第12-4話 赤供養④

 確か、コンビニは住宅地の入り口付近にあったはずだ。

 この公園からだと、歩いて五分もすればたどり着くだろう。往復で考えると、最大十分を僕はこの車内で一人で過ごさないといけないことになる。

 そこまで考え、僕は再び下を向いた。

 その時だ。


 ――ぺた


 音が聞こえた。

 平たくて湿っぽいものが窓に押しつけられたような音。いつも怪異は聴覚からやってくる。メリーさんの時も、幽霊パトカーの時も、あの奇妙な唄を奏でた携帯の時もそうだった。

 だから、顔を上げてはいけない。本能のレベルでそう思う。

 声を出すのも危険だ。気づかれてしまう。

 何に、なんてわからない。でも、ここには確かにがいる。少なくとも五人の人間を車中でバラバラに引き裂いたが。


 ぺたり

 ぺたぺたぺた


 音が増える。それに重なるように、キャッキャと嬉しそうな甲高い声が聞こえた。音源はわからない。声は三百六十度の全てから聞こえてくる。

 まるで赤ん坊が車の周りをぐるぐると回りながら、ガラス窓を叩いているようだった。いや、実際そうなのかもしれない。

 目を瞑る。自らが作った暗闇の中で、身体が沈み込む感覚を覚えた。

 それは車が縦に揺れたからだ。外部からの圧力で、地震のように空間がゆさっと沈む。ギシ、ギシと車体全体が軋んだ。音に耳を傾けていると、再びの縦揺れ。

 ぺたぺた、という音はまだ続いている。今度は窓ではなく、天井からも響きだした。

 母親のお腹にいる胎児は、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。

 くすくす、くすくすという笑い声。あどけないと表するにはあまりにも悪意のある昏い笑い声が、己の作った闇の中で反響する。耳を塞ぐが無意味だった。脳の皺を掻き分けるように、笑いが――あるいは嗤いがみ渡る。


 と。

 ぴたり、と声が止んだ。揺れも収まっている。しばらく待ってみたが、何も聞こえない。

 恐る恐る目を開ける。

 窓の外は、先ほどまでの狂騒が嘘のように静まり返っている。誰もいないし、何もない。ただ、うららかな秋の日差しが公園の遊具を柔らかに照らしていた。

 狐につままれたような気分で、瞬きを一つ。何も変わらない。

 納得のいかない気持ちの悪さを持て余していると、舞い落ちた紅葉が一枚、運転席側の窓を右上から左下へと横切る。

 何げなくその動きを目で追った僕は、ぎょっと目を見開いた。

 窓の左下。

 黒いゴム枠の縁に、白い手があった。

 まるで最初からそこにあったかのように、手は自然とそこにある。

 瞬きはおろか、目を逸らすこともできず、僕はただその白い手を見つめた。冷水でも浴びせられたように、頭がスゥッと冷える。

 止まる呼吸とは逆に、鼓動が早くなるのがわかった。硝子一枚を隔て、停止する景色。

 わずかでも身動きすれば、この危うい均衡が崩れてしまう気がした。

 外では、再び紅葉が降りしきっている。

 まるで桜の花弁のように、ひっきりなしに視界を横切る色彩が視界をくれない色に染め上げる。

 鮮やかな色の中、ぬらりと浮き上がる白い指。

 それは、赤子の手に似ていた。

 ぶよぶよとした、生白い肌。関節の判別もできぬ太短い指。膨らんだ掌。


 ――ぺた


 息を詰める僕の前で、さらに指が増えた。

 均衡が破られる。


 ぺた

 ぺた、ぺた

 ……


 あっという間に増えた手が、指が窓を埋め尽くした。

 赤が白に置き換わり、べたべたとした油で窓が白く曇る。

 声を上げなかったのは、我ながら上出来だったと思う。

 まぁ実際のところは、そんな余裕もなかったというのが正しいのだが。


 


 泡をくって身をのけ反らせたところで、今度は左――僕の座る助手席側の窓からも音が響いた。

 ついで、ばん! という振動。力一杯叩きつけられた白い手によって、車が再び上下に揺れる。

 見回すと、フロントガラスにもいつの間にか白い手がみっちりと詰まっていた。

 肉。死体じみた白い肉に埋め尽くされ、車内が暗くなる。

 ぎし、みし、と不吉な軋みが大きくなった。

 このままでは押し潰されるかもしれない。せめて何か武器になるものを、と考えて車内を見回す。その時、僕は自分がずっと左拳を握っていることに気がついた。

 硬い感触。鈍い輝き。

 開いた掌には、先輩に渡された指輪があった。

 そういえば、銀は魔除けのチカラがあると信じられているんだっけか……と、ぼんやり思い出す。

 暗闇で微かに光るそれを、僕は慎重に摘み上げた。掲げるように、目の高さにまで上げる。

 途端、軋みが止んだ。

 ひしめいていた白い肉も動きを止めている。

 ぼろり、と目の前で手の一つが剥がれ落ちた。


 ――指輪、ゆびわ

 ――けっこん、してる


 恨めしげな、あるいは寂しげな言葉が響く。

 あどけなさを残す舌足らずな幼い声が、滴るような怨嗟を紡いだ。


 ――パぱ、じゃぁないぃ


 怒りとも嘆きともつかぬ声と共に、手がぼたぼたと蠢き落ちていく。ソレは崩れたそばから中空で形を歪ませ、赤い紅葉へと変じていった。

 白の向こうから、見慣れた日常の風景が帰ってくる。


 紅葉の敷き詰められた赤い絨毯を踏み締めながら、黒い人が歩いてくるのが見えた。

 その姿に、涙が出そうなほどに安堵する。





 先輩が車にたどり着いた時には、既に赤子の手は綺麗さっぱり消えていた。あのおぞましさが、まるで夢幻ゆめまぼろしのようだったかのように。

「ただいま。って、どうかしたか?」

 怪訝な表情で尋ねられ、僕は首を振る。

「……何でも。何でもないんです」

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