恋愛ディスプレー
月野夜
1
太陽は東から昇り、西へ沈む。これは常識だ。
彼女曰く、「同じ場所で太陽をずっと眺めていない限り、『あぁ、昇ってきた』なんて気にしたりしないわ」という。
海水が塩っぱいのは塩分が含まれているから。これも常識だ。
彼女曰く、「たとえ海の水が甘くても、あなたの仕事には支障がない。あなたは文具メーカーのセールスマンなんだから」という。
リンゴは、地球の万有引力によって木から落ちる。これも常識だ。
彼女曰く、「そんな理由でリンゴが木から落ちるんじゃ、農家さんも堪ったもんじゃないわね」という。
そして往々にして、「で、それでいったい何が言いたいわけ?」と彼女は締め括るのだ。
現在進行中 金曜日の明け方
目が覚めると、田嶋一男は無意識という習慣によって、サイドボードに置いてあるiPhoneに触れた。
スマホの液晶が明るく光り、申し訳なさそうな光で部屋を照らし、また申し訳なさそうにパスコードを一男に要求してきた。男女ならば、お互いの信頼関係に支障をきたすような要求でもあった。
有無を言わさずあなたは誰なの? と問い詰められ、素性を明かして欲しい、と迫られているようでもある。
昨日までそんなことなかったじゃないか、と駄々をこね女々しい態度をスマホに対して取るのもどうかと思い、一男は素直にパスコードを入力した。
たったの1秒でロックは解除された。春の訪れとともに山岳の雪は解けるが、人とスマホとでは数字四桁でいともあっさり解けるのだった。
ただ一つ、一男には謎が残る。どうしてパスコードが要求されたのか。
登録されていない指でホームボタンに触れれば認証がされない、それが数回続くと次はパスコードを要求してくる。自分でそこまでした覚えもなく、首を傾げた。
持ち主以外の人がスマホのロックを解除するのであれば、スマホにパスコードの要求を逆に要求しなくてはならず、適当な指でホームボタンに触れたのだろう、と一男は推察した。
隣で静かに寝息を立てている愛妻を見る。寝ながらにして、「だって、フェアじゃないでしょ」と言っているような気が、一男にはした。
浮気を調査するなら自力でやって、自力で証拠を見つけて、あなたの眼前に突きつけるわ。そう宣言されたのが、一週間前の話しだ。
短いようで長い一週間、その間、やましいことは何一つないと自分に言い聞かせていた、コンビニエンスストアでアダルト雑誌を買うときのような心境に近いものがある。
調査らしいことをしてるような素振りも見せなかった妻が、忽然と浮気調査の痕跡を一男に突きつけた。
「ズルが嫌いなのは良くわかるけど、露骨じゃないか」と妻に向かってぼやく。
「ヘタで悪かったわね」と妻が下唇を突き出し、反論してきたように思えた。
「洋子は、ヘタなんかじゃない」一男は静かにつぶやいた。
過去 一週間前の金曜日 自宅 エビフライとプチトマト
「トマト食べられるように、なったわけ?」不機嫌さを隠さず、妻の洋子が一男に訊ねた。
「うん、洋子のおかげかな。トマトがあんなに美味しいことに、なんで今まで気づかなかったんだろう」一男は妻の不機嫌さを訝しがりながらも、心の底からの感謝の意を口にした。
「そんなに簡単に人は成長しない。ありえない」洋子は、それこそが真実だといって憚らない、進化論を否定する学者のようでもあった。
「そんなことはないよ、洋子が毎日お弁当を作ってくれてたからこそ、食べられるようになったんだ」事実、一男はトマトの酸味が苦手で敬遠していた。
流石に二十代半ばの青年に、好き嫌いは良くないですよ、と諭す世話好きなど周りにはいなかった。
しかし妻の洋子は根気強く、「好き嫌いは身体に良くない」と一男を説得し、一男もそれを受け入れた。
洋子の説得には、「遺伝子的にも影響するみたいだし。そうなったらなんか嫌じゃない」と続きもあった。
一男には、好き嫌いは身体に良くない、と体調を気遣って貰えたのだなと一瞬思ったが、好き嫌いの遺伝子が子供に影響することの方が嫌だと言われたことに、ショックを覚えた。
「まぁそれぞれのタイミングなんだがな、重要なのは。早けりゃ良いってもんじゃない。が、遅けりゃ良いってもんでもねぇ」とは父の言葉だ。実家から電話が来るたび、死ぬまでに孫の顔が見れればいいと話し、最終的に先ほどの言葉を口にして電話を切るのだ。
「そんなことを言うくらいなら黙って見守っててくれよ」と切れた電話に一男は何度かぼやいた。
かくして、親からのプレッシャーも重なり子供の為ならとトマトを食べる決意が、子供よりも先に生まれてくれたのだ。
後日、一男はトマトを食べきれた。散々、酸っぱいだの苦いだのとこき下ろしていたトマトが、ほんのりと甘かったことに少し驚いた。それからは何不自由なくトマトは食べられている。
「洋子が食べるように勧めたんじゃないか。それを食べられるようになったからといって不機嫌になることじゃない」さすがに妻の態度はおかしいと思いはじめ、一男も臨戦態勢を整える。
「じゃあなんでトマトの蔕が入ってないの」
「トマトの蔕って、あの緑色の」と一男は指をつまむようにして、洋子に聞いた。
「そう、なんでお弁当箱に入ってないの」洋子にとっては浦島太郎が玉手箱を開けると煙が出てくるように、持ち帰った弁当箱にも蔕が入って当然だと思っているらしい。
「そんなの会社で捨ててるし」これは嘘だった。実のところ一男はトマトを食べれたこと、苦手を克服できたことへの達成感から、トマトの蔕をコピー用紙にテープで貼り付けていた。
微妙な嘘は、ほとんど誤りに近い、と誰か言っていた。
学校で出来の良かった答案用紙を眺める生徒のように、トマトのヘタが張り付けられた紙をみてうっとりしていた一男に、「自社の製品をそんな風に使うなんてお前はバカか」と同僚が叱った。
「トマトは食べてるし、蔕はちゃんと捨ててる。洋子はなにがそんなに気に入らないんだ」俺の好き嫌いを克服させたのに喜びはないのか、とも言った。
「それは嘘でしょ。あなたみたいな人が会社でトマトの蔕を捨てることは、絶対にないわ」トリックを見破ったとでもいうような余裕をみせて、洋子は続けた。
「エビフライよ」洋子はこらえきれずに噴き出して笑った。
「あぁ、エビフライか」一男もつられて笑う。二人の共通認識として、「エビフライ」は面白い思い出の、キーワードだった。
「あれは傑作だったわ。まさかお弁当箱の中にエビの尻尾が入ってないなんて、思わなかったもん」洋子はトマトのヘタ同様、エビの尻尾が弁当箱の中にはいっていなかったことを、そのとき不審に思った。
「俺はエビフライの尻尾も食べるからな」
「身体にいいとは思えないし、味も美味しいとは思えないんですけど」その当時、洋子は気色悪いだとか不愉快だとは言わず、身体にいいものだけ食べてほしいから止めるように一男に懇願していた。
尻尾を食べることに関して、洋子は了承をしたものの、やはり今でもわだかまりとして頭の隅で、浴室のカビように表に出さずとも根を張り巡らせている。
「あれ以来、お弁当にエビフライが入っていれば、尻尾はキチンと残しているだろう?」一男は洋子との約束を忠実に守っていた、忠犬ハチ公さながら、自分を利口だと褒めてやりたい、と。
「それと同じよ、何でトマトのヘタがお弁当箱に入ってないのよ。おかしいじゃない」
「だからそれは誤解だって」一男はエビフライの一件がまたやってきたと、少しうんざりした。
その夜、エビフライの尻尾同様に、洋子は納得したとは言えない心持ち、不承不承という感じで一男の言い分を受け入れた。
晩御飯も済み二人してリビングのソファに座って、ドキュメンタリー番組を見ていた。平日の夜に放送するにはなかなかスリリングな内容で、旦那の浮気を暴くという、一男にはいたたまれないような番組だった。
浮気調査を専門とする探偵がサングラスとマスクで顔を隠し、浮気調査について軽々しく話していた。
「浮気が始まるタイミングには、様々ありますが」と考古学者のように浮気文明を語る講師然とした振る舞いを男は見せた。
「旦那さんの浮気の諸悪の根源は、性欲にあります」横で洋子が頷く気配がした。
「営みの回数が減ったなぁとか、単調になったなぁ、というときは、注意してください」横で洋子が自分の横顔を盗み見る気配を感じたが、一男は気づかないフリをした。
「いいですか、旦那さんが浮気性であるか見極める最良のポイントを、いまテレビをご覧の皆様にお伝えいたしましょう。先ほども申しました通り、諸悪の根源は性欲にあります」横にいる洋子がテレビを食い入るように見つめている。一男はその横顔をまじまじと見つめる。
こんなインチキ臭い男の言うことを真に受けるのか、と心配になる。
「晩御飯はエビフライにしてください。そうですね、彩り豊かにするのであれば、プチトマトも添えましょう」一男と洋子は一瞬、顔を見合わせた。
「性欲の強い男性は、エビフライの尻尾まで食べます。ムシャムシャとね。しかし、プチトマトのヘタまで食べるようなら、それは安心してください。何でも食べてしまう人間なんです。一番注意が必要なのはトマトのヘタを食べずに捨てる男性です。エビの尻尾は浮気相手、トマトのヘタは、奥さまです」
一男は叫んだ。「それは大きな誤解だ!」
現在進行中 金曜日 会社
金曜の早朝、定例会議に出席するのは各部署の新進気鋭の若手社員たちで、将来の幹部候補生と社内では噂されていた。
メンバーの中の一人に、一男と同期の相沢は、いた。
「で、なんだ。洋子ちゃんの浮気調査は失敗に終わったというわけか?」相沢は愉快気にいった。会議が退屈だったせいか、夫婦問題を抱えた友人の話に、解決すべき問題はここにあったのだ、とやる気を見せた。
洋子ちゃんと人の妻を気安く呼べるのは世界広しといえども相沢くらいだ。
「正確には、調査中、だな。現在進行形、INGだ」同僚の相沢に家庭内のいざこざを相談するには、それなりの理由があった。
「お前たち、なんだか似合いそうだから」と訳の分からない根拠を述べ、一男と洋子を引き合わせたのは、相沢だった。
過去 三年前
入社して二年目の春、安定した収入を得られるようになった安心感から、一男と相沢は揃って、「次は恋人が欲しいな」と酒の肴として恋愛について盛り上がっていた。
「近いうちに飲み会、セッティングするからよ」と相沢が息巻いているのを、一男はインチキ臭い宗教の勧誘を受けている気分で聞いていた。
女性との交友関係も広く、顔や、悔しいが頭の出来すら相沢に勝っているとは、一男は思えなかった。
わざわざ飲み会など催さなくても彼女の一人や二人、彼なら簡単に作れるだろう。自分は相沢の本命から外れた女性をあてがわれる役であって、主役ではないのだと、卑屈な考えをめぐらせもしていた。
飲み会当日、居酒屋に現れたのは、女性が一人、それが洋子だった。洋子は女子が自分一人だった状況を怪訝に思い、不機嫌そうな色を浮かべて立っていた。
「おい、どういうつもりだ」相沢の耳元で一男は囁いた。話が違うではないか、俺にだって女性をあてがわれるはず、選挙権が与えられるのと同じように、自分にも権利があるのだと一男は主張したくなる。
「早まるな、今日はお前のための合コンだ」と相沢は答えた。
「どういうことだ」
「お前たち、なんだか似合いそうだからさ」相沢はサラッと答えた。
「彼女には、説明したのか。なんだか不機嫌そうだし」ひそひそと会話を続ける男子たちに、洋子はさらに不機嫌の度合いを増していた。洋子の冷や水を浴びせてくるような視線に耐え切れず、一男は軽い会釈を送った。
彼女の機嫌次第では会が催されずこのままではお互いの名前すら分からずじまいとなりそうな雰囲気があった。
「これから話すさ」と相沢は緩く言った。はたして相沢がどのような口実で洋子をこの場に誘ったのか、一男は想像できずにいた。
「洋子ちゃん、待たせて悪かったね。これから三人で飲もう」
「三人? 一対二で始めるわけ?」凛とした声が鳴った。怒りや可笑しみもこもっておらず、ただ淡々と状況を把握することに努めた、理性のある声だ。
「そう、三人」
「フェアじゃない」ムスリと洋子がいった。
「フェア?」横から一男が口をはさんだ。合コンというのは少数側が主導権を握りやすくライバルも少ないことから好都合じゃないか、と一男は思っていた。その好都合な立場の洋子から異議申し立てがあったことに驚く。「どういうこと?」
「私は良いし、あなたも良いでしょう? でも相沢君は良くない」
「え?」
「相沢君が私とだけ飲みに行きたいなら私だけ誘えばいいだけの話し。私も相沢君と飲みたいなら二人だけで行きましょう、って合コンを断ればいいだけの話し。つまり私と相沢君は戦友であってお互いを意識する異性関係じゃないの。だからこの場では私とあなただけが異性の関係を築ける間柄ってわけ。じゃあ相沢君は今日どうするのって話になるじゃない」
「どうするの?」一男は相沢を振り返った。洋子に顔が見られない絶妙な位置で、顔が赤くなっている自覚があったからだ。
「ならいいんだ、二人がそれでよければ俺は帰らせてもらうぜ」一男の赤面をみて相沢はニヤついた。
「本当に、いいのか良いのか」
「良いんだよこれで。策士策に溺れず。俺の策略通りだ」と相沢は一男にだけ聞こえる声で囁いた。
「めぐり合う機会はこれからもあるだろうし、今回はお前たちに譲る」余った団子串を与えるような余裕を、相沢はみせた。食い意地が張っていたのは一男だけだったようだ。
「いつか埋め合わせはするよ」
「貴殿の恋愛について協力するに吝やぶさかではない」
「ヤブサメか?」
現在進行中 金曜日 会社
以来、相沢には頭が上がらず、なにかと洋子に関する相談に乗ってもらっていた。
「お前、本当に浮気してないんだろうな?」相沢が念を押すように訊ねてくる。階段を上りながらだらだらと話す。エレベータでは周りに聞かれるので、二人は決まって階段でそれぞれの鬱憤を吐き出していた。
「絶対ない」当然だ、と一男は胸を張った。
「お前は洋子ちゃんにゾッコンだもんな」いまどきゾッコンなどと口にする者がいるのだなと、希少動物を観察するように、一男は相沢を見た。
「とにかく、浮気はしてない」一男は断固きっぱり否定する。
「疑われるようなこともか?」相沢はごく自然に問いかけたに過ぎなかったが、一男はドキリとした。おタバコはお吸いになられますか、とレストランで訊ねられる気分だ。喫煙者でも禁煙席に座ることはできる。
「ある、わけない」一男は小さく否定した。浮気などはしてないが、疑いを持たれるような関係がここ最近になって、芽生えてきたからだ。
過去 二年前の会社
二年前、後輩の土方ミドリは入社してきた。小柄ながら清楚な顔立ちと、透き通った声。ウグイス嬢とキャンパス内では呼ばれ彼女自身そう呼ばれることに、まんざら気分を害してはいなかった。
「一男先輩、お久しぶりですっ!」階段の踊り場で溌溂とした声が鳴り、響き、一男の足を絡めるように止めさせた。
「君は、土方さん? だったよね、確か」と言い、一男は新入社員挨拶を思い出す。
「思い出そうとする努力は認めます。でも、せめてハッキリ思い出してから名前を出してもらえませんか」彼女は不服そうな表情を投げつけ、一男を非難した。
「あまり人の名前を覚えるのは、得意じゃないんだ」一男は申し訳なく、謝った。
「知ってます。私の名前も覚えられないで、ずっとヒナドリちゃんって呼ばれてましたからねっ」頬を膨らませ鳴き声を上げているようにも見えた。
「あぁ! ヒナドリちゃん!」そこで一男は、彼女が大学の後輩だと気づいた。まさにヒナドリからウグイスへ成長したように、彼女は大人の色香も備えていた。
「先輩、もう社会人なんですから人の名前くらいは、ちゃんと覚えましょうね。営業職ならなおさらですよ」ミドリが一男の背中をドンと叩く。力加減のないビンタに身体が傾く。
「恐縮です。でも、君がここに入社するなんて思いがけなかったな」
「憧れの先輩を追い求めて、ここまでやってまいりました」
「お世辞はいいから。先輩として何でも相談に乗ってやるよ」一男は照れ隠しをするように、鼻を掻く。
「本当ですかぁ。頼っていいんですかぁ」
「ホントウアカヒゲ」
「相変わらずですね、その癖」ミドリは苦笑する。
「人の名前をいつまで経っても覚えられない奴だって世の中にはいるんだ。人間そうそう変わらない」一男は胸を張った。
「威張ることじゃないし、そんな先輩には頼りたくないなー」あぁ私はなんて哀れなんだとミドリは嘆いたが、家から近く、日柄自分の時間が持てそうだったから、というのが、彼女が会社を選んだ最大の理由だった。
「残念、そんな俺でも今お付き合いをしてる人はいるんだなぁ」一男、頬を赤らめた。
「彼女さんはどんな人ですか」一男はどんな人が好みなのだろうということに、ミドリは興味があった。
「型破りな人、かなぁ」生真面目に一男は答える。
「はぁ?」
そんなミドリを、恋愛の対象として特に意識したことはなかった。
現在進行中 金曜日 会社 営業部署
会議から営業部のフロアに戻ると直ぐに土方ミドリが寄ってきた。「お疲れ様でした」と心地よい声が一男の耳に届いた。春告げ鳥がそっと肩に止まり、さりげなく肩を揉んできた。
「会社では辞めてくれ」と一男は慌てて周囲を見渡し、ミドリから避けるように椅子を離れた。「誤解を、招くから」はぁい、と気のない返事を寄越してミドリは隣のデスクに腰を落ち着けた。
白のブラウスに春らしい薄紅色のスカートから四肢がのぞけてみえる。白い肌は眩しく、たまらず一男は目をつむる。
「今日はどうでしたか?」ミドリが探るように伺ってきた。
「今日は特になにもないなぁ」一男は疲れのせいか、気のない返事をする。正直、今朝の出来事で会議中にも関わらず自分に向けられた妻からの疑いを、いったいどうすべきかを必死になって考えていた。
「先輩、私との約束、守る気はありますよね?」ミドリの口調には強制力が携わっていた。この契約を破棄することは、国際協定を破るよりも難しいように一男は思えた。
「悪魔の取引をした覚えはない」
「どういうつもりですか」ミドリが一男の脇腹を小突いた。もっと真剣に話をしろという意味なのだろうか、一男は後輩の顔をマジマジと眺める。
「功を焦ってはならない。業績ってのは積み重ねが大切なんだよ」未だに学生気分の抜けていない後輩を、一男は先輩として諭した。
「会議会議って。毎回、机の上で鉛筆転がして遊んでるだけじゃないですか。そもそもあれは何のため、誰のための会議なんですか」神社の賽銭同様に、神様の為か自分の為か、はたまた巫女さんの時給となるのか、会議として機能しているのか如何わしいという視線を一男に向けた。
「無論会社の為でもあって、巡り巡っては君の為にもなるんだ。そのために、優秀なメンバーが集められているんだろ?」優秀なメンバーといったものの、ミドリの頭の中では自分が含まれていないだろうなとは一男にも想像できた。
「先輩が優秀ってのは信じられません。最近はなんだか集中力もないし、気がたるんでませんか?」
「人生色々あるんだよ」俺の場合は夫婦関係だけどな、とも一男は言った。
「島倉千代子さんですね」ボールペンをマイクに見立ててミドリは歌った。演歌のこぶしを効かせて若年ながら甘い余韻を残す歌い方に、一男は聴き惚れた。君なら歌手にでもなれたんじゃないかとお世辞が出そうになる。
「お前も古臭いな」一男はデスクに身体を向けると、資料の整理を始めた。
妻の洋子に、付き合って間もない頃、「身だしなみと身の回りの整理整頓は男の義務よ」と言われた。一男はその言いつけを忠実に守った。
洋子の言う、身の回りの整理整頓とは女関係の解消という意味が含まれていたのだが、一男は今でもそれに気付いていない。
「お前も、って何ですか、も、って」デスクの整理を始め、相手にされていないのが不満な様子で、ミドリは横から小言を放つ。
「あぁうるさい」蚊を払うようにしっしと手を振り、一男はミドリを自分のデスクへと追い払った。ひどく怒った表情を見せたが、まだまだ若いおかげか、怒った顔でも可愛らしく見えるのだから不思議だと、一男は感じた。
一男は一人きりになり考えた。両手をデスクの上に置き、目を閉じ、耳を澄ませる。自分が大空をはばたいているようなイメージを、描く。
無論、それはなったつもりなだけの空想だが、一男はそれを切羽詰まったときに行うことが癖になっていた。
相沢にその癖を話したことがあった、「非行と飛行か、上手く掛け合わさってるじゃないか」と、揶揄され一男は腹立たしかった。
野鳥観察が趣味の一男にとって空を飛ぶということは人間の、より早く走るという運動よりも強い憧れがあった。
そのとき一男の頭になにかが当った。意識の集中が途絶え、手元に落ちた小さな塊に目をやる。消しゴムを小さく千切った塊だと一男は気づいた。
誰かが意図して、当社製品の消しゴムをカッターで切りくずし、俺に向かって投げてきたのだと一男が理解するのに、そう時間はかからなかった。
斜め向かいのデスクに視線を向けると、猛禽類のような鋭い視線がこちらに向いていた。
明らかに一男の方が憤慨してもいいシチュエーションだが、臆することなく怒りをあらわにしているミドリが、そこに座っていた。
「自社の製品をそんな風に使うなんてお前はバカか」一男は優しくたしなめる。生徒の挑発に軽々しく乗ってしまい、教師が生徒を殴る動画がSNS上には溢れていた。ここで怒っては二の舞だと、一男は自分に言い聞かせた。
「寝てないで真剣に考えてくださいよっ」
「寝てないって、こうやるのは俺の癖なんだ」一男は言いながら、目を閉じてみせた。
「そういうのって、あまり人前でやらない方がいいと思います。変人扱いされますから」頬を引きつらせ笑いながら、ミドリが指摘した。言われるまでもないが、一男は他人前ではやらないことに決めていた。
今は、精神的な余裕もなく現実逃避の手段として思い耽ることしか、一男にはできない。
「人の集中の仕方にいちいち茶々を入れるな。人には人のやり方ってもんがあるんだよ」という一男に、どこか職人のような口ぶりだなと、ミドリが笑った。
「先輩が私に力を貸すって約束したんじゃないですか」
「だからこうして考えてるんじゃないか」と半ば自嘲気味に一男は笑った。はたから見れば寝ているようにも見えるのだから、ミドリが釈然としないのも頷ける。
このままじゃ先輩としての威厳を失いかねない、一男は何か言わなければと咄嗟に口にする。
「自社の製品で遊ぶのだけは、マジで止めた方がいい」
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