妖精の取替子 12
大きな鳥影が沼の岸辺に落ちる。
セイはアードの背からひらりと飛び降りた。辺りを見回して頷く。間違いない。ここがロッドの示した沼だ。だが。
「こんなところに、赤ん坊が?」
緑色の水面にアードの羽ばたきが起こしたさざ波が広がっていく。思ったより深いらしく、沼底はよく見えない。目を凝らすと揺蕩う水草のゆらゆらとした影がかろうじて判別できる。
岸辺に生えた草は背が低く、赤ん坊を隠せるような物陰は見られない。
ロッドが誤っているとは考えにくい。アナは近くにいるはずだ。ではいったいどこに。
小さな青い鷹の姿に転じたアードが、セイの肩にとまって身をすくませた。
「セイ、ここ、なんだか嫌だ。早く離れたほうがいい」
「でも…」
言いさした瞬間、セイの背筋にぞわっとしたものが駆け上がった。
視線。
突き刺さるようなそれはどこから。
警戒しながら周囲を見回したセイは、向こう岸に目を留めて息を呑んだ。
さきほどまで何もなかったはずのそこに、黒いローブをまとった影がたたずんでいる。
「黒の…ローブ…」
セイは低く唸った。
ドルイドは、黒はまとわない。黒は、邪神にくみする者たちが好んでまとう色だからだ。
刹那、風に乗ってかすかな泣き声が流れてきた。
風上を探ったアードがあっと声を上げる。
「セイ! あの男、赤ん坊を持ってる!」
「!」
目を瞠ったセイは、ロッドを握り直すと駆け出した。
黒いローブをまとった何者かは布の塊を抱えていた。耳をそばだてると、途切れがちの小さな泣き声が布の中から漏れ聞こえる。
チェンジリングにあった赤ん坊か。
アードが巨鳥に転じ翼を激しく打った。水面が激しく波立つ。
ローブをまとった影がおもむろに振り返った。アードの翼が起こした風が、影が目深にかぶっていたフードを吹き払う。
現れた面差しを見て、セイは思わず足を止めた。
瞬間的に脳裏をよぎったのは、十年前の光景。
雨の中、駆けつけた英雄は、愕然として言った。
――まさか……フィルガス…っ
ファリースを刺し貫いた魔物の長い爪。クールとともにセイはそれを見た。
あのとき聞いた嘲笑が、耳の奥に甦る。
ファリースの剣先がローブを切り裂き、その相貌が露になった。
そう。この、顔だ。
「…………っ」
セイは茫然と呟いた。
「……お前…は…」
感情が抜け落ちたような語気に、違和感を覚えたアードが契約者に呼びかける。
「セイ?」
セイは答えなかった。握りしめたロッドを掲げ、にわかに激昂した。
「フィルガス!」
大気を震わせるほどの怒気とともに、ロッドの先で地を打つ。
瞬間、甚大な魔力がほとばしって渦巻いた。
フィルガスは鬱陶しげに目をすがめると片手を掲げた。激しい魔力が放たれる。
男の指先に生じた極寒の光が瞬時に広がって沼に降り注いだ。
水面が激しく波立つ。沼の水全体が身をよじるように大きくうねったかと思うと、沼底から数えきれない量の
アードの残した軌跡を追っていたクールたちは、魔力の発動を感じて騒然となった。
「なんだ!?」
かなり離れているはずなのに、魔力の余波で突風が駆け抜けていく。
「セイの魔力だ!」
ロイドが叫んだ途端、別の魔力が炸裂したのを全員が感じ取る。
強風にあおられてバランスを崩したモアが落下しかける。ロイドがロッドを突き出した。魔力の盾が広がって突風を受け流し、モアを包みこむ。
モアは瞬時に体勢を立て直すと、風上に向かって翼を打つ。
「モア、あそこだ!」
ジェインが指さした先にモアはまっすぐ降りていく。
比較的大きな沼だ。水が半分なくなっているのは魔力の爆裂で飛散したからだろうか。
岸辺にセイとアードの姿を認めたクールとジェインは、モアが着地する前に剣を抜いてその背から飛び降りた。
大量のワームがアードに群がっていく。
駆けつけたクールはワームを蹴散らすと、ロッドを掲げたセイを見やった。
「セ……」
ふつりと、クールの声が途切れた。
とびかかってくるワームたちを斬り払ったジェインは、降りてきたロイドとモアとともに息を呑んだ。
棒立ちでセイの背を見ているクールの全身から、激しい殺気が立ちのぼる様がはっきりと見える。
「クール…?」
半泣きの、おびえたような呟きはアードのものだ。
クールは瞬くことも忘れて、セイと、彼の背の先にある人影を凝視した。
心臓が跳ね上がる。どくどくと激しく暴れて、苦しいくらいに。
黒いローブをまとっている。魔力の風であおられる長い髪。
クールの視線に気づいてにいと嗤う口元。
「………っ」
その男の面差しを、知っている。
暁の光景がクールの脳裏を駆け抜けた。
のばされた手を取って泣きじゃくることしかできなかった。何度も何度もその名を繰り返した。
――騎士に、なって
「…やつは…」
――ドルイドに、なって
「クール?」
いぶかるジェインの耳に、クールの怒号が突き刺さる。
「ファリースの
――…仇を、取る…!
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