番外編 そのたった一年で 2
にこりと笑って飛んでいくモアを見送って、ジェインは小さく笑った。
ジェインの故郷はエリン西部にある。
ブドウ畑の中にある石造りの城でジェインは生まれた。城といっても地方の小さなもので、このオグマ城とはくらべものにもならない。
彼女の家は広大なブドウ畑とワイン醸造所を所有する大地主である。
さらに、代々周辺の村々を統治する執政官の家でもあった。
ジェインの父は真面目過ぎて少々堅苦しいきらいがあるが、民のことを第一に考える誠実な執政官であることは間違いない。
執政官の中には政務を各村の神殿祭司に任せて定期的な報告を受けるだけという者もいるらしい。そういう執政官が治めている地域では、神殿祭司が実質的な統治者となっていることもあるという。
その話を初めて聞いたときは、父がそんな無責任なひとでなくて良かったと思ったものだ。
宿舎の一番奥に向かうジェインの足は徐々に速くなる。
父親と凄まじい親子喧嘩の果てに許しをもぎ取った彼女が、このオグマ城に入って騎士見習いとなったのは三年前。十四歳のときだった。
一年に一度行われる入団審査を受けて、技能人格ともに、騎士あるいはドルイドとして相応しいと認められるとオグマ騎士団に入団できる。
見習い期間中の訓練は過酷だった。音をあげて脱落する者は数多く、耐え抜いて入団審査を受けることができても半数以上が落とされる。
そんな狭き門を、ジェインは見事に突破した。しかも、身体能力の点でどうあがいても男性に及ばない部分がある女性の身で、その年叙任された騎士たちの中でもっとも優れたる者と評された。
二階の最奥にある扉の前に立って、彼女は背筋をのばした。呼吸を整えて扉を三度叩く。
「誰だ?」
中からの誰何に、ジェインは目を細めた。
「ジェインです。さっき戻りました」
「ああ。入っていいぞ」
「失礼しま…」
扉を開けてそこに広がる光景を目にした瞬間、彼女は生ける彫像と化した。
久しぶりの帰郷から城に戻ってきた後輩が、扉を開けた体勢のまま突然固まったのを見て、ファリースは不審げに眉根を寄せた。
「…………どうした?」
それまで瞬くこともしていなかった少女が、彼女にしてはぶしつけに指をさしてくる。
「……あの……なにを…………」
「うん?」
ファリースは自分の手元を見下ろした。
真新しいチュニックの縫い目を糸切りバサミでほどく作業の真っ最中だ。片脇がようやく終わり、もう片脇と両の肩口をほどいて適度な大きさに裁断し直し、もう一度縫い合わせれば完成。の、予定である。
「ああ、これか。……そうだ、聞いてくれジェイン」
「はい?」
「ミルディンの奴、昨日突然子供をふたり連れてきて、この俺に面倒を見ろというんだぞ!」
ファリースを見つめたジェインは、一度瞬きをした。
「はい」
「言いつけた本人はさっさと視察に行ってしまった。ひどいと思わないか!」
ジェインは、頭の中でファリースの台詞と彼の手にあるものとを並べ、推理した。
「……つまり、それはその子たちに与えるために、仕立て直しをしているところですか?」
「ああ。まったく、本当に手間がかかって……」
ぶつぶつと文句を言いながら、ファリースは糸切りバサミを動かす。
衝撃冷めやらないまま室内に入って扉を閉めたジェインは、ひとつのことに気がついた。
向かって左にある扉が、少しだけ開いている。そこは以前、ファリースの相棒の部屋だった。
ジェインは呼吸も忘れてその扉を見つめた。
ずっと閉ざされたままだったその部屋の扉が、開かれたのだ。
あの日の、これ以上ないほど打ちのめされてうなだれた英雄の姿を、誰もが鮮明に記憶している。
エリンを救った英雄を国中が賞賛していても、とうのファリースは己れを非力だと責めていた。唯一背を預けられる対の魔術士を、激戦の中で永遠に失ってしまったからだ。
ファリースをそっと振り返ると、彼は糸切りバサミとチュニックと悪戦苦闘している。
ずっと彼の面差しを彩っていた悲愴な色が消えている。
エリンの英雄は、ようやく絶望の淵から抜け出したのだ。
ジェインは心底ほっとした。良かった。あのままでは早晩最悪の事態に陥ると、誰もが危惧していた。
しばらく彼の手つきを見ていたジェインは、何度か逡巡したのちに口を開いた。
「…………あの、ファリース」
「なんだ?」
手を止めてファリースが顔を上げる。チュニックの縫い目はまだほどけていない。
「よかったら、私が代わりに仕立て直しましょうか?」
「できるのか?」
英雄は、文字通り目を丸くした。
「――――」
ジェインは唇を引き結ぶ。これは、どう反応すればいいのだろう。失礼なと怒るべきか、冗談めかして笑いながら応じるべきか。
考えあぐねていると、ファリースははたと気づいた顔をした。
「ああ、すまない。ジェインにできると思わないとか、そういった意味じゃなくて」
慌てて言い募るファリースに、ジェインは思わず噴き出した。
「確かに、ここにきてからは剣しか握っていませんから」
彼女には、物心ついた頃から専門の教師がつけられていた。裁縫や刺繍、ダンス、礼儀作法など、執政官の令嬢として必要な知識と技術を身につけるためだ。
剣もそのひとつだった。ごく一般的な令嬢が護身術の真似事で済ませてしまうところで、意外にも彼女は飛びぬけた才能を見せ、またそれを好んだ。
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