すき焼きグルメ便

 マンションでやらかしてるボスママの振る舞いは金額的にはたいしたことがないセコケチだから、その点は訴えるとか何とかにならないけど、後に残る不快感はおカネに換えられないものがあるで良いと思う。


 うちは賃貸だからいつでも引っ越しできるけど、分譲で買ってる人は迷惑な隣人として付き合わざるを得ないぐらいになってるぐらいかな。お隣の奥さんも含めて撃退法をあれこれ考えてるみたいだけど、ボスママは厚顔無知の蛙の面にションベンだし、なにかあるとヒステリックに、


『それって仲間外れにするイジメでしょ』


 これをギャンギャン喚きたてるからお手上げみたい。こんなことを康太に相談するのも悪いと思ったけど、


「ああボクも言われたよ」


 康太の歳で独身なんてホモじゃないかとか、軽しか乗れない貧乏人とかだって。とくにホモ疑惑はかなり言い触らされたみたい。これは恵梨香が来て打ち消されたものの、


『よくまあ、あんなのに頑張れますわねぇ。オホホホ』


 やっぱりね。恵梨香もあったものね、


『旦那さんが変わった趣味をお持ちで良かったですね』


 ああいう息を吐くように悪口が出る人は、目の前に当人さえいなければ、誰にも伝わらないと思い込んでる良いと思う。たとえば康太に恵梨香の悪口を言っても、恵梨香から康太に伝わるはずがないぐらい。そんなことあるはずないじゃないの。ちなみに恵梨香の悪口は、


『豚まんブス』


 恵梨香はビヤ樽狸の自覚はあるし、さんざんブスって言われてるから、あっそうぐらいだけど、康太も耳にしてるらしくて、口には出さないけど怒ってるのが丸わかり。康太も恵梨香が美人とするには程遠いのはわかってるけど、恵梨香を貶されるとマジで怒るのよ。


 普段の康太は温厚の権化みたいな人だけど、怒る時は怒る人なんだよ。怒ると言っても怒鳴ったり、殴りかかったりはしないけど、顔色が変わるのよね。とくに恵梨香がらみの時はそうで、隣にいたら怒りがビンビン伝わってくるもの。


 そこまでビヤ樽狸の恵梨香を想ってくれるのは嬉しくて仕方がないけど、とにかく康太の前で恵梨香の悪口はタブーみたいなもの。逆鱗に触れるとしても良いかもしれない。とは言うものの康太がいくら恵梨香のために怒ってくれても、あの鬱陶しいボスママの存在は変わらないのよね。


「康太、引っ越そうか」

「その手もあるけど、なにかアホらしくない」


 まあね。三十六計逃げるにしかずだけど、なんとなくアホらしいと言うか、尻尾巻いて逃げるみたいで悔しい気はする。なんだかんだと言っても恵梨香への被害は少ないから、しばらくは様子を見てたんだけど、あの事件が起こったんだ。



 恵梨香も康太も美味しい物を食べるのに目がないから、グルメ便みたいなのを利用してるんだ。宅配便の人もこの辺の担当らしくて自然と顔見知りになってた。その日は康太の希望で松坂牛のすき焼き。グルメ便だから一式セットになってて恵梨香も楽しみにしてた。


 その日の午前中は康太と買い物に出かけてたんだけど、玄関のところで宅配便の人とバッタリ出会ったんだよね。そしたら、


「お届け物はお宅の人にお渡ししてます」


 こう言われて恵梨香も康太も『???』。二人暮らしだし、今日は誰も家に来てないもの。宅配の人によると、宅配ボックスに入れようとしたら声をかけられて、自分ところのものだから、そのまま持って行ったらしい。


 誰だって話になって聞いてみるとボスママが怪しいとなったんだ。宅配の人も責任問題だから、一緒に十二階に。そこで康太が、


「ひょっとして、うちへの宅配便を間違って受け取りませんでしたか?」


 出てきたのは旦那だけど、そんなものは知らぬ存ぜずだったのだけど、玄関の廊下に見慣れたグルメ便の箱が見えたんだよ。宅配の人にも見えたらしくて、いきなり上がり込んで確認しちゃったんだ。すっごい怒鳴り声が上がったけど、


「これです。間違いありません」


 伝票貼ってあるものね。そしたら旦那は、


「勝手に他人の家に上がり込んで泥棒扱いとは許さん」


 こうやって騒ぎ始めたんだよね。恵梨香も康太もポカーンと見てた。さらに宅配の人に殴りかかったものだから、康太も慌てて止めに入ったんだ。そしたら奥からボスママが顔を出してきて、


「こんな高い物をあんたのところみたいな貧乏人が買えるわけがない。これを食べれるのはうちが相応しいから、もらってやったんだ。感謝しろ」


 もうワケワカメの雑言を金切り声で喚きたててきた。挙句に旦那が恵梨香たちを強引にドアの外に押し出して、


「そういうことだ。もらったものだから、これで話は終わりだ」

「そうよ、あんたのところみたいな豚まんブスには不要よ。豚のエサでも食べときなさい」


 康太の顔色が変わっていた。今まで見たことがないぐらい怒ってた。でも声だけは平静そうに、


「穏便に終わらせるのは無理みたいだな」


 その足で交番に行き被害届を出した。宅配の人の証言もあるし、康太はあのやり取りを録音してたんだよ。すぐに警察官も行ってくれた。そしたら真昼間からすき焼きやってやがった。


 こうなると警察官も無難に収める手段がないと判断し応援を要請。パトカーが来て夫婦とも連行されちゃった。警察署でも、


『あれは貰ったものだ』


 こう頑張ったそうだけど、通用するはずもなく認めたみたい。ここで問題になるのは被害届。このままでは送検になるんだよね。警察も最後の情けと思ったんだろうけど、被害届の取り下げの打診があったんだ。康太が下すものかと思ったけど、あっさり下しちゃったんだよ。


「あれでイイの」

「自分の手は汚したくない。逆恨みされてもアホらしいし」


 どういう事って思ったけど、結局ボスママ夫妻は送検されて起訴猶予になっていた。そう、被害は宅配会社にもあるから、そっちからも出されてたんだよね。宅配会社の方は従業員の診断書付の暴行届まで出してるし、絶対に引き下げないものね。


 起訴されると検察官は起訴か不起訴かを決めるのだけど、不起訴でも三段階あるんだってさ、


 ・嫌疑なし

 ・嫌疑不十分

 ・起訴猶予


 嫌疑なしは単純には無実だけど、嫌疑不十分なら疑う余地は残されても犯罪を立証できるだけの証拠がないぐらいの扱いだって。この二つはかなり違いがあるとはいえ実質的には無罪放免に近いかな。


 起訴猶予となるとかなり違って、犯罪は証明できるけど被害者との和議が成立してるとか、社会的制裁を既に受けてるとか、本人が深く反省してるから起訴は許してあげるぐらいの感じだって。よくある初犯であるし反省してるからってやつで良いと思う。


「でもそれじゃあ、実質的にあの夫婦にお咎めなしで済んじゃうの」


 康太は苦笑いしながら、


「今から社会的制裁を食らうよ。それも含めての起訴猶予だよ」


 起訴猶予となると会社レベルの扱いが変わるで良さそう。なるほど実際に窃盗とか、暴行が事実として存在しているからかもね。だらら法としての処罰はなくとも、


『そういうことをやった人』


 こういう烙印を押されちゃうぐらいで良さそう。何が起こるのかと思ったら、ボスママ旦那は会社を懲戒免職にされてた。窃盗だけでなく暴行の起訴猶予だからそうなるのか。いや、窃盗だけでもやっぱり懲戒免職だろうな。


 それにしてもすき焼きグルメ便で職を失うって哀れだな。それからしばらくしてボスママ一家は夜逃げ同然で引っ越していった。ローンも払えなくだろうし、近所の人の目も厳しくなるよね。


「康太はどこまで計算してたの」

「うんまあ・・・」


 グルメ便を旦那さんが頭を下げて返してくれたら、それで終わろうと思ってたみたい。ところが強引に隠蔽しようとしただけでなく、恵梨香まで侮辱されて切れたってさ。だから自分のところの被害届は下げたけど、宅配会社への口添えはするどころか、逆に焚きつけたって。


「おいおい、それは言い過ぎだよ。そこまで頼んで来たあの夫婦の要請を知らん顔しただけ。うちには関係ないし、未だにグルメ便の弁償してもらってないし」


 すき焼きグルメ便だけど、宅配会社からお詫びで送られてきた。それが何故か四人前になってる上に、うちが頼んだものよりさらにグレードが上がってた。美味しかったな。

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