餓狼荒野に死す

藤英二

ライ麦畑の殺人者〈プロローグ〉

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。

(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹訳)


兄貴が東大に入学して三日で引きこもりになったところから話そうか?

これだと、「へえ~」と食いつきがいいかもしれない。

いきなり、兄貴の身代金を要求する脅迫状が来たところからだと、話が分かりにくいだろうから。

両親は、とにかく兄貴が自慢の種だった。

なにせ、私立の中高一貫のなどには行かず、そのへんの公立の高校を出て、現役で東大に合格した。

それでもって、すらりとした長身で、にきびひとつないすっきりした顔をしていた。

そいつが、三日で登校拒否ときたもんだ。

終日部屋に閉じこもって一歩たりとも出てこない。

おふくろが食事を載せたトレーを二階の階段の上がりはなに置くと、兄貴は扉をさっと開いて猿のようにトレーをひったくり、食べ終えると空のトレーを扉の前にもどしておく・・・。

その食事も気に入らないと、階段の上からトレーごとおふくろ目がけて投げつけた。

兄貴がトイレに入ったスキに、おふくろが掃除機をかけようとして部屋に入ったところを見つかり、階段から突き落とされて足を折ったこともあった。

それからというもの、両親は腫れ物にさわるように兄貴に接するようになった。

子どものころから、兄貴をそれこそ子猫のように可愛がっていたおふくろは、毎日瞼を泣きはらして暮らした。


・・・それから四年後のある朝、郵便受けに脅迫状が投げ込まれた。

『息子を誘拐した。身代金一千万円を払え』

脅迫状は、筆跡をかくすため定規を使って書いた、いたって安直なものだった。

引きこもりの兄貴をどうやって誘拐したか、だって?

答えは簡単だ。

兄貴は、週に一度は夜中に部屋を抜け出していた。

両親が寝付いたころを見計らって二階から下りてきて、居間のおふくろの財布から金を盗み取り、部屋の窓に垂らした縄梯子を降りて出かけていた。

家族はみんなそれを知っていたが、見て見ぬふりをした。

おふくろは、『夜遊びに行くのも悪くはない』とでも思ったのか、財布にわざと法外な金を入れておいた。

・・・どこまで甘い親なんだ。

脅迫状が届いた朝、二階の部屋を見ると兄貴はいなかった。

前の夜に出かけたのは知っていた。

帰ってこなかった、ということだ。

両親は警察には届けなかった。

というのも、兄貴が引きこもりになってちょうど丸四年。

おなじ年に入学した同級生たちは、この三月で卒業だ。

大学に通わなかった兄貴は、当然卒業できなかった。

そこは兄貴なりに考えるところがあったのだろう。

この一千万円を、家を出て独り暮らしをする資金にするつもりにちがいない、

・・・などと、両親は勝手に思い込んだ。

兄貴を持て余して途方に暮れる両親は、これをきっかけに家を出てもらってけっこう、という考えもあったようだ。

その日の夜、指定された門の横の郵便ポストに、デパートの包装紙に包んだ現金を押し込んだ両親は、灯りを消した居間で息をひそめていた。

と、いきなり窓ガラスが真っ赤に染まり、焦げ臭いにおいがした。

驚いて階下に降りようとすると、白い煙が足元から這い上がってきた。

居間では炎が燃え上がっていた。

あわてて二階へ引き返した。

兄貴の部屋に出入用の縄梯子があるのを思い出し、部屋に入って窓を開け、そこに垂れている縄梯子を伝って庭に飛び降りた。

炎は瞬く間に燃え広がり、親父がえ営々とローンを払い続けてきた二階屋を舐めつくした。

三月の夜はまだ寒かった。

ガタガタ震えたのは寒さのせいばかりではない。

・・・両親が燃え盛る家の中にまだいるはずだ。

遠くでサイレンの音がした。

ガサガサと笹の葉が擦れる音に振り向くと、全身黒づくめの大きな男が郵便ポストの裏蓋を開け、包装紙に包んだ現金を黒いバッグに押し込んでいた。

その大男が振り向いた。

暗闇の中で黒い目出し帽からのぞくふたつの目が、燃え盛る炎を映して、血に餓えた狼の目のように真っ赤に燃えていた。

その男は、兄貴ではないのはたしかだった。

消防隊が津波のように押し寄せてきた。

手際よくホースを繰り出して放水をはじめた消防隊に向かって、

「まだ、中に両親が!」

と叫んだ。

家は全焼を免れ、両隣の家にも燃え移ることはなかった。

両親が避難せず家の中にいると聞いた消防隊は、焼け落ちた家の中をくまなく調べ、両親の変わり果てた姿を見つけた。


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