前日譚 ずっと焦がれていた場所を 2

「……は?」


 ファリースの発した低い声を聞いた途端、クールの胸はきゅっと縮こまった。

 思わずうつむいて、チュニックの裾を両手で握りしめる。

 村人たちが着なくなったものを下げ渡されたチュニックは、古びて色褪せて、あちこち擦り切れそうになっている。

 どうしてミルディンは、ファリースのところに自分たちを連れてきたのだろう。会わせてくれるなら先にそう言ってくれればよかったのに。

 服の裾のほつれや汚れが目に入り、村での日々が甦った。

 村では、たちの悪い男たちが、よくクールを殴っては鬱憤を晴らしていた。それだけではない。言いつけられた仕事が終わらなければ折檻をされたし、生意気だと言われてはしつけと称して叩かれた。

 両親のいない、身寄りのないクールは、村に置いてもらっているだけで感謝しなければならなかった。

 クールはふいに怖くなった。

 あの男たちのようにクールを蔑む目を、もしもファリースが見せたら、どうしよう。

 素性を知られたら、もしかしたら、ファリースも。

 青ざめていくクールを、セイは不思議そうに見ている。

 一方のファリースは、ミルディンを凝視していた。


「………………は?」


 胡乱げな唸りをもう一度発した青年は、ふたりの子供たちを交互に見て、ミルディンに視線を戻す。


「ミルディン、もう一度訊くぞ。その子たちは?」


 ファリースがクールとセイのことを口に乗せた。

 うつむいているクールの肩が小さくはねた。セイが唇を引き結ぶ。

 ミルディンはにやっと笑ってふたりを顧みながら、朗らかに同じ言葉を繰り返した。


「騎士になりたいと言うので、連れてきた。ファリース。今日からお前がこの子たちの面倒を見ておくれ」


 このとき明らかに空気が凍ったことに、クールは気づかなかったが、セイは気づいた。

 ファリースは、老人を呆気にとられた顔で見た。


「は?」

「こっちがクールでこっちがセイだ。必要なものはあとで届けさせよう」

「ミルディン、おい」

「城のことや騎士団のことも、教えてあげなさい。将来有望な騎士の卵たちだ」

「待て、聞け」

「ああそうそう」


 ミルディンは唐突に手のひらをぽんと叩いた。


「しまったしまった。神殿に呼ばれていたんだった。ではファリース、クールとセイを頼むぞ」


 ファリースに反論のいとまを与えず、強引に話を打ち切って、ミルディンは疾風のように去っていった。


「ミルディン…!」


 ファリースがのばした手は、むなしく空を掴む。

 取り残された三人は、しばらく呆然と立ち尽くした。






 最初に我に返ったのはファリースだった。そこは百戦錬磨の騎士だ。いかなる事態が生じようとも、常に冷静さを保たなければならない。


「…………」


 青年は、ふいに自嘲するように口元をゆがめた。

 もう二度と剣は持たないと決めたというのに、騎士の心得は骨の髄までしみこんでいる。

 子供たちを見ると、息を殺すようにしながらファリースの様子を窺っていた。当惑と怯えがその目に見て取れた。

 どういういきさつがあったのかは知らないが、こんな小さな子供がここに来るのは珍しい。よほどの事情があったはずだ。

 ミルディンは、ファリースの気を紛らわせるために、わざとこの子たちを置いていったのだろう。

 しかし。

 ファリースは天を仰いで額を押さえた。

 いくらなんでも、いきなりやってきて、言うだけ言って置き去りにしていくというのは、どうなのか。

 どうやらこの子たちは何も聞かされていなかったようだ。青ざめた強張った面持ちで、ひどく動揺しているのが感じられる。

 ファリースは、はたと思い至った。

 ここで自分が無下に扱いでもしたら、この子たちの心に深い傷ができるのではないだろうか。

 なるほど、そうか。そこがミルディンの狙いか。おのれ。


「…………………………」


 渋面でしばらく黙考していたファリースは、やがて深々と息を吐いて子供たちに視線を向けた。

 自分の感情は別として、子供たちをなんとかしなければ。


「……クールと、セイといったか」


 ふたりの背がびくりとはねる。

 ファリースは身を翻し、主のいなくなった寝室の扉に手をかけた。


「とりあえず、部屋はここを使え。ベッドはひとつしかないから、しばらくはふたりで寝るように」


 ここの主だったエルクの荷物は、家族の元にすべて返された。何もなくなった部屋にあるのは、備えつけられているベッドと、衣類などをしまう箱。

 そのベッドにも、敷物やブランケットといったものはない。

 ミルディンは、必要なものはあとで届けさせると言っていた。最低限の生活必需品に、たぶん寝具の類も含まれるだろう。

 含まれているといいなぁと胸の中で呟く。

 見たところ、ふたりとも着替えや何やらを持っている様子はない。

 それらも必要なものに入っているとは思うが、もしないようだったら備品庫番に掛け合って用意してもらわなければ。

 確か、見習い用の稽古着があったはずだ。それでもだいぶ大きいだろうが、ないよりはましだろう。

 あとは、なんだったか。そう、城のことと、騎士団のこと。


「オグマ城は広い。慣れるまでは誰かについて歩けよ。あとは…」


 昔、自分がこの砦にやってきたときのことを思い出しながら、ファリースはふたりに説明する。


「食事は食堂だ。…ああ、そろそろ夕食の準備ができる頃だな。ちょうどいい」


 ふたりについてくるように促して、ファリースは部屋を出た。

 食堂につづく回廊を、ファリースは半ば機械的に進む。

 傾いた太陽の光が斜めに射してくる。突然の事態に呆然としているうちに、そこそこ時間が経っていたらしい。

 そういえば、エルクが死んでからろくに食事もしていなかったなと、ファリースは思い至った。

 部屋に閉じこもったまま出てこようとしないファリースを仲間たちが心配して、パンや飲み物を差し入れてくれた。仲間たちの心遣いを無下にもできず、無理やりパンをかじるのだが、いつもなんの味もしない。それを水で無理やり腹に流し込むのだ。

 そうやって、少しだけでも食べているから、倒れずにいる。

 食堂は朝から晩まで開いている。団員たちが修業や鍛錬を終えて食堂に集まるのは、もう少しあとの暮色蒼然となる頃だ。

 いまならまだそれほどひとはいないだろう。

 そのほうがありがたい。




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