第38話 受け継がれて紡がれる
暑さにも身体が順応し始めた八月三日。
夏休みの学生を除けば、多くの人々にとってなんの変哲も無い平日なのだが、この日は人手が足りなくて
それと言うのも、子どもの世話を焼く為に休む主婦層以外に、主力の若者二人が同時に欠員している影響が大きい。
まぁ売り場が回せないほど切迫した状況でもないし、この日に彼らが休暇を取って遊びに行く事も知っていたのだが。
「あ、
「千紗ちゃんにもか。俺にも来てるよ」
「無事に告白されたって!
本当に良かったね!」
「わざわざ連絡するなんてよっぽど嬉しかったんだな」
夕方まで馬車馬のように働き、帰り支度をしようとロッカーを開けて目に付いたのが、画面に表示された二件のメッセージ履歴だった。
一件は告白を受けてOKしたという一美からの
結論は同じなのだから、打ち合わせしてどちらか片方が連絡を寄越せばいいものを。
今日休みを取ったこの新米カップルは、日中の間ずっと二人で楽しい時間を過ごせたのだろう。文面が派手に装飾され過ぎていて、対照的に文脈が脳みそにインプットされにくい。
不意に消えた真っ暗な画面に映る
「とりあえず同じスタートを切れたみたいで一安心だね」
「そうだな。
この段階で
「ねぇねぇ、この先二人はどんな道を歩んで行くの?」
目に星マークが見えそうな程キラキラした眼差しを向けられるが、今の彼女に昔の妻との
「それは楽しみに取っておいた方がいいだろう。
ネタバレを食らったストーリーなんて、後から見る気も失せてしまうよ」
「えー、まだ四年以上あるのに、ずっと気になったままになるのかぁ」
「入籍までは三年と五ヶ月くらいだよ」
「それでもかなり長いよー」
彼女は拗ねたような表情を見せるが、あくまでも表面上にだけ出しているのだろう。声色も纏う空気も全てが柔らかくて、隣を歩いているだけでとても心地良い。
外に出ると染まり始めの夕焼け空がとても綺麗で、少しだけ立ち止まって眺めてみるが、肺の中まで侵食する熱気に当てられすぐに室内が恋しくなる。
額に滲む汗を拭いながら近くのカフェに入った。
「二人は今頃何してるんだろうね」
「この時間だと今の俺らと変わらないと思うよ。
少し緊張しながらお茶してて、お店のみんなどうしてるかなぁとかありきたりな会話になってるはず」
「してそうだね。
二人の赤い顔が想像出来るよ」
錬次の話題も出した記憶がある。そろそろ退勤してメッセージに驚いてる頃だと話たら、一美も錬次に送っていて笑い合ったりしていた。
とても懐かしい思い出だ。
「様子見に行きたくならない?」
「俺は期待してるんだ。
あいつならきっと一美を幸せにしてくれるって。
だから遠くから見守ってるだけで充分だよ」
見上げた先の天井には、楽しげな二人の姿が映った気がした。
こちらを見つめる千紗は不思議そうにしていたかと思うと、何かを察したみたいに苦笑し始める。
彼女の次の発言が、俺には全く予想出来なかった。
「なんだか珍しいね。
あなたがそんな諦めた事言うの」
「諦めてるように聞こえた?」
「だっていつもなら、過去の自分だから大丈夫って自信持ってるもの。
今言った期待って言葉は、自分以外の誰かに託して身を引くみたいに感じたよ」
まさにそんな感覚なのだろう。ここから先は彼らだけで歩む道であり、俺に出来るとすればせいぜい相談相手くらい。役目を終えて後輩に任せる時の心境なんて、諦めにも似た寂しさが混じっているものだ。
「これからは今の俺がやるべき事に専念するよ。
浮気と事故の回避はもちろんだけど、千紗ちゃんを幸せにする為にもね」
「うちは期待しないよ。
あなたなら出来るって信じてるから」
「千紗ちゃん……今ここでキスしてもいい?」
「いやそれはダメ」
無事に過去の俺が未来の妻との恋に結ばれた事で、自分自身の恋愛も大きく前進出来そうな気がする。
そんなあたたかい気持ちで彼女を家まで送り届け、自宅までの夜道をのんびり歩いていると、ポケットの中のスマホが唐突に鳴り出した。
着信相手は一美だ。
「もしもし? どうかしたのか?」
「あ、先輩! お仕事お疲れ様です。
メッセ見ました?」
「まぁ見るまでもなく知ってたけどな」
「ならおめでたい私に対しての第一声がそれですか!」
なんだこの面倒臭い生き物は。結構押し付けがましいというか、主張の激しい性質を持ち合わせてるよなこいつ。
「はいはい、告白されて良かったな。
そんでなんの用?」
「むー、気持ちがこもってない気がします。
でもまぁ先輩だからいいでしょう」
そりゃ言わされてたら気持ちもこもらないわ。
「先輩の前では、千智先輩の呼び方今のままがいいですか?」
「ん? どういう意味だそれは?」
「いえ、君付けで呼んでると辛いのかなと」
なるほど、先月の俺の異変をまだ気にしていたのか。
確かにこの先も絶対に平気だとは言い切れないが、少なくとも泣き出すような真似はもうしない。
「変に気を回すな。
優先すべきは君たち二人の幸せであって、俺の顔色を伺う事じゃない」
「……わかりました。
先輩も必ず幸せになって下さいね」
「大きなお世話だ。
今の俺は千紗ちゃんの事で頭がいっぱいなんだよ」
「千紗ちゃんは女の子らしくて可愛いですもんね!
それではおやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
本当に余計な気遣いばかりしやがって。
自分が幸せを掴んだ日ぐらい、その幸せを噛み締めてろっての。
それからの毎日は決して悪いものではなかった。
浮かれオーラ全開の千智はやる気に満ちていたし、隣にいる一美も嬉しそうにそれを眺めている。
二人に釣られる様に店全体も明るさを増していき、いつしか大杉店の名物カップルになっていた。
そして季節は秋の色も深まった十月半ば。
半年に一回行う健康診断の結果がこの日に返される。
錬次の体になってからも正常値を維持していたのだが、今回は医者の表情が何かおかしい。
「
免疫系と中性脂肪の
言われてみれば確かに体力の衰えや、風邪っぽい症状に身に覚えがある。
しかし基準値に収まっているのなら問題も無いだろうし、それらが溜まる理由も特に思い当たらない。
「わかりました。
休める時に休んで改善させます」
すぐに精密検査を受ける必要も無いそうなので、健康に意識を向けながらも通常通りの生活に戻った。
心配した千紗は持ち前の面倒見の良さで甘えさせてくれるので、むしろ得したくらいだろう。
きっとこんな日常を送っていれば、すぐに体調も元通りに戻るはず。深く考えたりはしなかった。
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