理恵先生

 今日は土曜日。晩御飯を食べに行ってから、いつものバーに。このバーはカウンターの他にテーブル席もあるのだけど今日はそこも入ってた。まったり二人で飲んでたのだけど、テーブル席の方から女が一人歩いてきた。御手洗と思ったら、いきなり康太の肩を叩き、


「神保先生ですよね」


 康太は振り返ってしげしげ見てから、


「誰かと思えば上浦先生・・・・・・」


 康太の隣が空いてたからチャッカリ座り、


「ちょっと良いですか」


 康太が紹介してくれたけど大学の同級生だそう。すらっと背が高く、シャキッとした、いかにも女医さんって感じの人で、はっきり言わなくとも美人。今週末は神戸で学会があって来ているそう。恵梨香も紹介されたけど、


「素敵な奥様ですね。へぇ、康太はやっぱりコッチを選んだか」


 ちょっと待った。康太って呼ぶってことはこの二人の関係は、


「上浦先生、その話は」

「上浦先生はやめてよ。昔のように呼んでよ」


 もう間違いない。二人は恋人関係にあったんだ。それにしてもだよ、どうして康太の元恋人って、どいつもこいつも美人ぞろいなんだよ。智子だってそうだし、由佳もそうだし、リサリサだってだよ。


「恵梨香さんって仰るのね。理恵って呼んでね」


 その上だよ、どうして魔女のように若く見えるんだよ。うぅぅぅ、消し去ったはずのコンプレックスがどうしても出てくるのが止められない。康太は、


「結婚は?」

「したけどね」


 理恵先生は大阪の上浦病院の娘。三人姉妹だそうだけど、理恵先生は長女。上浦病院はかなりの規模の病院らしくて、分院もあり、検査センターとか、老健とか、診療所もある大きなグループらしい。


 ちょっと笑ったけど、上浦病院は理恵先生で四代目になるらしいけど、先代も先々代も息子がいなくて婿養子。だからじゃないけど、理恵先生も見合いで婿養子を迎えたみたい。セレブは大変だねぇ。


「息子さんは生まれたの」

「あは、種なし、石女の夫婦で子無しよ」


 上浦病院グループは三女にようやく生まれた息子が継ぐとか継がないかとか。


「旦那さんは」

「別れた。というか追い出されたかな。三年子無しは去れってね」


 それって女がそう言われたのだけど、女系なら逆もあるのか。理恵先生が不妊症ってわかったのは再婚話が出てきて念のために検査したら判明したらしい。


「元旦那への未練は」

「はっきりいうと無い」


 経歴的には見合い相手というか上浦病院グループの後継者に選ばれるぐらいだからエリート医師だったけど、


「口先ばっかり。医師としてのセンスもないし、経営者としても失格。ついでに言えば男としても無能。種なしはともかく、種馬としても話にならないわ」

「おいおい理恵さんのハイソなお嬢様のイメージが壊れちゃうよ」

「立派なバツイチで、旦那とバカバカやった女だよ。とっくにお嬢様じゃなくて、アラフォーの飢えた熟女になってるってこと」


 理恵先生の学生時代は絵に描いたようなお嬢様だったで良さそう。持ち物は上から下までセリーヌで、お買い物は必ずお母様と御一緒だったって。学生にもなって門限があり、これが六時と言うから驚いた。


「ひょっとして不妊症って」

「康太にはバレるか」


 えっ、えっ、えっ、再婚の見合いを断る理由のために、


「恵梨香さん、それぐらいは簡単よ」


 セレブって大変だと思ったけど、見合いで会ってしまえば断るのは余程の理由がないと無理なんだって。そう、本人同士の気持ちなんて無視されるらしい。


「そんな甘い物じゃないよ。見合いの話を親から聞かされた時点で断る余地はゼロ」

「理恵さんはなにしろ上浦の娘、それも長女だものな」


 でも二人は学生時代に恋人では、


「そうだよ。だから康太って呼ぶし、理恵と呼ばれてた。でもね、なんにもなかった。せいぜい手を握ったぐらいかな」


 それって中学生か高校生の恋。


「だから後悔してるのよ。あの時に勇気がなかったねって」


 理恵先生も子どもの時から婿養子を迎えて上浦病院を継ぐって刷り込まれていたみたい。だから康太と付き合っても、あくまでも清い恋以上に進まなかったって。


「康太も良く付き合ってくれたと思うよ。何から何まで制約尽くしだったのに」

「それでも良いって思うぐらい理恵さんが素敵だったんだよ」

「ありがと。そこまで想ってくれて付き合ってくれたのは康太だけだものね」


 理恵先生はロックグラスを掌で回しながら、


「康太、欲しかったんだ。康太も反応してたもの。あの時に・・・・・・」

「理恵さんのイメージが崩れちゃうよ」

「バチイチだよ。もう崩れてるよ」


 康太と理恵先生は講義は常に隣同士で受け、帰り道はバス停まで送って行ってたんだって。


「あのマフラー覚えてる?」

「別れた嫁さんに捨てられた」


 康太の誕生日のプレゼントに理恵先生は長いマフラーを贈って、それを帰り道で二人の首に巻いて帰っていたんだって。その時に理恵先生は凍えるからって手を康太のズボンのポケットに突っ込んだらしい。


「ぐっと手を突っ込んだら、康太のモノに当たったんだ。そしたらムクムクと・・・」

「理恵さん!」

「理恵って呼んでくれたら許してあげる」


 そりゃ、康太は反応するだろう。愛しい女性の指先がほぼパンツ越しに触れてるんだもの。今度やってやろ。でも恵梨香がやったら、そのまま握ってしまいそうだけど。


「あの絵は?」

「今でも部屋にあるよ。康太みたいに捨てられるドジはしてないもの」


 理恵先生が好きになった康太は、理恵先生がルノアールが好きで、その中でもイレーネ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像が欲しいって話をどこかで耳に挟んだらしい。ネットもない時代で大変だったそうだけど、複製の印刷画だったけど原寸大サイズのものを探しだして贈ってるんだ。


「イレーネそっくりだったものな」

「ありがとう。でもイレーネには遠いよ」


 そんなことないよ。今だって十分に面影が残ってるもの。学生時代の理恵先生なら、もっとだったはず。そりゃ、上品で輝くように綺麗だったんだろうな。正真正銘のお嬢様みたいなものだから、服だって、アクセサリーだってバッチリだったろうし。


 それはともく、プレゼントをきっかけに、それまで「上浦さん」から「理恵さん」の関係、言い換えればタダの友だちから、友達以上恋人未満の関係になったぐらいかな。これが「理恵さん」から「理恵」に変わったのは、


「生理学の実習だったかな。カエルの解剖実習みたいなのがあって・・・・・・」


 途中で背骨にゾンデって言ってたけど、細い棒を突っ込むのだそうだけど、その時にカエルが『グェ』って断末魔みたいな悲鳴をあげるんだって。それを見るのに耐えきれなかった理恵先生は、康太を手を握ったそうなんだ。


「あの時に康太がギュッと握り返してくれて嬉しかったんだ。だから思いっきり握り返した。そしたら康太はぐっと抱き寄せてくれてね・・・・・・」

「だから理恵さん!」


 抱き寄せるって教室だろっと思ったけど、理恵先生は後ろ手で握ったんだって。だから抱き寄せるって言うより、引き寄せる近い感じかな。


「ネンネの理恵がメロメロにされちゃった」

「それは言い過ぎだろう」

「あの日から康太って呼んだんだよ」


 そして康太も理恵と呼ぶようになったんだろうな。マフラーのエピソードもこの後になるんだろうけど、そこまで距離が詰まっても、それ以上進めなかったのが上浦の娘である理恵先生に課せられた制約になったのかもしれない。でも大学生にもなって、その次に進めないのはお互いに辛かったろうな。


「理恵さんはお嬢様だったからな」

「悪いと思ってた」


 やはりそれ以上に関係に進めないのは、二人の関係に翳を落としたで良さそう。進んだってダメなものはダメだけど、進まないともっとダメってところかな。それでも二年続いたって言うから大したものかもしれない。


「オネアミスの翼、覚えてる」

「忘れるものか」


 デートで映画を見に行っただけなんだっけど、これがなんと唯一度のデートだって言う物ね。


「どうしてあの時にホテルに連れ込んでくれなかったのよ」

「良く言うよ。キスさえ怖がってたのに」

「まあ、そうだったけど」


 康太はデータの途中でキスを迫ったそうだけど理恵先生は逃げちゃったらしい。ただこのデートは二人の関係を終わらせるものになったで良さそう。どこからかはわからないけど、理恵先生と康太が恋人同士であることを理恵先生の御両親が嗅ぎつけて、康太に直接会いに来たっていうから驚くよ。


「婿養子で上浦病院の後継者になるなら、交際の許可を考えるだったものね」

「まあ、ボクも一人息子だったからさすがにね」


 康太にとっては玉の輿に見えないこともないけど、康太の実家だって開業医だから、無理に玉の輿に乗って婿養子の苦労をしたくないのもわかる気がする。そこから二人の間に隙間風が吹き始めたみたいで良さそう。


「あははは、理恵も捨てられちゃったものね」

「捨てた訳じゃないけど・・・・・・」


 そこに康太の次の恋人が現れたぐらいになるけど、


「それもやめてくれよ」

「じゃあ、理恵って呼んで」

「わかったよ。理恵、やめろ」


 ここまで話したところで理恵先生のお仲間も帰ることになり、


「後は康太に聞かせてもらいなさい。それと恵梨香さん、あなたは康太の好みよ。自信を持っていいわ。どんな相手が他にいても、あなたが選ばれたはずよ。理恵だって敵わなかったんだから」

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