


「……昔」


 クールがぽつりと呟くと、騎士たちの修練を見ていたセイは視線を投げてきた。


「ファリースが、風霊の力を使ったことがあったろ」

「ああ…」


 初めてファリースと対面した日のことだ。

 ふたりはあの日のことを鮮やかに覚えていた。それは、彼らが新たな人生を踏み出し、望んでいたものを得た日だったからだ。


「俺も、ファリースみたいに、精霊の力を使えるようになりたい」


 相棒の言葉にセイは瞬きをした。

 優秀な騎士は精霊の力を扱える。だが。


「大変だよ?」


 そのためには、ドルイドに求められる魔力の強さとは質のまったく違うものが必要になる。

 騎士が精霊の力を得るには、彼らが認めるだけの剣の技量と精神力が必要なのだ。

 たとえば、豪剣のファリースのような。


「だと、思う。でも…いますぐは無理でも、必ず」


 しかし、それ以上に。

 いまの自分には、どんな相手を前にしても崩れない冷静さが必要なのだと、クールはもう悟っていた。

 フィルガスを逃がしたあの日、傷の手当てを受けながら、クールはジェインからきつく言い渡されたのだ。

 ああいった状況で我を忘れるような大馬鹿に、騎士の役目が果たせると思うな、と。

 感情が先に立てば、命取りになる。クールはそれを理解しているつもりだった。にもかかわらず、いざ憎い仇を前にした瞬間すべてが吹っ飛んだ。

 そしてそれは、セイも同様だった。

 クールは腰の剣に手を触れた。稽古を禁じられていても、これだけは離さない。

 いまわのときに託された、ファリースの剣。

 セイも、手にしたロッドを握る手に少し力を込めた。ファリースの対のドルイドだったエルクのロッド。

 命尽きる間際、エリンの英雄は、おのれの剣と、亡き相棒の形見のロッドをふたりに譲り渡した。

 クールとセイはエルクを知らない。彼らが砦にやってくる一年前に、エルクは大戦で命を落としていた。

 ふたりの師であり、エリン最強の騎士と謳われた『豪剣のファリース』。

 クールの瞼が震える。感情が先に立てば命取り。

 あのときも、いつものファリースであったなら、敵の凶刃をその身に受けたりしなかったはずだ。

 ローブの下からのぞいたフィルガスの面差しを見て、あのファリースがひどく動揺した。その隙をつかれた。そうでなければ。


 ――まさか……フィル…ガス…


 フィルガス。その名はクールとセイの脳裏にはっきりと刻まれた。

 あれから十年。

 ようやく仇と遭遇したのに、自分たちは完全に手玉に取られた。仇を取るために必死で努力してきたのに、まるで歯が立たなかった。

 それが、どうしようもなく悔しい。


「……」


 剣の柄を握りしめるクールの指に力がこもる。

 本当は、いますぐにでも稽古を再開して、さらにさらに強くなりたい。こんな傷の痛みなど、夢中になれば忘れられる。いっそ痛みなど感じない体になれればいいのにとすら思うのだ。

 気ばかりが急いている。

 ジェインはそれを見抜いているのだろう。完全に傷が治るまでは絶対に剣を抜くなと厳命されている。

 クールは険しい顔で天を仰いだ。

 ジェインは正しい。無理をすれば傷の治りが遅くなる。体が万全でなければいざというときに反応が一瞬遅れる。そのほんのわずかな遅れが命を縮めることになる。

 おそらく、クールとセイが思っている以上に、彼女はふたりの身を案じている。

 それは、ふたりがこの城にやってきたときから変わらない。

 ファリースが亡くなった後にふたりの面倒を見てくれたのはジェインだった。

 英雄が命を落としたのは子供たちのせいだと言い立てる者もいた中で、彼女とロイドはふたりを全力を守ってくれた。

 だからふたりは、いくつになってもジェインとロイドに頭が上がらない。 

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