第55話 懐かしのこの場所には俺と妻が居た


「ふぅー。結構時間かかりましたねー! 

 錬次れんじくん疲れてないですか?」

 

「あの程度の闘病生活じゃ、そんなに体力は落ちてないよ」

 

「それなら良かったです! 

 ここからすぐですか?」

 

「歩いたら三十分以上はかかるな」

 

「三十分⁉︎ 挫けそうです私……」

 

「心配すんな。バスが出てるから十分で着く。

 本当は車を運転して行きたいところだけどな」

 


 今日の目的地は近場に駅が無く、最寄駅からでも距離は遠い。だが目の前にあるバス停からは、すぐそばまでバスが運んでくれるのだ。

 電車の乗り換えよりも時間の融通が効かないので、バス停近くの家なんて人気は出ない。大きなガレージ付きなのが幸いして、俺もその家を借りてすぐに自家用車を買っていた。


 久しぶりに降りた駅からの景色は、決して前と同じとは言えない。全てが白黒に廃れていて、商店街の活気も薄れたように感じる。それでも音や匂い、空気感といった他の五感で触れるものは変わらず、そこを妻と歩いた記憶はやはり蘇ってきた。

 


「いい街ですねー! 

 バス待ちの時間も退屈しません!」

 

「そのセリフ、何回聞いたか分からん」

 

「え、今初めて言いましたよ?」

 

「ここでバス待ってるだけでも楽しいよね! って、未来の君がよく言ってたんだよ。俺は君の事しか見てなかったけどな」

 


 思い返すだけでも頬が緩む。同じ景色を何度見れば彼女は飽きるんだろうって、いつも思いながらその笑顔を見ていた。

 


「そっかぁー。やっぱりここは、私と千智ちさとくんが住む街なんですね! 

 そして向かう先が一緒に暮らす家、と」

 

「ご名答。だから君と行けって言われた時は、何が起こっているのか分からず混乱したよ」

 


 あの兄貴が何か知ってるんじゃないかと疑うくらいにな。

 当然俺からはこんな話したこともないし。

 


「じゃあ私が近いうちに住むお家が見れるんですね!」

 

「あぁ、君が千智と幸せに暮らす家だ」

 


 ようやく到着したバスは日中で利用者が少なく、二人掛けの席に並んで座った。触れ合う肩の感触も、窓の外を覗く横顔も、繰り返し見ていたあの時と全く同じに見えている。彼女の肌の色なんて認識出来ないはずなのに、思い出と照合して補完されたようないろどりはとても美しく思えた。

 またこんな日が来るなんて。

 


「どうだ? 

 商店街よりもこっちの方が綺麗じゃないか?」

 

「すごいですねー! 

 山を登ってるみたいで、緑がいっぱいです! 

 都心のすぐ近くにこんな所があったんですね!」

 

「車でこの道を通ってた時も、この自然を見て癒されたもんさ。あの時は店長代行やってたからしんどかったしなぁ」

 

「え、いつから千智くんは代行者になるんですか⁉︎」

 

「いつだと思うー?」

 

「うーん、あと一年くらいですか?」

 

「また惜しいな。この年度が明けるタイミングだから、十ヶ月半ぐらいだよ。まぁあいつが俺と同レベルになればだけどな」

 


 ここまで見てきた過去において、俺の知ってる部分は今でも何も変わっていない。千紗ちさの言うように俺の記憶が幻のようなものだったとしても、進み方は全く同じだ。当然のように千智や一美ひとみの事ならなんでも分かる。千智が順調に昇格して、店長まで登る道筋なんて、焼け焦げてこびり付いたみたいに残り続けるだろう。

 だからやっぱり変えたくない。死ぬ前に見た妻の気まずそうな笑顔にだって、必ず理由があったはず。それまでの幸せな日々を、決して俺の手で変えてしまいたくない。

 


「千智くんなら大丈夫です。

 昔のあなただからではなく、彼自身が今も前に進んでますから」

 

「だろうな。君も居るから安心できるよ」

 

「はい! 

 私、千智くんのこと大好きなんです!」

 


 今の彼女は少し照れていたのだろうか。頬の染まり具合はまるで確認出来ないが、向けられた笑顔と真っ直ぐな声色は、どこか恥じらいを誤魔化しているような気がした。


 木々の広がる通りを抜けると、小さなスーパーやコンビニが現れる。ちょっとした買い物なら済みそうなこの場所に、懐かしのあの家も見えてくるはずだ。

 似たような形の住宅が建ち並ぶ奥に、個性的な佇まいを見せる一軒家。それが目的の場所だ。

 


「あー、もしかしてあの家ですか? 

 面白い形してますね!」

 

「うん。あれが今日の目的地であり、君らが将来暮らす所だ」

 


 バスを降りて感じる爽やかな空気が、ほんのり暖かく迎えてくれてる気がした。この体で来るのはもちろん初めてだが、俺の体感ではもう数百回になる。

 三年と五ヶ月ぶりに見るその建物は、まだ人に慣れてはいないのだろう。白黒で見ても傷や劣化の痕跡が無いし、近付けばまだ新築特有の匂いもする。

 それでもやはり胸にグッとくるものがあるな。

 


「錬次くん、少し寂しいですか?」

 

「寂しさとは違うよ。

 またここに来られて嬉しいのさ」

 

「そうですか。それは良かったです」

 


 預かってきた鍵は番号札だけが付いていて、キーケースに繋がっていないのが違和感を感じる。そのうち同じ物に繋いでもらえるわけだが。


 ゆっくりと玄関を開けて中に入ると、思わず目を閉じたくなった。飾り気の無い玄関や廊下も、視界を消せば瞬時にあの頃へと戻せそうだったから。

 一美と二人で隅から隅まで散策し、ある程度気になった点をまとめてみると、決して今の俺にとって住み易くはない事が分かった。ドア周辺の段差や突起は周囲と判別し難いし、日当たりの悪い部屋や押入れ付近は、年がら年中灯りをつけることになるだろう。

 視力にハンデがある人間にとっては優しくない。そんな印象だった。

 


「私、今日からここに住みたいです!」

 

「おいおい。新卒の君の月給じゃ、手取りを全て家賃に持っていかれるぞ?」

 

「えー、それじゃ一年後にもちゃんと借りれますかね?」

 

「その時の千智の収入なら問題無いよ」

 

「お金もですけど、誰か先に借りちゃわないか心配で」

 


 その点は確かに疑問が残る。

 一般家庭にとっては住み心地の悪くない家だし、このまま空き家状態になるのは不自然だ。そもそも建てて一年半近くも住まれなければ、家が傷んでしまわないのか。


 その日の視察を終えて営業所に帰ってきた俺と一美は、すぐに意見をまとめて報告した。兄貴は大層感心しているが、俺の懸念は消えない。思い切って全てを説明した。

 


「なるほど、一年ちょっと先で一美ちゃん達がねぇ」

 

「うん。

 来年の六月には契約するはずなんだ」

 

「うーん、じゃあそれまで俺が住むかなぁ」

 

「はい? 兄さんが? 

 家あるじゃん!」

 

「あー、今俺が住んでる家も借家だよ。

 同じとこにずっと居るの飽きるんだよねー。

 それにこの家だって誰かが使わなきゃだし、来年には交代して欲しいんだろ?」

 

「まぁそうなんだけど、その為だけにってのも悪いしなぁ」

 

「気にすんなって! 錬次の為ってわけじゃなく、一美ちゃんの為だからさ! 

 彼女の幸せがお前らの願いなんだろ?」

 


 多少強引ではあるが、その厚意は本当にありがたい。

 思い出の一軒家に関しては兄貴に任せて、俺は自分のやるべき事に専念すると誓うのだった。

 必ず幸せな未来を作る為にも。

 

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