アナフィラキシー騒動

 その日は日曜日だったのだけど、康太と一緒に買い物に出かけて、地下駐車場からエレベーターで二階の廊下に出た時だった。物凄い悲鳴みたいな声がお隣さんから上がったんだ。


『人殺し!』


 恵梨香も康太も驚いたけど、声が聞こえたお隣さんに。そこには口の周りにカスタード・クリームを着けて赤いというより、どす黒くなって痙攣している子どもを抱きかかえている奥さんと、横に立ち尽くすお姑さん。


「恵梨香、救急車を。それと奥さん、エピペンは?」


 そしたら奥さんは恐ろしい声で、


「このクソババアが踏み潰しやがった」


 康太は子どもの上着を脱がせて、胸に耳を当ててから心臓マッサージを始めたんだ。救急隊につながった恵梨香だけど、どんな状態か聞いてくるのよね。死にそうぐらいにしか言えないけど、


「恵梨香、電話を耳に当ててくれ」


 助かった。心マッサージをする康太の耳にスマホを当てがったら、


「アナフィラキシー・ショックによる心肺停止。エピペンが無いから持って上がってきてくれ。酸素と子ども用のアンビュもだ。病院の手配はしておく」


 さらに康太は恵梨香に電話をかけさせ、


「川中先生、神保だ。子どものアナフィラキシーによるCPR。救急隊が到着次第エピペン投与する。心マしながら送る。準備宜しく」


 恵梨香には救急車が到着するまでの時間が無限に感じたよ。お姑さんは、


「大げさな」


 こう言い放った瞬間に奥さんに殴り掛かられてたし、それを止めようとした恵梨香でこっちも修羅場。いつもは穏やかで気の弱そうな奥様が鬼の形相で、


「息子が死んだら殺してやる」


 救急隊が到着すると康太は、


「エピペン。早くしろ、死ぬぞ」


 救急隊員が康太の勢いに負けたのか取り出したら、いきなりふんだくった。


「それは・・・」

「責任はすべて持つ」


 いきなりズボンの上からブチュ。そして呆気に取られる救急隊員に、


「なにしてる、アンビュで酸素1リットル。急げ、あとは時間との戦いだ」


 奥さんと二人で救急車に乗り込んで行っちゃった。後ろから姑さんが、


「私は悪くないのよ・・・」


 なに寝言抜かしてると思ったよ。やがて康太は帰って来たけど、


「助かった?」

「命だけはな。後はわからん。あの場ではあれ以上はどうしようもなかった」


 怖いのは低酸素脳症だって。なにかって聞いたら酸素が脳に回らなくなって、脳がダメになっちゃうことで良いみたい。



 後日お隣さん夫婦がお礼に来たんだよ。部屋に招き入れたんだけど、康太を見ると拝み倒しそうな勢いで頭を下げられたのに驚いた。


「息子の命の恩人です」


 それこそ九死に一生を得たぐらい危なかったらしい。康太の心マッサージが少しでも遅かったら、エピペン投与が少しで遅かったら、搬送が少しでも遅かったら・・・・・・どうなったかわからなかったって。


「神保先生があの場にいらっしゃらなかったら、息子は死んでました」


 あれこれ検査はしたみたいだけど、今のところ後遺症もなさそうと聞いてホッとした。康太はニッコリ微笑んで、


「息子さんが無事回復されてなによりです」


 奥さんの目がウルウルしてたもの。ああいうのを心からの感謝と言うのかもしれない。


「これは気持ちだけですが」


 菓子折りと一緒に差し出された封筒は謝礼とか。それもかなり分厚い感じがする。康太はどうするのかと思ったら素直に受け取って、


「息子さんの回復祝いです」


 そうやって菓子折りだけもらって封筒は返しちゃった。かなり押し問答はあったけど、


「では口止め料も込みという事で」


 康太が医者ってバレたから、くれぐれも内密にして欲しいと、わざと笑いに持って行って押し返してた。うん、それで良いと思う。さすがは康太だ惚れ直した。



 そこから、あの日になにがあったか聞かせてもらった。聞いてるだけで背筋が凍りつくような話だったよ。あの日は日曜日だったけど、旦那さんは休日出勤で留守だったんだって。


 そこにアポ無しでお姑さん来襲。奥さんも手ぶらだから油断してたって言ってた。ちなみにこの姑さんだけど、息子の家には押しかけるけど、奥さんのやること、為すことにケチをつけて回るだけでなにもしないそう。


 さらに必ず居座って昼食を作らせるそう。それも感謝されるならともかく、味が濃いとか、薄いとか、なんだかんだと文句を付けまくるけど結局全部食べるらしい。神戸にもそんなステレオ・タイプの姑が存在するのに恵梨香は感心したぐらい。そして唯一やるのが、


『孫は見ておくから』


 奥さんは気にはなったけど、洗濯物を干しに行ったそうなんだ。これも、洗濯機が止まってすぐに行かないと姑さんのイヤミ爆弾が炸裂するそう。


 奥さんがベランダに出た頃を見計らって、姑さんは隠し持っていたシュークリームを孫に食べさせようとしたらしい。箱ごと持って来たら奥さんに取り上げられるかららしいけど、そこまで執念を燃やすのが怖いよ。


 息子さんは勝手にものを食べたらいけないって、躾けられていたから嫌がったんだって。その辺はまだ小さいけど、それなりに痛い目に遭ってるのもあると思う。そしたら姑さんは押さえつけて口にねじ込んだって言うから、もうキチガイか認知症とでも言いようがない気がする。


 その騒ぎを聞きつけて奥さんが駆け付けた時には、息子さんはショック症状を起こしかけていたで良さそう。慌てて息子さんの口からシュークリームを吐き出させようとして、そうはさまいとする姑さんともみ合いになったって言うから、どんだけと思ったよ。


 息子さんの状態がタダ事ではないのも奥さんはすぐにわかったみたいで、エピペンを取り出そうとしたら、姑さんはそれを先回りして取り上げ、


『こんなものに頼るから孫のアレルギーが治らないのよ』


 奥さんの目の前で踏み潰しやがったんだよ。そこで奥さんが、


『人殺し!』


 この悲鳴を挙げて康太と恵梨香が駆け付けたことになる。救急車が出て行った後の姑さんの言葉も酷かった。


『せっかくアレルギーを治してあげようとしたのに』

『救急車なんか呼んで、私への当てつけよ』

『お父さんに言いつけて叱ってもらうよ』


 恵梨香にまで当たってきたから、


「見ててもお孫さんの状態がわからなかったのですか」


 こう怒鳴りつけたらブンスカ文句を垂れながら、留守番もせずに帰りやがったんだ。ドアのカギが開いたままなのもあるけど、お隣の子どもさんは二人で、娘さんもいるんだよ。奥さんも動転してたけど、あれでも姑さんだから娘さんぐらいはなんとかしてくれると考えたはずだよ。


 放っておけないじゃない。あれだけの騒ぎだから、娘さんもビクビクして泣いてたもの。だから恵梨香が留守番して、ご飯も作って、ついでに掃除と片付けもしたし、洗濯物も取り込んで畳んでおいた。まったく娘は可愛くないのかね。


 休日出勤してた旦那さんは奥さんからの急報で病院に駆けつけたんだよね。集中治療室で生死を彷徨う息子さんを見ながらの説明を聞いて絶句したそう。息子さんも気になるけど、家に娘さんが残されてるのも気になって、とりあえず見に帰って来たんだよ。


 旦那さんも姑さんがいるから、家の事や娘さんの事はちゃんとしてくれてるはずと思っていたみたい。自分の親だものね。ところが家に帰って唖然としてた。だって部屋にいるのは恵梨香と康太と娘さんだもの。


「母は?」

「なにか怒って帰られました」


 恵梨香も腹立ててたから、姑さんが何を言ってたかの録音も聞かせてあげたらプルプル震えてた。それでも丁重にお礼を言ってくれて、旦那さんの実家じゃなく、奥さんの実家に娘さんを預けに行くと言ってた。


 そこから息子さんの容体が安定するまで付ききりだったんだって。生きた心地もしなかったって言ってた。息子さんの容体が落ち着いた時点で旦那さんは実家に行ったそうだけど、あの姑さんは平然と、


『ああやってアレルギーは治って行くのよ。感謝しなさい』


 お舅さんもお舅さんで、


『だいたいお前が、アレルギーだ、アレルギーだと甘やかすのがいかん』


 まるで良いことをしたみたいに話すのを聞いて、旦那さんは完全に切れたで良さそう。そりゃ、切れるよね。殆ど息子さんを殺されそうになったんだもの。バンとテーブルを叩いて、


『ぶち殺したいのはヤマヤマだが、ここで殺人を犯せば息子と娘が可哀想だ。その代わりに二度とうちの敷居をまたぐな。もう親でもなければ子でもない。孫の顔を二度と見れると思うな。お前らの葬式にも出ん』


 舅さんと姑さんは、それでもグチャグチャ言ったらしいけど、二人に往復ビンタを食らわせて、


『これ以上口を開くなら、この場で殺す』


 旦那さんもちょっとやり過ぎの部分があるとは思うけど、あのままじゃ、あの姑さんならまたやらかしそうだものな。恵梨香も一部始終を見てたけど、何が悪かったかさえ理解していない気がするもの。だってだよ、真っ青を越えて、土気色になりかけてた息子さんに康太が心マッサージを始めた時も、


『私の孫に手を出すな。他人は出ていけ』


 こうやって怒鳴ってたぐらいだった。でも、これで一件落着かな。

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