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現在進行形 金曜日 自宅
どういうわけか、玄関先で一男は洋子に罵られていた。
「どうして帰りが早いわけ?」怒っていても可愛らしいのは彼女の得なのか損なのか、一男は場違いな考えをしていた。
「どうして、って言われても。うちの会社は繁忙期を過ぎると、営業職の俺は暇になるんだ」これは常識なんだよと洋子を説得する。
「それはあなたの勝手な妄想、あなたが暇になっても私の家事仕事はちっとも暇にならない。会社の常識を語るよりも夫婦間の不公平を解消してくれないかしら」と洋子が言う。
そして、「で、それでいったい何が言いたいわけ?」と続けた。
洋子が、「何が言いたいわけ?」と口にするときは決まって自分の主張を曲げないのだ。
「いや、何が言いたかったのかさっぱり分からなくなってしまったよ。洋子の言うとおりだ。俺は家事がやりたくて早く帰って来たんだ、きっと」一男は洋子の都合が良くなる方向へ舵を切る。
「そうやって私のご機嫌を伺うのも、なんだか怪しいのよね」腕を組み、一男を見下した。思惑が見透かされ、一男は鞄を両手で体の前で持ち、直立不動の姿勢で静かに耳を傾けた。
営業マンとしての働きは熟練とまではいかないが、会社に入ってから五年が経っていた。一男の立ち振る舞う姿も一目すればそれらしく見えるものね、と洋子は夫を静観していた。
「そんなことないよ。俺にはやましいことはなにもない」おどおどした態度をとれば、「ウソがバレることを恐れているのね」と言われ、毅然とした態度をとれば、「あーそう、開き直っちゃうんだ」ときっと言われる。
ここは自然体で、やんわりと受け流すことによって、妻の機嫌は保たれるのではないかと、一男は願うことしかできなかった。川上から川下へと流れる水のように、逆らうことなく身を任せる。
「今日は、トマトのヘタ、持って帰って来たの?」洋子はそれが一番気がかりだというように訊ねてくる。
「勿論、ちゃんとお弁当箱の中に入ってる」会社を出る前に確認しました。新入社員の日々の失敗を、一男は思い出す。
あるとき営業先に提出するはずだった資料が、鞄の中に入っていなかったのだ。営業先のビルの前に立ち尽くしながら上司と二人して途方に暮れていたこともあった。
「エビフライの尻尾も?」さらに確認を要求される。洋子は一週間前の番組のことを未だに真に受けているようすだった。そのことを指摘しようものなら鉄拳が飛んでくるようにも思えた。
「あぁ、勿論入ってるよ」一男は答えた。お弁当箱の中を確認せずとも、エビの尻尾とトマトのヘタは、入っていた。
新入社員のときは上司の確認に、咄嗟に身体が反応していた。条件反射ゆえ人の反感を買うこともあるのだと、勉強になった。
「そう、そんなところに突っ立ってないで、早く上がったら?」洋子は何事もなかったかのように一男を部屋へと促す。
「うん、そうだね。そろそろ中に入ろうかな」国境の壁のごとく立ちふさがっていた妻が退き、一男は大きな安堵に包まれた。
「それなら明日、私はお料理教室に行ってくるから家事全般よろしくね」洋子は意気揚々と宣言した。
一男は洋子と並んでキッチンに立っていた。洋子から借りたエプロンを掛けて、まな板に寝かせた鯛のウロコを懸命に剥がしていた。
「なんでまた急に?」視線は鯛に集中させたまま、一男は訊ねた。
「あなたのお弁当のレパートリーを増やしたいからよ」決まっているじゃないと言わんばかりの言い草で、洋子はワサビをぐりぐりとおろし金に擦り付けていた。
「お弁当のレパートリー?」一男は新種の野鳥の名でも聞くような感覚だった。
「え、なに? 不服なの? 不満なの? 何か言いたいわけ?」洋子はまくし立てる。興奮のあまりに、ワサビの量が必要以上に増えていく。
「いや、そうじゃない。わざわざ俺のお弁当のためにレパートリーを増やしてくれるなんて、いい奥さんだなぁって感動しちゃって」一男は震えそうになる手元を何とかこらえ、鯛を三枚に下ろして言った。
「泣いてもいいよ」予想通りの夫の言葉に気を良くしたのか、洋子は鼻歌を鳴らした。綺麗な鼻筋、少しふっくらとした頬、優しさそのものを埋め込んだような澄んだ瞳、料理の時には必ず髪を結いあげ衛生面などにも気遣いを見せる。そしてその綺麗なうなじに一男は見惚れていた。
出かける予定もないのに、毎日、化粧を欠かさず綺麗な奥さんを努めている洋子に、一男は頭が上がらない。
そんな自分に浮気の影を感じつつも、温かな家庭を築く努力を怠らない洋子に対して自分ときたら、と一男は我ながら呆れてくるのだった。
『誤解は必ず解くから』と心で謝罪した。
現在進行中 月曜日 会社の食堂 豪華なお弁当
週が明けると、アルコールにまみれ、倦怠と怠惰に溺れたサラリーマンが最も嫌う月曜日が、やってきた。一男も同様、気の抜けた炭酸飲料のようで、午前中を得意先リストのチェックという生産性のない業務で、何とか乗り切った。
昼食の時間になると、日課として一男は相沢と二人で食事をとるようにしていた。
社員食堂の奥で向かい合ってお互いの弁当を広げあう。遠足や運動会のような新鮮さはなく、戦中の侍同様、腹ごしらえ程度のはず、だった。
「その後、どうなったんだ」と相沢が水を向けてくる。その後とはおそらく洋子のことだろうなと一男は思った。
「洋子はお料理教室に通い始めた」隣のテーブルで仲良くかき揚げうどんを食べているパートの三人の女性が一男に視線を向けた。あら娘さんの習い事かしら、将来きっといいお嫁さんになるわね。と無責任な妄想を膨らませた。
「旦那を見限って、新たな出会いを求めてか?」けたけたと笑う。隣の女性たちは一様に顔を曇らせ、苦い表情でうどんをすすり、なんだ、数年前に流行った、『昼顔妻』というやつか、とさらに妄想を肥大化させた。
「ちがう、弁当のレパートリーを増やすためだ」一男はわざと声を張った。カカカっと相沢は笑う。
一男は弁当包みを二つ、テーブルの上に置いた。相沢の弁当といえば、『打倒大型スーパー! 価格破壊に挑戦中!』なる過激なキャッチフレーズを武器に、都内に数店舗展開している中小スーパーの弁当であった。
安っぽいプラスチック容器の中には、ご飯と総菜がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。五百円の弁当が半額以下で売られていることもさることながら、弁当の栄養バランスまで破壊されているなと、一男は傍から見てそう思った。
サイコロステーキ、ポテトサラダ、インゲンにオムレツ、挙句の果てに筑前煮まで入れられており、随分と雑な和洋折衷だなと一男は呆れた。
「また昨日の値引き弁当か?」一男が聞く。
「一人暮らしなんだから仕方ねーだろ」一人暮らしに社会的な制約があるかのように、相沢は愚痴った。
「そんなんじゃ、そのうち身体壊すぞ」
「そんときゃそんときだ、独り身だし気楽でいいじゃないか。誰にも心配されずにのんびり入院するさ」相沢のセリフは、さも入院することが幸福のように聞こえるから不思議だった。
クレーム処理の部署で毎日、受話器越しの怒声を浴び、ときには会社にまで乗り込んでくる取引先もいた。
たとえ営業部や販売部のミスであっても、裏方に回る相沢たちの部署がクレーム最前線に立ち、会社の弾除けとなりクレームという銃弾を浴びているのだ。
彼にしてみれば、入院しない限りは本当の意味での休暇はやってこないのかも知れない、と目の前に座る相沢の身を案じた。
「会社にとっては重要な人材だし、俺と洋子にとってはかけがえのない友人だ。バカなことを抜かすな」
「臭いことを抜かすなよ」
「本当だ、決してお世辞や気休めの類じゃない。世の中はきっと幸せでありふれてる」
「俺にはそれが見つからないってことは、別世界にでも住んでるのか?」相沢はインゲンを口に放り込み、乱暴に口を動かした。コリコリと咀嚼音が鳴る。
「お前は良いよなー、毎日お弁当も作ってもらえるし。今日だって豪華そうじゃないか」相沢は割りばしで一男の前に置かれた二つの包みを指した。
どちらも色合いが似ていて、一見して見分けがつきそうもないが、それぞれの趣向が出ているなと一男は感じた。
一つ目、青い花柄の包みからは見慣れたいつもの二段弁当が包まれていた。
二つ目、青い鳥の包みからはスヌーピーの可愛らしいタッパーが出てきた。
「昨日な、洋子が料理教室に行ってきたんだ。習ったことをすぐに実践したいんだってさ」何とはなしに一男は相沢に語った。
いつもとは少し違う状況で、相沢が怪訝な顔をするのが目に見えて分かったのだ。訝しがる相沢をやり過ごすには嘘と本当を混ぜるのが一番だと、一男は判断した。
「何を作ったかは、開けるまでの楽しみしておいてね。って釘まで刺されたよ。お弁当が楽しみなんて、いまどきの小学生でも無さそうだよな」とは言ったものの、毎日のように入っていたエビフライやプチトマトが入っていないとわかると、一男の心は少年のような無邪気さで満たされていった。
「泣けるねぇ、洋子ちゃんの頑張りが胸に染み入る。染み渡る」
「あぁ泣けるよ。先週はほぼ、エビフライとトマトがメインだったからな」一男はさらりと言った。
「そりゃお前、洋子ちゃんだってたまには手抜きくらいしたいものだろ。朝早く起きてその弁当箱にせっせとエビフライを詰めこむ姿を想像してみろよ、有難くて涙が出るだろ。俗にいう朝なべだ」サイコロステーキを口の中に頬張り、味を評するかのようにしみじみと相沢は言った。
「違う、決してエビフライは手抜きなんかじゃない」と一男は言いかけて、止めた。
浮気調査の番組を見て以来、洋子は得体のしれない不安に駆られていた。リビングのごみ箱に昆コンビニのレシートを捨てると、何を買ったのか調べ始める。ペットボトルを二本買おうものなら、彼女と二人で飲んだんでしょ? と問い詰められもした。
それ以後、探偵の入れ知恵により、エビフライとプチトマトが弁当の入るようになっていた。やましいことなど何ひとつしていない。洋子の不安の根源がどこにあるのか、恐察するしかなかった。
ただ一つ言えるのは、早くこの誤解を解くためにも、今日の昼食は重要な任務でもあった。オペレーションランチ。
一男は恐る恐る弁当のフタに手を掛けた。鬼が出るか蛇が出るか、神妙な面持ちでふたを持ち上げる、プシュッと充満していた空気が吐き出され、飛び出してきたのは肉の香り、デミグラスの香りだった。
「ハンバーグか」相沢の喉元がうねった。唾をごくりと飲み込んだ。
「凝ってるな、わざわざお弁当に入れるなんて」一男も満更でもない笑みを浮かべてみせた。隣のおば様たちもかき揚げうどんだけでは物足りなかったのか、通い妻ならぬ、料理教室通いの妻が見せた渾身のハンバーグにのどを鳴らした。
「そっちのタッパーも開けてみろよ。ハンバーグにはパスタかグラタンって相場が決まってるだろ」相沢の言う通り、タッパーにはそれなりの重みがあった。
ただ、タッパーの底に溜まるような重量感はなく、複数の個体が箱の中で右往左往してるような感覚があった。
ふたを開ける直前、かもしれなかった。予感とも、既視感ともいえる感覚に一男は襲われた。それとほぼ同時に、タッパーの中から同じ香りが漂った。
まさかな、と思いつつふたを取り払うと、中から二つのハンバーグが目玉のように無言の圧力を二人に向けていた。
「ハンバーグ三つは、さすがに多いよ、な」相沢の同情的な視線がハンバーグと一男に注がれる。タップリと掛かったデミグラスソースと生クリームには罪はないはずだが、この昼食に関していえば、許しがたくもあった。
「お前も食べるか?」一男は咄嗟をよそおい、相沢に伺った。むしろ初めからそう言おうとしていたつもりなのに、アクシデントに見舞われ、パニックに陥った思考が巡り巡って、素朴な答えにたどり着いた。
「え、良いのか?」
「一人じゃ食べきれそうもない」元来、小食がちの一男ならではの言い訳であったが、それを洋子も把握している。その辺の配慮に欠けるはずがないと相沢でも知っていた。
「この間の健康診断、BMI値が低かったせいか、洋子が心配しだして急に、『もっと食べて!』って言われたんだよ」
「お前は何からなにまで、洋子ちゃんに心配をかけるんだな」
「余計なお世話だ。別に夫婦なんだから良いだろ。お前こそ早く恋人を見つけて食事の心配でもしてもらえよ」一男はタッパーからハンバーグを取り分け、相沢の弁当のフタの上に置いた。
「それこそ余計なお世話だ」
「味のクレームはうち会社の品証部に言ってくれ。言っても解決はしないと思うけど」
「その言い方は、俺と洋子ちゃんに失礼だぞ」さっそく箸をつけようとしていた相沢の手がぴたりと止まった。
「冗談だよ」と一男は含み笑った。心の中では、「味の保証は本当にできないんだ」とつぶやいた。「どうだ? 美味いか?」
「なんだこれ、メッチャ美味い! こんなハンバーグいままで食べたことないぞ」口端にデミグラスをつけながら相沢は唾を飛ばし、あっという間にぺろりと一個、完食した。
その食べっぷりに触発され、一男もお弁当箱に入ったハンバーグを口へ運んだ。一口かじると肉汁があふれ出す、調理したてのような柔らかさとジューシーさであった。
「うん、これは美味しいな」一男も唸った。あっという間に一男もたいらげた。ハンバーグはタッパーに入った残り一つとなり、一男はそこで提案した。
「良かったら残りの一個も、相沢にやるよ」
「え、なんで?」自ら美味しいと口にしたにもかかわらず、同僚により多くのおかずを差し出すのはいささかおかしいだろう、と相沢は思った。
「俺は今食べた一個で、充分だ」無論、もっと食べたいという欲求はあったが、相沢の手前、それは辞退すべきだと一男は考えた。
「さっさと食べちゃえよ」一男が促すと、「サンキュー」と相沢は答え、またぺろりと平らげた。
このまま空っぽのお弁当箱を持ち帰るだけでは盛り上がりに欠けるような気がしたので、一男は洋子に写真を撮って送ろうと思いつき、iPhoneのカメラを起動させた。
「そんなの写真に撮ってどうすんだ。インスタに挙げるなら食べる前だろ」
「洋子に送るんだよ、美味しかったって意味で」
パシャっとシャッターを切る。ディスプレイを確認する。バッチリに映った空のお弁当箱に一男は満足する。画像を送信する。ピロリーン、直ぐに洋子から返信が来る。
「お、反応はどうだった」相沢が確認する。
『その見覚えのない青い鳥のお弁当包みは、いったい何なの?』という文面が画面の中から飛び出す。
「帰ったら、褒め殺しに遭うかもしれない」一男の心が折れる。
一男は帰宅早々に、絡まれた。薄暗い夜道や公園の公衆便所など、物騒なトラブルの巣窟でではなく、自宅の玄関先でのことだった。
スーツの胸倉を掴まれ、捩じられ、罵られていた。
「あんた、本当にいい加減にしなさいよ。誰と浮気してんのよ!」洋子の声は荒ぶっていた。荒波のようにその感情は大きくうねり、波状となって一男に襲い掛かってきた。
「浮気なんてしてないよ」一男にはそう言うしか選択肢はなかった。認めるような事実も、その場しのぎの弁明もするつもりはなかった。
「先週からあんたの行動がおかしいのよ。フラッとどこかに出掛けるし」なるほど、と一男は場違いな違和感に気付く。
洋子は興奮すると、「あなた」が、「あんた」へと変わるのだな、と。結婚して一年を迎えるにあたり、また新鮮な気持ちになれた。
怒りをあらわにする洋子も美しかった。勝利の女神、かのジャンヌダルクすら凌ぐ、気品と情熱を洋子は纏っていた。恋愛にかける彼女の想いはきっと誰にも引けを取らないのではないかと一男は気づき始めた。
「それは誤解だよ」一男はやんわりと答える。
「ほら出た誤解! 政治家の、『記憶にございません』と、浮気夫の、『それは誤解だよ』ほど信用できないものはないわ」洋子はそれこそがこの世の真理と言いたげな、苦々しい表情を浮かべた。
「じゃあなんて言えばいい、本当に俺にはやましい事なんてないのだから」当然と胸を張ることも、びくびく相手の様子をうかがうこともせず、淡々と一男は答える。
「先週の日曜日はどちらへ行かれてましたの? あんた確か、会社に賊が入ったって言ってたわよね」
過去 先々週の日曜日 自宅
小春日和の空に巻雲がゆったりと流れ、咲き綻んだ桜を堪能しているようでもあった。昼食を取り終えたばかりの一男は、リビングのソファでコーヒーを啜っていた。柄にもなく小説を片手にくつろいでいると、一男のスマホに着信が入った。
不明な発信者からです。とsiriが簡潔に報告をする。
結婚してからというもの、一男は友人との付き合いにあまり顔を出さなくなり、「人生の先輩としてたまには奢れよ」と飲み会にちょこちょこと誘われてはいたが、相手もそれが形式美としての言葉だったのか、そのうち誘われる回数も減った。そのため電話が鳴るのは決まって、会社から連絡だった。
訝し気な様子で、カウンター越しに洗い物をしていた洋子が一男を盗み見た。不明な発信者というワードは、妻にとっては注意せざるを得ない人物と同等の意味があった。
「はいもしもし。田嶋ですが」知らない番号だが社会人として、営業職勤めとして、自然と丁寧な口調で応対する。
家の中で個人の携帯だというのに、プライベートの欠片もない態度だと、一男は苦笑したくなる。
「もしもし先輩、私です。ミドリです。もし良かったら今からバードウォッチング行けませんか?」
「なんだ」と一男は言葉に詰まる。そのあとに続けようとした、ミドリちゃんか、という言葉に洋子の不信感が爆発するのではないかと想像し、「土方さんか」と、なんとか苗字で誤魔化した。
二日前、浮気調査の番組をみて以来、洋子の様子は明らかに変わった。一男が電話をしようものなら大好きな野球中継を止めてでも聞き耳を立てはじめるのだった。
聞かれてはまずいことなど一男にはなかったが、電話の相手が女性ともなると、自分で防衛ラインを上げてしまった。
「どうしました? 突然に」電話の相手をミドリだと悟られないように、一男は口調を硬くした。
「先輩こそどうしたんですか、その口調。気味悪いんで止めてくださいよ」
「いえ、大丈夫です。続けてください」
「全然大丈夫じゃないです。気持ち悪いです」とミドリが可笑しそうに電話越しで笑っていた。
キッチンでは洋子が静かに立ち尽くし俯いてるのが見て取れた。先ほどまで聞こえていた食器を洗う音が聞こえず、手元も止まっているように思えた。すべての音を殺し、聞き耳を立てているのが明らかでもあり、一男は自分の鼓動すら洋子の耳に届いているのではないかと心臓が止まりそうになった。
「どういった要件でしょうか」一度始めてしまったからには後に引き返せず、辻褄を合わせるようにミドリとなんとか会話を続ける。
「まぁいいや。先輩、私が入社した時、言ってましたよね? 悩みがあれば相談に乗るって。あれは今でも有効ですか?」
「記憶は定かではないんですが、ご相談となると現在の状況では、如何ともしがたいと言えます」一男は未だ微動だにしない洋子に注意を払い、ミドリにどうにか察してもらおうと必死だった。
「曖昧な記憶のまま話すの止めてください。今日は来てくれるだけでいいんで」性急にまくし立てるミドリに一男は気圧されそうになる。中間管理職さながら、洋子とミドリの狭間で最善の選択を迫られていた。
「緊急事態ですね。分かりました、支度してそっちに向かいます」一男は仕事以上に、疲れていた。
「どこかに出かけるの? 遊び?」不審そうに洋子が訊ねてきた。電話口の相手の声は聞こえなかったが、一男の口調から相手に面識を持った人物だと判断した。
「会社が大変なことになってるらしい。行かなきゃならない」
「大変って何よ。そもそも今日は休日でしょ、営業職のあなたには出番はないはずよ」
「明日大事なプレゼンがあって、そのために作成された重要な書類が紛失したらしいんだ」
「まさか盗まれでもした?」
「産業スパイかも、社外秘扱いの書類だし、営業部の存亡がかかってる」こうなればやけくそだった。一男は溌溂とうそぶいた。
「盗賊にでも入ったのかしらね」洋子もただ事じゃないわね、と眉間にしわを寄せた。
「トウゾクカモね」
「え、冗談でしょ?」
約束の場所は会社の最寄り駅を一つ過ぎた、市民公園がある郊外だった。改札を出るとミドリが首に双眼鏡をかけて待っていた。
「待ったか」一男が右手を上げる。
「なんでスーツなんですか」
「会社に盗賊が入った」
「どうせ奥さまに、トウゾクカモメとかつまらないギャグでも言ったんでしょうねっ」なんでもお見通しという表情で、ミドリは呆れた。会社とは違い、スーツを脱ぎ捨て身体にフィットした動きやすい装いでミドリはベンチで座っていた。桜の木を中心に円形の木製ベンチが置かれ、真上から花弁が端倪すべからざる動きでひらひらと舞っていた。
「ギャグじゃないよ。反射的に出てしまうんだ。で、なんの相談だ。妻に不審がられてまで来たんだぞ」落ちてくる花弁に惑わされてか、一男の心も次第に不安と恐怖に揺り動かされる。俺は取り返しのつかないことをしているんじゃないか、と。
「それは大変申し訳ないと思っています。では早速。実はですね、ちょっとご協力をお願いしたい事柄がございまして」ミドリは平身低頭し一男に頼み込んだ。
「面倒なことじゃないだろうなぁ」
「今はまだ、言いだせる勇気がなくて」ミドリは双眼鏡を、ギュッと握りしめた。うつむくミドリの頭に花弁が舞い落ちた。
「あぁ、それでバードウオッチングなのか」一男は花弁をつまみ言った。ミドリは大きな決断を迫られたときは必ずバードウォッチングに繰り出し、希少な野鳥を見つけられたら行動を起こす。という決め事を自らに課していた。
「君もなんだかんだ言って、その癖は直ってないんだな」
「これは癖じゃなくて、ジンクスです」一緒にしないでください。と言いたげな視線をミドリは向けてきた。一男は、アヒルと鴨に違いがないこと同様に、俺たちもさほど変わらないよと言ってやりたかった。
「分かった。じゃあそのジンクスを託すのはオオルリでいいよな」
「幸せの青い鳥、ってことですね」ミドリが俄然やる気を見せたことに、一男はいささか驚いた。
「相談って、もしかして恋愛か?」
「先輩。やる前から言い当てるのは無粋です」
現在進行形 火曜日 居酒屋にて
「急に呼び出しといて、なんなんですか」席に座るなり、ミドリは苦言を呈した。今日はカルチャースクールの予定があったのに、とも言った。「先輩みたいに家に直帰するほど、暇じゃないんですから」
「仕事が終わればすぐに帰る。これは常識だ」一男は枝豆をつまみながら後輩を一瞥した。二人は行きつけの居酒屋で待ち合わせをしていた。
「先輩の常識はちょっとズレてるんですよ。部長が頭に乗せてるアレと一緒です」四人掛けの席に付き、ミドリは持っていた荷物を自分の隣の席にドンと置いた。
「君にはデリカシーってものはないのか」」一男は容赦のない後輩女性に慄いた。もしかしたら自分のことも陰で噂をされているかもしれないと思った。彼の奥さんは毎日お弁当にエビフライを入れているのだ、と。
「みんな口にしないだけで誰もが思ってることじゃないですか」とミドリは言い、一男の枝豆を奪った。
「うちの奥さんはエビフライ以外にもちゃんと作れる」
「何の話ですか? ところで、どうしてこんな所に呼び出したんですか。早く理由を説明してください」
「実は、会わせたい人がいる」
「え、え! まさか」
「そのまさか、だ」一男はニヤッと笑った。
「やっぱり先輩は頼りになる。行動力有りますよね、先輩って」ミドリは揚々とした気分で店員を呼んだ。生ビール二つで! とウグイスが鳴く。
「そんなに嬉しいのか?」
「そりゃ、初めは緊張しますよぉ。でもこれからを共にするなら、それも乗り越えなきゃダメですもんね」
「そりゃ頼もしい限りだ。たぶん、そろそろ来る頃だと思う」一男はスマホを見やり、時間を確認した。連絡らしい連絡はないが、約束は守るはずだ。そう念押しして朝、一男は家を出てきたのだ。
それから数分のこと、洋子が店に現れた。
「その子、誰」洋子は席を見つけるなり、一男と向かい合って座っているのが女性だと気付き、憮然とした。背を向けて顔は見えないが自分より幾分若そうな雰囲気が洋子には伝わっていた。
「後輩のミドリちゃんだよ」一男はお互いの挨拶を促す。ミドリに向かっては、妻の洋子だ、と紹介する。
「は、初め、初めまして」恐る恐るミドリは振り向いた。
「どーも、田嶋一男の妻を努めさせて頂いております、田嶋洋子と申します」顔には一切の表情も浮かべず、洋子は冷徹に言い放った。
氷の微笑さながら、シャロン・ストーンでさえこの美しさは表現出来ないだろうと、一男は思った。
さすがに先輩の妻といえども、威嚇されてはミドリも泣き出してしまうのでは、と心配したが一男の思いとは裏腹にミドリは洋子の顔を認識すると驚きの声を上げた。
「え、えぇー」店内に響き渡る声は、聞く人々の胸をすくような爽快さもあった。
「なんだよ急に、どうしたんだ」一男はたまらず訊ねた。
「え、あなたは、先輩の奥様だったんですか?」口をパクパクと動かし、ミドリはどうにか言葉を紡ぎ出した。
「あ、あなたもしかして、土方さん?」洋子も記憶の引き出しを漁り、つい最近の記憶、からその名前を思い出した。
「わっ、奥様は一男先輩とは違って、ちゃんと人の名前を覚えられる人なんですね」とミドリは余計なことを口にする。
「二人は、知り合い、なのか?」
「ええ、多分」ミドリは言う。
「そう、多分」重ねて、洋子も言う。
「で、土方さんがあなたの浮気のお相手なの?」洋子は落ち着きを取り戻したのか、自分の得意なフィールドで戦いを挑むような戦術家に見えた。知り合いならやり易いわとも言いたげな表情だ。
「いや、違う。そんな関係ではない」
「そうですそうです。私みたいな女をわざわざ浮気相手に選ぶなんて天地がひっくり返ってもあり得ない事です」ミドリは顔をブンブンと振り強く否定した。恐れ多いと、床にひれ伏す勢いすらある。
「あらそう? 土方さんみたいな可愛らしい女の子なら、誰だって付き合いたいと思うけど。料理教室も、『花嫁修業の一環です』って言っていたじゃない。一男の為じゃなかったのかしら」
「あぁ、どおりで同じハンバーグだったわけだ」合点がいったと頷いたとき、一男は自分で傷口を広げているとは思いもよらず、得意げな笑みを浮かべていた。
「え、どういう事?」と洋子とミドリが口をそろえた。そして互いに見つめあい、黙読しあう。どういうこと、と。
「え? あ、いや」事の重大さに気付き、一男の言葉は濁った。
「どういうことですか? ちゃんと食べさせるって話でしたよね」あれほど強固だった同盟を反故にしたのかと、言わんばかりの熱量でミドリは一男に迫ってきた。
「約束は守った。男として二言はない、ちゃんと美味しいって伝えただろ」同盟は強固なものだ、と説明に追われる日本の総理のように、一男もやり返す。
「へーそう。土方さんのハンバーグ食べたのね。あの青い鳥のお弁当包は彼女のものだったのね」これで確信したわ、と洋子は大きく頷いた。
「いやいやいや、それは違う。俺が食べたのは洋子のハンバーグだ」
「私のハンバーグはどうなったんですか!」と、今度はミドリが一男を攻め立てる。ハンバーグを巡り二人から追及を受けていると、なんだかハンバーガーみたいだな、と場違いな考えが浮かんだ。いやいや、そうじゃないだろう。ここはちゃんと説明しないと、と思うのだが、一男の手札の中にはまだ一発逆転のカードが届いてなかった。
「ちょっと、落ち着こう。二人の作ったハンバーグは、ちゃんと食べて欲しい人の胃袋の中に、おさまったんだ」釈明したつもりが、どういうわけか伝わりずらい表現になってしまった。
「私のハンバーグ、食べたの?」
「もちろん、食べた。美味しかった」
「私のハンバーグ、食べました?」
「食べてないけど、美味しかったみたいだ」
「はぁ?」二人は毒気を抜かれたように息を漏らした。
その時、待っていたかのように、一男の手札は揃った。起死回生のロイヤルストレートフラッシュ。
「あれ、洋子ちゃんも来てたの? それに、君は確か田嶋の後輩、だよね」ネクタイをだらしなく緩め、薄らと無精髭を生やした相沢がやってきた。日々のクレーム処理業務に疲弊しきった様子でもある。
「え、相沢くんも呼ばれたわけ?」洋子は二人の共通の友人である相沢の登場にますます疑いを深めた。
三角関係のトラブルを解決する話し合いの場に友人を据え置くことは、常套手段でもある。両方の肩を持ち、時には一方を責め、最終的にバランスを取る役目なのだ、と洋子は警戒を強めた。
「お、お疲れ様です」ミドリは視線を外し俯いた。
空いている席がミドリの隣だったので、自然と相沢はそこに座る。
「無理言って悪かったな」
「まぁ、深刻なお悩みがあるって言うもんだから、仕事も手につかなくてよ」
「どうせ仕事が面倒くさくて抜け出してきたんだろ」一男は付き合いの長い、同僚然としたところを見せる。
相沢は店員を呼びレモンサワーを注文した。ミドリのジョッキが空になっていることに気づき、何か飲む? と訊ねると頬を赤らめて、同じ物を、と答えた。その微笑ましいやり取りに一男もつられて微笑む。
隣に座る洋子はその横顔を叩きたくなるほど、苛立っている。
「いい加減、みんなをここに呼んだ理由を話してくれない? 旅行の計画でも立てるわけでもないでしょ」
「最近、お前達の仲が不穏だって聞いてたからよ、心配はしてたんだよ。でも洋子ちゃんは毎日お弁当作ってくれてたし、この間のハンバーグなんて絶品だったよなぁ。こんな奥さんが居てくれるのに、お前は何やってんだ?」相沢はチラリと隣に座るミドリを見やる。ここに会社の後輩が居るということに、少なからずの違和感を覚えたらしく、一男の浮気相手という懸念が相沢の頭の片隅にはあった。
「ハンバーグ、美味しかったですか?」ミドリが相沢に訊ねた。
「え、ハンバーグ? うん、あれは毎日でも食べたいなぁ」その味わいが今でも舌に残っているかのように口をつむぎ、相沢は答えた。
「なんなら毎日でも作ってあげましょーか? でも、ハンバーグ一つを二人で分け合ったわけ?」洋子が怪訝そうに聞いてくる。一男は頭を振った。
「だから、さっきから話してるだろ。それぞれ食べてもらいたい人に、ハンバーグは食べられたって」一男は呑み込みの悪い生徒に必死で教えるよう、熱心に説明をした。
「ん? なんか話がよく分かんないんだけどよ、あの時食べたハンバーグが何かあったのか?」
「だから相沢の食べたハンバーグは青い鳥の包みに入った、二つのハンバーグだ」
「あぁ、スヌーピーのタッパーに入ったハンバーグだ」
「俺が食べたハンバーグはお弁当箱に入った一つだけだ。つまり俺は洋子のハンバーグを、相沢はミドリちゃんのハンバーグを食べたわけだ」ノーベル賞もかくやというような一男の説明でも三人は表情を硬くしたままだった。
「で、それでいったい何が言いたいわけ?」と洋子は一男に詰め寄った。「それがあんたと土方さんが親密なことと何の関係があるわけ? あの写真の青い鳥のお弁当包は、土方さんのだったのよね。でも、なんでそれをあなたが持ってたのよ、おかしいじゃない。本当はいつも一緒にお弁当食べてるんじゃないの、二人で。やっぱりトマトはあんたが食べてるんじゃなくて、土方さんに食べてもらってるんでしょ」洋子は興奮しだした。矢継ぎ早に喋るそのさまは、親鳥の帰りを待ちきれないせっかちなヒナドリのようだった。
「あの、違うんです! 私が頼んだんです。相沢先輩に、食べて欲しくて…」
居酒屋の店内は
その一角で男女の集団が談笑にふけり思い出話に花を咲かしていた。
「まさか、どうして俺なんかに」信じられない、といった表情で隣に座るミドリを見ながら相沢は言った。
「いつも一男先輩から話を聞いていて、素敵な人だなって、会社でたまに見かけるとやっぱりかっこいいし。そしたら相沢さん、いつもお昼はスーパーの値引き弁当だっていうから、私が手作りのお弁当作って、栄養管理もちゃんとしてあげたら、助かるかなって思いました」ミドリは俯きながら言った。俯いてるわりには感情を隠すことなくハキハキと喋るものだから相沢の方が顔を赤らめていた。その様子に一男と洋子は顔を見合わせて笑った。
「片思い的な」一男が茶化す。
「まんざら、両想いかもよ」と洋子が輪をかけて茶化す。まるで中高生の冷やかしのようでもある。いい大人が揃って照れている様は、既婚者の二人にしてみれば、人生の先輩として、高みの見物なのかもしれない。
「あのなそうやって俺らのことをやいやい云うけど、お二人さんの時だって、そうとうヤバかったんだろ」と相沢はやり返した。
「さぁ? そんなことあったっけ?」一男が洋子に訊ねる。
「記憶にございません」と洋子はとぼける。
しばし二人のぎこちない会話を眺めていると、一男は思いのほか鮮明に洋子と出会った日のことを思い出すのであった。
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