第13-1話 境界①
年の瀬が迫ってきた。
目に映る風景は赤と緑のクリスマスカラーが中心を占めているし、耳にするのはジングルベルが圧倒的だ。街全体が華やぎ、煌びやかに輝く季節。
――でも、僕は相変わらず人の顔を見ることが怖い。
足元に落としていた視線を上げる。
雑踏を構成するのは、嘴をコートの襟に埋めるもの。顔中に生えた毛を神経質に整えるもの。眼鏡の奥で複眼をギョロつかせるもの。鱗にファンデーションを塗りたくもの……。
「……っ」
変わらない光景に、再び顔を俯かせる。
警察官という職業柄、これが大変マズイ状況というのは僕も分かってはいる。分かってはいるが、それでも人の顔を直視できない。
「どこ行ってんですか。こっちです」
呆れたような声に、再び仕方なく顔を上げる。
シンプルな茶のコートを着た鳥がこちらを見ていた。文鳥に似たくりくりとした黒目は可愛いと言えなくもないが、嘴から出てくる言葉は辛辣だ。
「良い年した大人が迷子になるとか止めてくださいよ。なんなら手でも繋ぎましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
身長百九十近い図体の男が、二十センチ以上差のある男性に手を引かれて歩く図というのは、なかなかにシュールである。
「そうですか、なら早く行きましょう。気まぐれな相手なんで、時間に遅れてヘソを曲げられたら面倒だ」
踵を返した鳥の後頭部から伸びた黒く長い羽が、冬の乾いた風になびく。
男の名は
警察病院に勤める医師である彼は今、とある場所へと僕を案内してくれている。
眼鏡屋。
先輩がコンタクトレンズだと自称する、例の赤い目にまつわる店に行くためだ。
前を歩く男の背を追いながら、僕はここに至るまでの長いような短いような経緯を思い出していた。
◆◇◆◇
最初に思い出したのは鬼城さんだ。
秋にあったとある事件が一応の収束を見せた翌週、僕は彼と飲みに出掛けていた。最後に一緒に出かけたのが彼の異動直前の八月後半だったので、実に三ヶ月ぶりである。
その時にも訪れた焼鳥屋「丸焼き」で、対面に座ったのは黒銀色の毛を持つ猛禽類の顔をしていた。
挨拶もそこそこに、「人の顔がおかしく見える」と訴えた僕に彼は――彼の声をした猛禽はしげしげと僕の顔を眺めた。
「疲れてんじゃねえの」
「二週間近くもですか? だったらもう病気ですし、疲れてるなら鬼城さんだって同じようになるでしょ」
激務という点でいえば、刑事課の彼の方が数倍は上のはずである。それに、体力ならば僕の方があるのは確かだ。
嘴で器用にビールを煽りながら、鬼城さんは僕の指摘に「うーん」と唸った。
「体力的なもんじゃなくてさ、精神的にだよ」
「はぁ……」
「なんかこう、すっげー嫌なこととか追い詰められるようなことあったり」
問われ、僕は考える。
「そりゃ、この部署に移ってから色々ありましたから」
「あー」と生返事をした鬼城さんは視線を中空に向けた。多分、彼も色々と思い出しているんだろう。
「そういや、それって先輩には相談したのか」
「……まだです」
「はあ? 何でだよ。俺よりそっちに相談する方が先だろ」
呆れたような鬼城さんに、僕は曖昧な笑いを返した。
先輩というのは、もちろん僕の業務上の相方であるあの先輩である。鬼城さんの言うことはもっともで、僕もそれは理解している。でも。
僕は、彼が怖いのだ。
「あの人だけは、どんな時も人間の顔に見えるんです」
苦笑して対面に顔を向けると、困ったような顔をしたイケメンと目があった。たまに、こうやって他人が人間の顔に戻るタイミングがある。トリガーは分からない。
「鬼城さん。今って何を考えてました?」
「え?」
虚を突かれたように目を瞬かせる彼に、僕はわずかに苛立つ。
いけない。忙しい中、付き合ってもらっているのは僕の方なのに。自分の中に芽生えかけた感情に、自分で嫌になる。
最近、そういうことが増えてきた気がする。余裕がないというのは、その通りかもしれない。
表情に出さないようにしていたが、鬼城さんは何となく察したらしい。グラスを置いて、心配そうにこちらを見つめてきた。
「お前、やっぱり大丈夫じゃないよ」
「でも……」
「さっきのお前の質問だけどな」
身を乗り出した鬼城さんは、真剣な顔で僕の問いに答えた。
「やっぱり、ちょっと怖いなって思ってた」
「先輩のことですか」
「うん」
頷いた彼は目を逸らした。
「良くないなとは思うんだよ。あの人は俺の恩人でもあるわけだし」
「え、そうなんですか?」
それは初耳だ。
「言ってなかったっけ。ひとりかくれんぼの時ね、俺あの人いなかったらヤバかったもん」
鬼城さんが腕時計を外した。何気なく見ていた僕は、その下から出てきた手首にギョッとする。まるでついさっきリストカットでもしたかのような太く赤い線が一本、真横に走っていた。ケロイドに似てはいるが炎症はなさそうで、それが一層不自然で不気味だった。
「自傷だよ。気い抜いたら精神やられててね。気づいたあの人が部屋に来なかったら、自分で手首落とすとこだった」
恐ろしいことをさらりと言って、鬼城さんは腕時計を元のようにつけた。そういえば彼は左利きだが、いつも時計を左側につけている。今さらだがその理由が判明し、僕は何と言っていいかわからなくなった。
「だから俺はあの人の味方でいたい。とはいえ、お前の気持ちもわからんではない」
傷を見せることに緊張はあったのだろう。乾いた喉を潤すように鬼城さんは一息にグラスを傾けた。
「こうやって話してても俺はあの人の名前が出てこないし、顔も思い出せない。言っちゃなんだが、俺はけっこう人の顔覚えるの得意なんだぜ」
「知ってますよ」
そういった適性がないと、なかなか刑事課への異動は難しいだろう。
「それにな」
声をひそめ、鬼城さんは続けた。
「今の部署にいる先輩らなんて、その道何十年のプロだ。そういった人らが、調査室時代に俺と一緒にいたあの人のことを一ミリも覚えてないんだぜ」
それってやっぱり怖いんだよな、と締めて鬼城さんは空のグラスをテーブルに置いた。
先輩のことを話して以降の鬼城さんは、別れるまで人間の顔のままだったことが、妙に記憶に残っている。
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